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《第三章》あなたには前を向いていてほしい
第三十四話
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「これから、どうします?」
高崎の声が耳に入り遼子はハッとした。声がしたほうへ目をやると、彼は窓際にたたずんでいる。
間宮と久しぶりに顔を合わせたのは嬉しかったが、自分が富沢事務所を辞めたあとの話を聞かされ複雑な気分だ。愛想笑いで応えることも、これからのことなど考えられないほどに。
自分が退所したあと、かつて担当していたクライアントはすべて間宮に託したはずなのに別れた夫が奪ってしまった、と思っていたのに事実はそうではない。自分を守るために結託したクライアントは高桑を顧問弁護士としたが、三年という時間を掛けて契約を打ち切る算段だったと間宮は言った。そしてすべてのクライアントが高桑を顧問弁護士に据えた直後から、ひとつまたひとつと契約を切り始めたという。そんなことが自分が知らないところで起きていると思いもしなかっただけに驚いた。同時に逃げるように事務所を辞めたことを心から悔いた。自分がもう少し堪えられたなら、間宮はもちろん世話になった企業に面倒を掛けずに済んだし、一連の出来事も起きなかったはずだから。後悔が心に広がり、遼子は高崎からつい目をそらす。
「って聞いても今は何も考えられないと思います。私もそうでしたし」
「え?」
苦笑いする高崎に目を向けながら遼子は戸惑う。
「麻生先生に起きたことほどではないですが、私も、まあ、いろいろありまして」
言いながら高崎は、向かいのソファに腰を下ろした。
「ここ、元々は親父の事務所なんです。十年ほど前に私が継ぐことになったんですが主要なスタッフが全員辞めてしまいまして」
「どうして、です?」
「人望も信用もなかったからですよ。世話になった親父の息子であっても、軽薄な男の下で働きたくないってことです。だからこれはある意味、自業自得なんですが、麻生先生の場合は明らかに人災だ」
自分の身に何が起きて今ここにいるのか。ある程度ではなく詳細に知っている高崎に言わせれば「人災」らしい。そうではないと口にしようとしたら、高崎がにやりと笑った。
「まさかとは思いますが、自分がもう少し踏ん張っていたらこんなことにはなっていないとか考えていませんよね?」
図星だ。意表を突かれ遼子は開いた口を閉ざす。
「富沢さんも認めましたよ。高桑氏には非があったと。でも高桑氏だけが悪いわけじゃない」
遼子は高崎を凝視した。
「競争は適度であれば刺激になるが度が過ぎれば人間を壊す。ふだんは冷静沈着を絵に描いたような有能な弁護士を物事の分別ができなくなるほど追いつめて弁護士として夫として一線を越えさせたのは富沢さんです」
「わかっています」
そう、だから高桑が何を言ってきても耐え続けた。でもすぐに限界を迎えてしまい家を出たし、自分の心を守るためだと言い聞かせ脅すような真似をして離婚した。
「でもね、どのような事情があったとしても、あなたの悪評を広めて回った高桑氏の行為は許されることじゃない」
どのような事情があったとしても?
