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《第三章》あなたには前を向いていてほしい

第二十七話

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別所べっしょさんに会わせたい人がいます」
 高崎から連絡が入ったのは、富貴子ふきこの見舞いに行った日の翌日のことだった。別所は仕事を終えて、岡田に遼子を自宅まで送り届けるよう言付けしてから高崎のもとへ向かった。
 高崎の事務所は横浜にある。繁華街にほど近い雑居ビルにあった。エレベーターはなく階段で最上階である三階まで上がるしかない。これから顔を合わせる人間が誰か見当がつかないこともあり落ち着かない気持ちで一歩一歩足を進めているうちに事務所のドアが見えてきた。居住まいを正し扉を開く。すると若い女性の声がした。
「いらっしゃいませ。別所さまですね?」
「え? あ、はい」
 いきなり名を呼ばれ戸惑いながら返事をすると、
「お部屋に御案内させていただきます。こちらへどうぞ」
 紺色のワンピース姿の女性が案内を始めた。
 高崎の事務所は若いスタッフが多かった。四つの円形テーブルがあり、そこで弁護士と思われるスーツ姿の男性とジーンズに明るい色合いのネルシャツを着た女性がラップトップの画面を見ながら打ち合わせをしていた。それに書類を作成しているのも学生と言って良いほど若いように見えた。
『人手が足りないので法学部の学生にアルバイトしてもらおうかなって思ってます。そうすれば実務も学べるし、運が良ければインターンとして働いてくれるかもしれないし』
 高崎は仕事以外の話はほとんど口にしなかったが、一度だけ漏らしたものがある。それは弁護士であり法律事務所を経営していた実父のあとを継ぐことを決めた直後、それまで勤務していた事務方がこぞって退職したことだ。それで高崎は、自身の母校である大学の法学部を中心に事務のアルバイトを募集すると言っていたから、今ここで働いているスタッフの多くは学生なのだろう。生き生きと働く若者たちの姿を眺めつつ奥へ向かうと個室があった。
 案内してくれた女性がドアをノックする。「はーい」と高崎の明るい声がした。
「どうぞ中にお入りください」
 かのうと書かれたプレートを胸にしている女性が扉を開く。その向こうには水色のスーツ姿の女性と高崎が待っていた。
「すみません別所さん、こちらに来ていただいて」
 ダークグレーのスーツを着込んだ高崎が近づいてきた。
「いえいえ。それで、こちらの方は?」
 別所は高崎から見知らぬ若い女性に目線を向ける。すると予想外の言葉が返ってきた。
「数日前からうちで働いてくれている弁護士で、彼女はかつて麻生先生の部下でした」
 
 間宮淑子まみやとしこと名乗った弁護士は、遼子の補佐をしていたという。遼子のもとで実務を学びながらサポートをしていたようだった。
 効率良く働く弁護士が多いなか、遼子は時間を掛けて顧問先の企業の担当者たちと向き合い続けていたらしい。不器用といえばそれまでだが、どのような問題が起きてもビジネスライクに処理するのではなく、親身になって対処する姿勢に好感を抱くクライアントが多かったということだった。
「そんな遼子先生のもとで仕事を学べたのは幸運でした」
 それだけに遼子の突然の退所は驚き以外なにものでもなかったらしい。
「とにかく急でした。でも……、驚いた一方でやっぱりかと……」
「遼子先生が退所された理由に心当たりがあるんですか?」
 表情を曇らせた間宮に聞いたところ、彼女は目線を下げた。
「辞められる少し前から様子がおかしかったんです。それまでどんなに忙しくてもため息なんかついていなかったのに……。塞ぎ込んでいるように私は感じました」
 間宮の話によると、そのあたりからクライアントのもとへ行く際、遼子一人で行くようになったという。
「それまではご一緒させていただいていたんです。でも、その頃から自分一人で行くからと……」
「おそらくその辺りでしょう。高桑たかくわ氏が麻生先生の悪評を言いふらし始めたのは」
 間宮は大きく見開いた目を隣席の高崎に走らせた。
「ど、どうして、ご存じなんです?」
「麻生先生と話をする前にある程度の調査をしたんですよ。どんな弁護士だったのか、クライアントからの評判はどうだったとか。それで小耳に挟んだだけです。さあ、話を続けてください」
 間宮に向けたほほ笑みは一見柔和に見えるが、細めた目は笑ってなどいなかった。間宮は言いにくそうに切り出す。
「……その頃、高桑先生か遼子先生、どちらかがシニアパートナーになるという噂があったんです。推測ですが、高桑先生はそれで遼子先生の足を引っ張ろうとしたのではないかと……」
「そういうことか……」
 高崎がため息交じりに漏らした。
「遼子先生が辞められたのはパートナー会議の直前でした。私の友人が事務所代表の秘書をしているのですが、彼女から聞いた話だと遼子先生がシニアになることが決まっていたそうです。でも……」
「麻生先生は退所してしまった」
 高崎が言うと、
「はい……」
 間宮は返事したあと再び話し始めた。
「高桑先生と離婚されたのは退所される少し前でした。遼子先生が事務所をお辞めになってすぐ、高崎先生はシニアに昇格されました。もう……、三年前のことです」
「なるほど、麻生先生が前の事務所を辞めた経緯もわかったことだし、もう一つ教えてくれるとうれしい」
 高崎が間宮ににっこりとほほ笑んだ。昔と変わらない、屈託のない笑顔だった。
「なんでしょうか?」
「ありがとう。高桑氏が麻生先生に事務所へ戻るようしつこく言ってる理由を知っているのなら、教えてくれるかな? 実はそれこそが俺も別所さんも一番知りたいことなんだ」
 高崎が真面目な顔を向けたところ、間宮は表情をこわばらせた。
「……わかり、ました。私が知っていることをすべてお話します」
 間宮は、高崎と自分が知りたいことを知っている。無意識のうちに体に力が入ったのだった。
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