上 下
36 / 38
《第三章》あなたには前を向いていてほしい

第三十五話

しおりを挟む
 遼子りょうこ間宮まみやを会わせた翌日、別所べっしょは書類の山と向き合った。そうでもしなければ遼子がどんな決断をするのか気になって仕方がないからだ。
 好きだから、という単純な理由だけではない。遼子の人生に思いがけず触れてしまったこともだが、それ以外にも訳がある。
 仮に、ここを辞めたあと高崎たかさきのもとでかつての部下と一緒に働いても、それで遼子の心を縛り続けるものが消えてなくなるわけではない。いくら年を重ねても、どれほど困難を乗り越えてきても、心に突き刺さったままのトゲはなかなかなくならない。ふとしたときに存在を主張するかのようにより深く突き刺さり、痛みをもって心に傷を負った出来事を突きつけてくる。それを何度も経験している身としては遼子を案じずにいられないのだ。でもだからといって今の自分が彼女にできることは何もない。そのような現状がどうにも歯がゆいが、今は待つしかないのだと自分に言い聞かせながら、別所は仕事をしていたのだった。
「社長、やることが多いのはわかっていますが、少しだけでも休んでください」
 黙々と書類に目を通していたら岡田おかだの声が耳に入った。それに心が安らぐような香りが鼻を掠める。
「カモミールティに蜂蜜を入れました。お願いですから飲んでください」
「ああ、ありがとう」
 ペンを置き、差し出された白いマグカップに手を伸ばす。重みを手指に感じながら口元へ運び、湿り気を帯びた甘い香りを吸い込んだ。
「ホッとしますね」
 心を覆う不安が薄れたのか頬が勝手に緩んだ。温かい湯気とともに茶を含むと緊張していた体からこわばりが徐々に抜けていく。椅子の背もたれに体を預け、ふうと息をついた直後、側にいる岡田が言いにくそうに言った。
「社長、先日は申し訳ありませんでした」
「うん?」
 目線を上げて岡田の顔を見てみると、バツが悪そうな顔をしている。
「守るってなんですかと聞いたことです」
「答えは、見つかりましたか?」
 ほほ笑んで問いかけたら、
「いえ、まだ。でも、吉永よしながと自分たちの将来について話し合うことができました。それで、その……」
 今度は気恥ずかしそうにしている。なんとなくだが、喜ばしい報告のような気がした。心躍らせながらそのときを待っていたら、視線の先で岡田は居住まいを正した。
「吉永と結婚します」
 岡田は胸を張って、はっきり言った。
「そうか、良かった。君たちがどんな話をしてどのような結果にたどり着いたのかはわからないけれど一人相撲しないよう気をつけてくださいね。離婚を経験した男からのアドバイスです」
 自分だけのことならまだいい。が、共に暮らす相手がいるのなら、すべてとはいかないまでも意思の確認や意識の共有は大事なことだ。たとえ違った考えであっても、話し合うことで二人は同じ方向に目を向けられるだろうから。ただ結婚を決めたからと言って、すぐにすべてできなくてもいい。赤ん坊が言葉を一つ一つ覚えていくように、時間を掛けて自分たちらしい夫婦という形を作り上げることこそ大事なのだから。岡田と深雪みゆきの幸せを願いつつほほ笑むと、
「わかりました」
 岡田の表情がきりっと引き締まった。

 嬉しい報告を聞いたあとの昼食はおいしく感じた。だが、昼休みを終えてすぐ、別所は現実に引き戻された。決裁書類を持ってきた深雪が、遼子の様子が朝からおかしいと口にしたからだ。出勤したあとからずっと何かを考え込んでいるという。
 遼子が思案し続けている理由として考えられるのは一つしかない。昨日元の部下と会って今後の身の振り方をどうしたものか考えているからで間違いないが、それだけだろうか?
 不意に疑念が生じたが、別所はおくびにも出さなかった。
「今日一日、様子を見てもらえませんか? もしも明日も同じようなら話をしてみます」
 心配そうな深雪を安心させるべく笑みを作ったものの本音を言えば不安だ。しかし待とうと言った手前明日まで様子を見るしかない。別所は胸に広がる不安を押さえ込み、もういちど深雪にほほ笑んだ。その後気掛かりなことが脳裏をよぎるたび、仕事の手が止まったが、どうにかしてやるべきことを終えられた。とっぷりと日が暮れた頃、そろそろ帰ろうと支度をしていたら、社長室のドアをノックする音がした。椅子の背もたれに掛けていたコートから手を引いて、机の上に置いている時計に目を走らせたら十九時になろうとしていた。
「どうぞ」
 残業している社員だろう。何かあったのだろうか。そう思いつつ応じたら、
麻生あそうです」
 扉の向こうから遼子の声がした。
「お入りください」
 先ほど深雪から聞いた話が脳裏を掠める。首に巻いたカシミアのマフラーを取り外し、ドアに足を向ける。
「失礼します」
 そろそろと部屋に入ったとたん、遼子の目が大きくなった。
「あ……。お帰りされる時間でしたね、すみません。じゃあ――」
「かまいませんよ。その代わり夕食に付き合ってください」
 詫びる遼子の言葉を遮って「交換条件」を提示したら、彼女はホッとしたような顔をしたのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜 神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。 舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。 専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。 そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。 さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。 その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。 海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。 会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。 一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。 再会の日は……。

王太子殿下の執着が怖いので、とりあえず寝ます。【完結】

霙アルカ。
恋愛
王太子殿下がところ構わず愛を囁いてくるので困ってます。 辞めてと言っても辞めてくれないので、とりあえず寝ます。 王太子アスランは愛しいルディリアナに執着し、彼女を部屋に閉じ込めるが、アスランには他の女がいて、ルディリアナの心は壊れていく。 8月4日 完結しました。

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

【R18】かわいいペットの躾け方。

春宮ともみ
恋愛
ドS ‪✕ ‬ドM・主従関係カップルの夜事情。 彼氏兼ご主人様の命令を破った彼女がお仕置きに玩具で弄ばれ、ご褒美を貰うまでのお話。  *** ※タグを必ずご確認ください ※作者が読みたいだけの性癖を詰め込んだ書きなぐり短編です ※表紙はpixabay様よりお借りしました

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

【完結】悪女のなみだ

じじ
恋愛
「カリーナがまたカレンを泣かせてる」 双子の姉妹にも関わらず、私はいつも嫌われる側だった。 カレン、私の妹。 私とよく似た顔立ちなのに、彼女の目尻は優しげに下がり、微笑み一つで天使のようだともてはやされ、涙をこぼせば聖女のようだ崇められた。 一方の私は、切れ長の目でどう見ても性格がきつく見える。にこやかに笑ったつもりでも悪巧みをしていると謗られ、泣くと男を篭絡するつもりか、と非難された。 「ふふ。姉様って本当にかわいそう。気が弱いくせに、顔のせいで悪者になるんだもの。」 私が言い返せないのを知って、馬鹿にしてくる妹をどうすれば良かったのか。 「お前みたいな女が姉だなんてカレンがかわいそうだ」 罵ってくる男達にどう言えば真実が伝わったのか。 本当の自分を誰かに知ってもらおうなんて望みを捨てて、日々淡々と過ごしていた私を救ってくれたのは、あなただった。

処理中です...