すっきりしない物言いが引っかかる。遼子は高崎を怪訝な顔で見た。
「どうして高桑氏があなたの悪評を広めていたか知りたいですか?」
「え、ええ……」
ためらいながら答えると、
「あなたが担当していたクライアントの中に、あなたを富沢事務所から独立させようと画策していた人間が複数名いたからですよ。つまり富沢さんにとってあなたは目の上のたんこぶだったんです。万が一独立したら、その当時あなたが抱えていたクライアントは皆ついていく。それにもしかしたら高桑氏もと考えたんでしょうね。だから富沢さんは高桑氏にプレッシャーを与えた」
「プレッシャー……、ですか」
「ええ。高桑氏を煽って、あなたの仕事を奪うよう仕向けたんです。富沢さんはここまでは認めました」
遼子は目を見開いた。
たしかに受け流してはいたものの、クライアントたちから独立開業を勧められたことがあるし、高桑に笑い話として話したことがあった。それを富沢は真に受けたのだろう。それにおそらく、もしも自分が独立したらどうするかなどと高桑に聞いたに違いない。
振り返ってみれば企業の人間から独立したらどうかと言われた時期と、自分か高桑がシニアに昇格するという話が出たのはほぼ同じ時期だ。ということは、昇格の話は自分と高桑を事務所につなぎ止めるためのものだったということになる。あくまでも推測だが。
「そういうことでしたか……」
高崎の話を聞いて納得できる部分はあるが、でもすっきりしない。
どうして高桑はシニアの地位に固執していたのか。どうして自分に対しモラルハラスメントを行ったのかがわからない。なぜなら、どちらも自分が知るかつての高桑ではないからだ。それにもう一つずっと引っかかっていたことがある。
間宮が言うには、退所する際高桑に引き留められたという。仕事を奪った相手をなぜ自分の部下として留め置こうとしたのだろう。
「モヤっとしていますよね」
「え?」
思案していたら高崎の声が耳に入った。
「大本には図太い釘を刺したので、もう二度と間宮と麻生先生には関わることはないでしょう。でも、それで解決というわけではなさそうだし、あとは麻生先生にお任せします。高桑氏に会って彼がなぜ愚行に走ったのか真意を聞くのもよし、モヤモヤは頭から追い出してこの先のことを考えるのもよし」
遼子は耳を疑った。自分に提示した選択肢の中に高桑に真意を聞くというものを高崎が入れた理由がわからなかったからだ。高崎に目を向けつつ、彼の意図を読もうとしたが無駄だった。
「ただね、どのような選択をするにせよ、麻生先生には過去に囚われてほしくない。これからのことを考えてほしいし、できることならここで間宮を育ててほしいんです。あなたが後悔と罪悪感を抱えていた時間の分だけ。それが私の本音です」
言い終えた高崎の表情は、とても柔和な笑みだった。
高崎の声が耳に入り遼子はハッとした。声がしたほうへ目をやると、彼は窓際にたたずんでいる。
間宮と久しぶりに顔を合わせたのは嬉しかったが、自分が富沢事務所を辞めたあとの話を聞かされ複雑な気分だ。愛想笑いで応えることも、これからのことなど考えられないほどに。
自分が退所したあと、かつて担当していたクライアントはすべて間宮に託したはずなのに別れた夫が奪ってしまった、と思っていたのに事実はそうではない。自分を守るために結託したクライアントは高桑を顧問弁護士としたが、三年という時間を掛けて契約を打ち切る算段だったと間宮は言った。そしてすべてのクライアントが高桑を顧問弁護士に据えた直後から、ひとつまたひとつと契約を切り始めたという。そんなことが自分が知らないところで起きていると思いもしなかっただけに驚いた。同時に逃げるように事務所を辞めたことを心から悔いた。自分がもう少し堪えられたなら、間宮はもちろん世話になった企業に面倒を掛けずに済んだし、一連の出来事も起きなかったはずだから。後悔が心に広がり、遼子は高崎からつい目をそらす。
「って聞いても今は何も考えられないと思います。私もそうでしたし」
「え?」
苦笑いする高崎に目を向けながら遼子は戸惑う。
「麻生先生に起きたことほどではないですが、私も、まあ、いろいろありまして」
言いながら高崎は、向かいのソファに腰を下ろした。
「ここ、元々は親父の事務所なんです。十年ほど前に私が継ぐことになったんですが主要なスタッフが全員辞めてしまいまして」
「どうして、です?」
「人望も信用もなかったからですよ。世話になった親父の息子であっても、軽薄な男の下で働きたくないってことです。だからこれはある意味、自業自得なんですが、麻生先生の場合は明らかに人災だ」
自分の身に何が起きて今ここにいるのか。ある程度ではなく詳細に知っている高崎に言わせれば「人災」らしい。そうではないと口にしようとしたら、高崎がにやりと笑った。
「まさかとは思いますが、自分がもう少し踏ん張っていたらこんなことにはなっていないとか考えていませんよね?」
図星だ。意表を突かれ遼子は開いた口を閉ざす。
「富沢さんも認めましたよ。高桑氏には非があったと。でも高桑氏だけが悪いわけじゃない」
遼子は高崎を凝視した。
「競争は適度であれば刺激になるが度が過ぎれば人間を壊す。ふだんは冷静沈着を絵に描いたような有能な弁護士を物事の分別ができなくなるほど追いつめて弁護士として夫として一線を越えさせたのは富沢さんです」
「わかっています」
そう、だから高桑が何を言ってきても耐え続けた。でもすぐに限界を迎えてしまい家を出たし、自分の心を守るためだと言い聞かせ脅すような真似をして離婚した。
「でもね、どのような事情があったとしても、あなたの悪評を広めて回った高桑氏の行為は許されることじゃない」
どのような事情があったとしても?
