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《第三章》あなたには前を向いていてほしい

第二十六話

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「あら」
 別所べっしょと揃って病室へ入るなり、ベッドで体を起こしていた富貴子ふきこがほほ笑みを向けてきた。
「富貴子さん、こんにちは」
「こんにちは、別所さん」
 病院の廊下と病室を隔てるドアの前に立つまで別所を連れてきて良かったのか思い悩んだものだが、明るい声で挨拶を交わす二人の姿を目にし遼子りょうこは胸をなで下ろす。
「何を手土産にしたらいいのか迷いましたが、富貴子さんが好きなスティックタイプの水ようかんにしました」
「ありがとうございます。ちょうど甘いものが食べたくなっていたから本当に嬉しいわ」
 富貴子は、明るい笑顔で紙袋を受け取った。
 来る途中で買い求めた老舗の水ようかんはスティックタイプのもので、手軽に食べられるからと富貴子はよく買っていたらしい。甘さ控えめでさっぱりとした口当たりなのだと別所は教えてくれた。
「遼子さんからお話は伺いました。お加減はいかがです?」
 ベッド脇に置かれた椅子を二つ引き寄せながら別所が富貴子に問いかけた。遼子が座る椅子を用意したあと彼は自分自身のものに腰を下ろす。
「絶好調とは言えないけれど悪くはないの。明日で最初の治療が終わるので、その後の体調を見て退院ですって」
「そう、よかった」
 なんとなくだが、二人は当たり障りのない会話をしているような気がした。
 付き合いが長いはずの彼らが距離を置いているような、うわべだけのやりとりをしている理由で思い浮かぶものはない。話を聞きながら様子を見ていたら、あることに気がついた。
 富貴子と別所は互いに笑みを浮かべているが、相手に向けるまなざしは鋭い。それぞれ言うに言えないものを目線で伝え合っているように見えた。
 別所と富貴子、二人の本音がわかるだけにしんどい。が、昨日の出来事に比べたら耐えられる範囲だ。高桑たかくわを再び前にしたとたん、苦しくてつらい日々の記憶が蘇り、なにかに飲み込まれてしまいそうだった。昔のように全身がこわばり、喉が引きつって声を出せないまま立ち尽くしていたら別所が現れ、高桑から自分を離してくれた。それだけでなく何も聞かずふだん通り優しく接してくれたから申し訳ない気持ちになってしまった。
 別所は何も知らない。高桑が離婚した夫であることや、彼がなぜ何度も自分に会いに来ているのかを。それらを知らないまま巻き込んでしまった心苦しさに耐えきれず打ち明けたのをきっかけにして、記憶の淵に沈めたはずの記憶が脳裏に次々と浮かび、ついに耐えきれなくなった。
 高桑はとにかく論破しようとする男だった。相手にきちんと主張する姿がかつてはまぶしく見えていたときもあったが、いざ対峙してみると自身の考えこそが正しいと信じて疑わず、それに意見しようものならナイフのような鋭い言葉で攻撃してくる。そんな厳しい言葉の数々を向けられ続けた結果、高桑を前にしたときに限って何も言えなくなってしまった。それに自分の考えというものに自信を持てなくなってしまい仕事にも支障が出るようになったのだ。
 弁護士はクライアントを守ってなんぼの仕事。それなのに弱腰になってしまい、結果依頼人にとって最良の結果を出せなくなったことで負い目を感じる日々が続いた。
 このままでは守るべき相手に迷惑を掛けてしまう、そう痛感したから事務所を辞めて企業内弁護士という道を選ぼうとした。それなら高桑より前に出ることはない、そう思ってのことだったがクライアントの一人である篠田しのだに相談している間に限界が来た。
 心を決めて高桑に離婚を申し出たところ一蹴された。そうなることはわかっていたので家を出た。その後、あらかじめ録音しておいた会話を「婚姻を継続し難い重大な事由」の証拠として裁判所へ提出すると高桑に内容証明を送付し、やっと離婚が成立した。ところが新たな問題が発生した。高桑が事務所のスタッフたちに「離婚された哀れな男」という姿を見せ始めたのだ。
 当然皆からは「もう一度話し合った方がいい」と言われた。何も知らないくせにと内心で思いながら苦笑いする日々のなか、事務所の中での自分の居場所がどんどんなくなっていった。そしてついに事務所を退所することを決めた。その後いろいろなことがあった。現在に至るまでを追想しているうちに、窓の向こうは暗がりになっていた。
「さて、お元気な姿を拝見したことですし、我々はそろそろ引き上げます」
 別所の声が耳に入った。視線を窓から別所に移したら、彼は腰を上げていた。
「今日は来てくれて本当にありがとう」
「いえいえ。あとは富貴子さんにお任せします。ではこれで」
 そう言って、別所はほほ笑んだ。
 
「本当にこれでよかったのかな……」
 病院を出て帰路についていると、隣を歩く別所が漏らした。目をやると沈んだ表情を浮かべている。
「本音を言えば、篠田に話すべきだ。そう言いたかったんです。でも……、冷たい言い方かもしれませんが、所詮は自分ではない相手が決めたことです。僕が知らないところでいろいろあって、それで富貴子さんが決断したことだから意見するべきではないとも思っています」
 でも、と別所は続ける。
「夫婦って、なんなんでしょうね……」
「え?」
「相手に心配を掛けたくないからなんでしょうけれど、あとで知った相手はショックを受けるんです。自分たちは夫婦なのにどうして教えてくれなかったんだろう、って」
 目線の先で、別所が表情を曇らせた。
 手を繋いで一緒に道を歩いていたはずなのに、いつの間にか手が離れていた。そのことに気づいたときの心細さやさみしさは筆舌に尽くしがたいものがある。富貴子の治療入院を知ったとき、別所が危惧したとおり篠田はショックを受けるに違いない。
 本当に、夫婦ってなんなんだろう。遼子は何も言えないまま心の中で自問しながら別所の隣を歩き続けた。
 自宅があるマンション前で別所と別れ、建物に入ってすぐのところにある郵便受けをチェックするとはがきが届いていた。
 差出人はかつての部下の間宮まみや。エレベーターホールへ向かいながら書かれているものを目にし遼子は足をピタリと止めた。あの事務所から高崎たかさき事務所に移ったと見慣れた字で書かれていたからだった。
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