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第三章 二人の冷戦編

58.リゼッタは王子の話を聞く

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「……ノア?」

暗い部屋の中に佇むのは確かにノアだった。
けれども、私の声にも燭台の灯りにも、何の反応も示さないのは彼らしくない。普段と違う様子に戸惑いながらも足を進める。座り込む彼の目の前まで来ても、ぼんやりとした顔を上げることはなかった。

「ねえ、どうしたの…?何で何も…」

肩に触れて問い掛けようとしたところ、その服がベッタリと濡れていることに気付き、灯りを持った手が震える。照らし出された右手は真っ赤に染まっていた。

雨にも打たれたのか、ぐしゃぐしゃになった髪は宝石のような真紅の瞳を隠していた。


「ノア!返事をして、何があったの…!?」

頬に手を添えて無理矢理に顔を覗き込むと、白い顔は今初めて私の存在に気付いたとでも言うように、ゆっくりと驚きの表情を作った。

「……ごめん、考えごとをしていた」
「医者を呼ぶわ。すぐに来てもらうから、」
「呼ばなくていい」
「ダメよ!こんなに血が出てる、急がないと…」
「リゼッタ!」

扉へ向かおうとすると、強い口調で名前を呼ばれて私は思わず立ち止まった。

「大丈夫だから、側に居て。何処にも行かないで」
「でも…!」
「この程度何でもない…本当だよ」

細く息を吐いて、ノアは再び視線を床に戻す。
私はどうするべきか迷いながら、とりあえずその言葉を信じて彼の足元に膝を突いて座り込んだ。傷の範囲や深さ、経過した時間、そもそも何があったのかなど、聞きたいことは山ほどある。しかし、そのどれも、今は答えを貰えそうにない。

私は自分が見た短い夢を思い出す。うなされるように見る夢の中で、ノアの背中を追いかけていた。手を伸ばすと消えてしまう煙のような姿。


「こうして向き合うのが、随分と遅くなった」
「……そうですね」
「少し長くなるけれど…聞いてくれる?」

返事の代わりに膝に置かれたノアの手を握った。
初めこそ、温室育ちの御坊ちゃまである筈の彼が、何故こんなにも生傷が絶えないのかと不思議に思っていた。腕に出来た新しい傷について尋ねた時は「皿を割った」なんて嘘で誤魔化されたりもした。

この手が、腕が、何人の命を殺めたのか。

私の元婚約者であるシグノー・ド・ルーシャや義両親のアストロープ子爵夫妻が含まれていることは想像するまでもない事実だけれど、きっと他にも私なんかが知り得ない数の亡者がノアの後ろには行列を作っているのだろう。


「全部綺麗にして来るっていう話だったね」
「そんなのただの例えで…!」
「悪いけど、出来そうにない。残りの人生すべてを掛けても無理かもしれない…俺はたぶん罪を重ね過ぎた」

人形のような顔で何処か遠くに語り掛けるように話す。
ぼんやりした様子とは対照的に、触れた手には強い力が入っていた。

「……どうしたら良い?」
「え?」
「君が望むような清廉潔白な状態には到底なれそうにない。でもリゼッタ、俺は君を失うなんて考えられないんだ」
「………、」
「信じられないかもしれないけれど、今までにこんなこと考えたことないよ。他人に興味なんてなかったし、アルカディアの王族ってだけで男女問わず、近くに寄って来た」

静かに紡がれる言葉を追いながら私は黙っていた。

昔、彼の弟であるルネに問われたことがある。「ノアが王子でなくても愛したのか?」と。幼い頃から兄と育ったルネは、ノアに群がる浅はかな女を腐るほど見て来た、と言っていた。それがどういった状態かは想像に容易く、内面ではなく外面や単なる地位だけで人に好かれるということが、どれだけ空虚でる瀬無いことなのかは理解できた。

若く、まだ男を知らない貞淑な女という条件だけで、私を選んだ隣国の元婚約者がそうであったように。初めから期待できない自分への愛を探すことは、辛く悲しいこと。


「君だけが、どうして違って見えるのか…分からなかった。大き過ぎる権力ではなく、俺のことを見てくれている気がした。一緒に居る間は重いよろいを脱いでも良いと思えた」
「……ノア、」
「酷いことしたって理解してる…本当にすまない。嫌ってくれて結構だし、赦さなくたって良い」

そこで暫く口を噤んでノアは押し黙った。

考え込む顔を見ながら、私は彼の腕の傷を心配していた。今こうして話している間にも痛みは増しているに違いない。大丈夫だと言う手前、何らかの処置はしているのだろうけれど、早く医者に診てもらった方が良いはずだ。


「リゼッタ、お願いだ……すべて君の望むようにするから、どうか俺の目が届く場所に居てほしい」

触れていた指先を大きな手が包み込んだ。顔を上げたノアの赤い瞳が私を捉える。瞬きすると、その透明な雫は床へ向かって落下した。

私は、初めて目にする彼の涙に言葉を失う。

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