すっきりしない物言いが引っかかる。遼子は高崎を怪訝な顔で見た。
「どうして高桑氏があなたの悪評を広めていたか知りたいですか?」
「え、ええ……」
ためらいながら答えると、
「あなたが担当していたクライアントの中に、あなたを富沢事務所から独立させようと画策していた人間が複数名いたからですよ。つまり富沢さんにとってあなたは目の上のたんこぶだったんです。万が一独立したら、その当時あなたが抱えていたクライアントは皆ついていく。それにもしかしたら高桑氏もと考えたんでしょうね。だから富沢さんは高桑氏にプレッシャーを与えた」
「プレッシャー……、ですか」
「ええ。高桑氏を煽って、あなたの仕事を奪うよう仕向けたんです。富沢さんはここまでは認めました」
遼子は目を見開いた。
たしかに受け流してはいたものの、クライアントたちから独立開業を勧められたことがあるし、高桑に笑い話として話したことがあった。それを富沢は真に受けたのだろう。それにおそらく、もしも自分が独立したらどうするかなどと高桑に聞いたに違いない。
振り返ってみれば企業の人間から独立したらどうかと言われた時期と、自分か高桑がシニアに昇格するという話が出たのはほぼ同じ時期だ。ということは、昇格の話は自分と高桑を事務所につなぎ止めるためのものだったということになる。あくまでも推測だが。
「そういうことでしたか……」
高崎の話を聞いて納得できる部分はあるが、でもすっきりしない。
どうして高桑はシニアの地位に固執していたのか。どうして自分に対しモラルハラスメントを行ったのかがわからない。なぜなら、どちらも自分が知るかつての高桑ではないからだ。それにもう一つずっと引っかかっていたことがある。
間宮が言うには、退所する際高桑に引き留められたという。仕事を奪った相手をなぜ自分の部下として留め置こうとしたのだろう。
「モヤっとしていますよね」
「え?」
思案していたら高崎の声が耳に入った。
「大本には図太い釘を刺したので、もう二度と間宮と麻生先生には関わることはないでしょう。でも、それで解決というわけではなさそうだし、あとは麻生先生にお任せします。高桑氏に会って彼がなぜ愚行に走ったのか真意を聞くのもよし、モヤモヤは頭から追い出してこの先のことを考えるのもよし」
遼子は耳を疑った。自分に提示した選択肢の中に高桑に真意を聞くというものを高崎が入れた理由がわからなかったからだ。高崎に目を向けつつ、彼の意図を読もうとしたが無駄だった。
「ただね、どのような選択をするにせよ、麻生先生には過去に囚われてほしくない。これからのことを考えてほしいし、できることならここで間宮を育ててほしいんです。あなたが後悔と罪悪感を抱えていた時間の分だけ。それが私の本音です」
言い終えた高崎の表情は、とても柔和な笑みだった。
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