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02 飯炊き女は契約を結ぶ

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 ネロ・マッキンリーについて知っていること。

 彼の実母である先代皇后は比較的身体が弱かったこともあり、ネロを産むと同時に息絶えた。残された先代皇帝はそれはそれは息子のことを大切に育て、戦場へ送り込むことはあっても、戻って来たネロのことを誰よりも先に抱き締めていたと聞く。

 若くして亡くなった妻の代わりにと呼ばれた現皇太后もまた、夫の意思を尊重した。皇帝が代替わりするまでは仲睦まじい親子関係が続いていたらしい。

 今はすべて撤去されてしまったが、先代が生きていた頃は廊下にはズラリと家族の写真が並び、純朴な目をした少年が年を経るにつれて屈強な戦士に変わりゆく姿を使用人たちは目にすることが出来た。

 鍛え抜かれた厚い胸板に相手を威嚇する鋭い眼差し。
 戦場で暴れる様は敵軍から「白いいかづち」と恐怖されるとか。


 さて、無駄な話はこのぐらいにして。
 そろそろ自分の身の上を心配した方が良いかもしれない。



「………えっと、つまり?」

「お前に俺のプライベートな時間を手伝ってほしい」

 大真面目にそう言う皇帝様を見てオリヴィアは息を呑む。

 約束の時間にそろりそろりとネロの部屋を訪れたところ、茶を出されて丁寧なおもてなしを受けた末にとんでもない提案をされている。プライベートな時間とは、いったい。

「ぷ…プライベート……?」

「つまり、昨日アレを見たなら分かると思うが、ここのところ忙しくて娼館へ行く時間がない。しかしながら、宮殿へ娼婦を呼ぶなんて出来ない」

「へ、陛下は私を娼婦のように使おうと仰るのですか!?」

 ビックリして思わず大声を上げるオリヴィアの口をパシッとネロが手で塞ぐ。

「そうではない。いや……そう思われても仕方がないんだが、俺はちょっと特殊な好みを持っていて……その……」

「恋人を探せば良いではありませんか!」

「それは正論なんだが………」

 言葉に詰まりながらネロはモゴモゴと言い淀み、ハッとしたように表情を硬くしてオリヴィアに「お前は恋人がいるのか?」と問うた。

 オリヴィアは大きく首を横に振る。

「居ません。今は仕事が楽しいので」

「そうか。ならば、尚のこと助けてほしいんだ」

「助ける?」

「上手く言えないんだが、俺は結構……あー、言葉で説明するのは難しいな。簡潔に言うと、少し一般から掛け離れた性癖を持っているんだ」

「それは使用人の名前を呼びながら自慰するとかそういう?」

「あれはべつに性癖は関係ない」

 追求しようとするオリヴィアの前で手をひらひらと振って、ネロは押し黙る。

 じゃあいったいどうして、この雇用主はオリヴィアの名前を呼んでいたのだろう。二人の間に大した面識はないので、同じ名前の何処かの令嬢のことかもしれない。とりあえずはそう考えて、心を宥めることにした。


「つまり陛下は私に夜伽を望んでらっしゃると?」

「申し訳ないが、そういうことだ」

「もっと適任がいらっしゃると思いますが……」

 言いながら考えるのは、同じように王宮で働く使用人の女たちの姿。

 鉄仮面と恐れられてはいるものの、わりと整った顔立ちのネロは密かにファンも多い。仮にも一国の王だし、自国の最高権力者が若く美貌に恵まれた男であるならば、取り入りたいと願う女は多く居るだろう。

「いや、お前が良い」

 オリヴィアの提案をネロは一蹴した。
 思わずドキッと心臓が高鳴る。

「これは父の教えだが、女の胸の大きさと口の硬さは比例するらしい。俺はもともと牛のような胸に興味はないが、それを聞いてから尚のこと敬遠するようになった」

「もしかして遠回しに罵倒されてます?」

「褒めてるんだ」

 げんなりした顔のオリヴィアを見てネロは少し口元を緩めた。

「一晩経ったがお前は昨日のことを言い触らしていない。こういう関係を結ぶ以上、約束は守れる相手が良い」

「左様でございますか」

 あまり褒められているとは思えなかったけれど、とりあえず頷いておいた。

 突拍子もない話だけど、ネロが提示してきた報酬はそれなりのものだったので、最終的にはオリヴィアは折れた。一晩相手をすれば得られる金額は、なんとオリヴィアの一週間の稼ぎに値する額だったのだ。

 頭の中には両親の顔が浮かんだ。
 決して裕福ではないバレット家の家計はいつも火の車で、とくに父が腕を怪我して料理人としての道を絶たれてからは絶望的だった。


 契約書にサインをして、朱印を付けた人差し指を押し当てる。
 皇帝の下に並ぶ自分の名前を見ると不思議な気分だった。

「それではオリヴィア、明日からよろしく頼む」

 オリヴィアはネロの瞳を見て小さく頷く。


 こうして、皇室の飯炊き女は契約の果てに主人にその身を差し出すことになった。

 この時は深く考えていなかったのだ。
 ネロの瞳に宿る青い炎が、いつか自分の心を焼き尽くすことになるなんて。



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