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《第一章》あなたが好きです

第十三話

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そうか、そういうことがあったのか……」
 スマホのスピーカーの向こうから、篠田しのだが漏らした湿っぽいため息が聞こえてきた。ため息は機械を通してでも伝染するらしく、別所べっしょは沈んだ表情で深い息をつく。
「焦りすぎたのかもしれないな。もう、一か月を切っているし」
 遼子りょうこが去る日が近づくごとに気が急いたのは事実だし、日に日に募る思いを伝えることしか考えていなかった。そんな独りよがりな行動をとった自分に呆れてしまい、別所は目線を落とす。
「……焦る気持ちもわからんでもないが……」
「結果として、僕は自分の思いを押しつけてしまったんだろうね。彼女には申しわけないことをしてしまった」
 心苦しさに耐えながらベランダの向こうに目をやると、見慣れた景色が広がっていた。秋から冬にかけて日に日に鈍色を増す青空の下に、高層ビルやマンションが建ち並んでいる。
 あと一月で遼子はいなくなる。そして療養中だった高齢の弁護士が復職し、彼女がいない毎日を送るうちに、この胸の痛みも薄れていくだろう。そう、離婚したときのように。
「今は苦しくとも、僕が招いた結果だ。受け止めるよ」
 別所は自らに言い聞かせるように言ったあと目をゆっくり伏せる。まぶたの裏に浮かんだのは、つらそうな顔の遼子の姿だった。
『ごめんなさい』
 断られることも覚悟して告白したものの、はっきりと駄目だとわかったとたん言葉を失った。激しく動揺した気持ちをどうにか立て直し、気まずくなった場の空気を変えようとしたタイミングで岡田おかだ深雪みゆきがやって来た。
 二人はすぐに察したようだった。深雪はすぐさま遼子の側に駆け寄り、賑わうフロアへ戻っていった。岡田はというと、一人残された自分の隣に腰掛けて側にいてくれた。その後すぐに深雪から、遼子とともに帰ると連絡が入り、自分も岡田と一緒に帰路についたのだった。
「別所」
 篠田に呼ばれ、現実に引き戻された。
「本音を話すと、俺はお前なら遼子先生を幸せにできると思った。だから協力を惜しまなかった」
「そう言ってくれると嬉しいよ。でも……」
「慰めじゃないぞ。本当にそう思っていたし、今でも思っている」
「今でも?」
 慰めの言葉ではないと言っているのに、そうとしか思えない。別所は苦笑する。
「妻が言うには、遼子先生はお前のことが好きで間違いないらしい。ただ、まだ気持ちが前向きになれないんじゃないかって……」
「どういうことだ?」
 問いかけると、篠田は言いにくそうに話し出した。
「遼子先生が離婚した理由に関わることだから詳しくは話せないがヒントはやる。誰だって一度傷ついたら立ち直るまで時間が掛かる。そうだろ?」
「あ、ああ……」
「お前も離婚を経験しているから理解できる部分もあると思うんだ。だから妻も俺もお前なら遼子先生を幸せにできるんじゃないかと思っているんだよ」
 理解? 別所は思案する。
 離婚したのは会社を立ち上げてすぐだから十年前だ。軌道に乗せるまで忙しい毎日が続き、別れた妻にさみしい思いをさせてしまった。
 顔を合わせることだけでなく会話も少なくなってきて、彼女がどんなことを考えているのかまったくわからなくなった。それでも自分を支え続けてくれた彼女に、いつか恩を返そうと頑張っていたが、ある日家に戻るといなくなっていた。その後すぐやって来た弁護士から、元妻が離婚したい理由を教えてもらい届に判を押したけれど、それは納得ではなく謝罪の気持ちからだ。
『夫婦ってなんなのか、わからなくなった。一人でいる時間が増えて奥様はそう考えることが増えたんだそうです』
 ずっと一緒にいたいから結婚したのに、現実は二人でいた時間は恋人同士だった頃に比べるとはるかに少ない。それに会話だってそうだ。すれ違う毎日の中で、妻とのあいだにできてしまった溝が深く大きくなっていったのだろう。苦い記憶を振り返ると後悔が募る。
「離婚したばかりの頃、もう誰かを好きになることはないと思っていたよ」
「だろ? でもお前は前を向けるようになった」
「今急にそうなったわけじゃないよ。好意を抱いた女性は何人かいたけれど、また同じことを繰り返してしまいそうで怖かったから行動しなかっただけだ」
「じゃあ聞くが、なぜ遼子先生に対しては行動を起こしたんだ?」
「それはたぶん、顔を合わせる機会が多かったからだろうね。今までは気持ちが傾きかけたら距離を置いていたから」
 実際そうし続けているうちに、苦い恋の記憶のひとつとしてしか思えなくなる。だが、遼子に限ってはできなかったし、一緒にいたい気持ちが日を追うごとに強くなった。だが……。
「いずれにせよ、遼子先生が離婚するまでに負った心の傷は生半可な数じゃない。女や妻という言葉で追い詰められ続けた結果、恋愛や結婚は避けて通りたいものになってしまったとしても不思議な話じゃない」
 でも、と篠田は続ける。
「だからといって、今後誰にも好意を抱くなというのは無理だ、そうだろう? 俺はお前にも遼子先生にも幸せになってほしいんだ。苦しんだ分だけ」
 篠田の声は、気のせいか湿り気を帯びていた。
 離婚したばかりの頃、篠田はよく酒に付き合ってくれた。酔ってグダを巻いても側にいてくれたから、つらい胸の痛みが癒やされたし、ささくれ立っていた気持ちもずいぶん落ち着いたのだ。もしも親友がいなかったら自暴自棄になっていたに違いない。だが、もしも遼子に篠田のような存在がいなかったら? そう思ったら、彼女がどうして頑張り続けているのか、わかったような気がした。

※第二章は4月下旬に公開します。
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