上 下
35 / 38
《第三章》あなたには前を向いていてほしい

第三十四話

しおりを挟む
「これから、どうします?」
 高崎たかさきの声が耳に入り遼子りょうこはハッとした。声がしたほうへ目をやると、彼は窓際にたたずんでいる。
 間宮まみやと久しぶりに顔を合わせたのは嬉しかったが、自分が富沢とみざわ事務所を辞めたあとの話を聞かされ複雑な気分だ。愛想笑いで応えることも、これからのことなど考えられないほどに。
 自分が退所したあと、かつて担当していたクライアントはすべて間宮に託したはずなのに別れた夫が奪ってしまった、と思っていたのに事実はそうではない。自分を守るために結託したクライアントは高桑を顧問弁護士としたが、三年という時間を掛けて契約を打ち切る算段だったと間宮は言った。そしてすべてのクライアントが高桑たかくわを顧問弁護士に据えた直後から、ひとつまたひとつと契約を切り始めたという。そんなことが自分が知らないところで起きていると思いもしなかっただけに驚いた。同時に逃げるように事務所を辞めたことを心から悔いた。自分がもう少し堪えられたなら、間宮はもちろん世話になった企業に面倒を掛けずに済んだし、一連の出来事も起きなかったはずだから。後悔が心に広がり、遼子は高崎からつい目をそらす。
「って聞いても今は何も考えられないと思います。私もそうでしたし」
「え?」
 苦笑いする高崎に目を向けながら遼子は戸惑う。
麻生あそう先生に起きたことほどではないですが、私も、まあ、いろいろありまして」
 言いながら高崎は、向かいのソファに腰を下ろした。
「ここ、元々は親父の事務所なんです。十年ほど前に私が継ぐことになったんですが主要なスタッフが全員辞めてしまいまして」
「どうして、です?」
「人望も信用もなかったからですよ。世話になった親父の息子であっても、軽薄な男の下で働きたくないってことです。だからこれはある意味、自業自得なんですが、麻生先生の場合は明らかに人災だ」
 自分の身に何が起きて今ここにいるのか。ある程度ではなく詳細に知っている高崎に言わせれば「人災」らしい。そうではないと口にしようとしたら、高崎がにやりと笑った。
「まさかとは思いますが、自分がもう少し踏ん張っていたらこんなことにはなっていないとか考えていませんよね?」
 図星だ。意表を突かれ遼子は開いた口を閉ざす。
「富沢さんも認めましたよ。高桑氏には非があったと。でも高桑氏だけが悪いわけじゃない」
 遼子は高崎を凝視した。
「競争は適度であれば刺激になるが度が過ぎれば人間を壊す。ふだんは冷静沈着を絵に描いたような有能な弁護士を物事の分別ができなくなるほど追いつめて弁護士として夫として一線を越えさせたのは富沢さんです」
「わかっています」
 そう、だから高桑が何を言ってきても耐え続けた。でもすぐに限界を迎えてしまい家を出たし、自分の心を守るためだと言い聞かせ脅すような真似をして離婚した。
「でもね、どのような事情があったとしても、あなたの悪評を広めて回った高桑氏の行為は許されることじゃない」
 どのような事情があったとしても?
 すっきりしない物言いが引っかかる。遼子は高崎を怪訝な顔で見た。
「どうして高桑氏があなたの悪評を広めていたか知りたいですか?」
「え、ええ……」
 ためらいながら答えると、
「あなたが担当していたクライアントの中に、あなたを富沢事務所から独立させようと画策していた人間が複数名いたからですよ。つまり富沢さんにとってあなたは目の上のたんこぶだったんです。万が一独立したら、その当時あなたが抱えていたクライアントは皆ついていく。それにもしかしたら高桑氏もと考えたんでしょうね。だから富沢さんは高桑氏にプレッシャーを与えた」
「プレッシャー……、ですか」
「ええ。高桑氏を煽って、あなたの仕事を奪うよう仕向けたんです。富沢さんはここまでは認めました」
 遼子は目を見開いた。
 たしかに受け流してはいたものの、クライアントたちから独立開業を勧められたことがあるし、高桑に笑い話として話したことがあった。それを富沢は真に受けたのだろう。それにおそらく、もしも自分が独立したらどうするかなどと高桑に聞いたに違いない。
 振り返ってみれば企業の人間から独立したらどうかと言われた時期と、自分か高桑がシニアに昇格するという話が出たのはほぼ同じ時期だ。ということは、昇格の話は自分と高桑を事務所につなぎ止めるためのものだったということになる。あくまでも推測だが。
「そういうことでしたか……」
 高崎の話を聞いて納得できる部分はあるが、でもすっきりしない。
 どうして高桑はシニアの地位に固執していたのか。どうして自分に対しモラルハラスメントを行ったのかがわからない。なぜなら、どちらも自分が知るかつての高桑ではないからだ。それにもう一つずっと引っかかっていたことがある。
 間宮が言うには、退所する際高桑に引き留められたという。仕事を奪った相手をなぜ自分の部下として留め置こうとしたのだろう。
「モヤっとしていますよね」
「え?」
 思案していたら高崎の声が耳に入った。
「大本には図太い釘を刺したので、もう二度と間宮と麻生先生には関わることはないでしょう。でも、それで解決というわけではなさそうだし、あとは麻生先生にお任せします。高桑氏に会って彼がなぜ愚行に走ったのか真意を聞くのもよし、モヤモヤは頭から追い出してこの先のことを考えるのもよし」
 遼子は耳を疑った。自分に提示した選択肢の中に高桑に真意を聞くというものを高崎が入れた理由がわからなかったからだ。高崎に目を向けつつ、彼の意図を読もうとしたが無駄だった。
「ただね、どのような選択をするにせよ、麻生先生には過去に囚われてほしくない。これからのことを考えてほしいし、できることならここで間宮を育ててほしいんです。あなたが後悔と罪悪感を抱えていた時間の分だけ。それが私の本音です」
 言い終えた高崎の表情は、とても柔和な笑みだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

記憶のない貴方

詩織
恋愛
結婚して5年。まだ子供はいないけど幸せで充実してる。 そんな毎日にあるきっかけで全てがかわる

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

処理中です...