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《第一章》あなたを信じたい
第四話
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「綾さん」
綾はカウンターを拭いていた手を止めて、顔を上げた。
カウンターの内側へ目をやると、光は薄く切ったサーモンをあらかじめ皿に盛り付けた水菜の上に並べている。その様子を眺めていると、光と目が合った。
「三十分後に真理が来ますので、保管庫から盛り合わせ用のチーズとハムを持ってきてもらえますか?」
「は、はい」
尾崎 真理はこの店の常連客で、光の古い友人だ。かつては官能小説を書いていたらしいが、現在は自身と同年代の男性を主人公にした恋愛作品を手がけている。
明るく朗らかな性格と飾らない人柄が魅力的ではあるけれど、たった一つだけ難がある。それは、惚気話が長いだけでなくどいことだ。尾崎と久しぶりに会えることは嬉しいけれど、その惚気話に付き合わねばならないことを考えると苦笑いしか出てこない。それだけでなく、またからかわれることになる。綾は保管庫へ向かう途中、つい自分の胸を見下ろした。彼女は、胸が大きいことを常々気にしているのである。
店で働くことになり、光から渡された制服は黒いワンピースだった。ほどよく体にフィットしているものだから、コンプレックスを抱いている大きい胸のラインがしっかり出てしまう。肌の露出こそ少ないが、体のラインが出てしまうデザインだから、店を訪れるゲストの男性からセクシャルな視線を向けられることが多かった。
そんな視線を向けてくるゲストより、口に出す尾崎の方がまだマシだとは思うけれど、ああもはっきり言われたら、そう思えなくなってしまう。なるべくならムキにならないようにしてはいるが、尾崎の口車に乗せられてしまい、ついつい言い返したあと、最愛の妻のバストと比較されるまでが一つの流れのようなものになっていた。今夜もまたそれが始まるのだと思うと、自然と気分が滅入ってくる。
しかし、尾崎と子供じみた言い合いをしている間だけは、あの日から抱えている不安から目をそらすことができる。数日前、光を尋ねて店にやって来た女性の姿が頭に浮かんできてしまい、綾は表情を曇らせた。
光への思いを手放してしまえば、こんな気持ちを抱くことはない。でも、それができないから、いつも苦しい気持ちになる。綾はずっとため込んだものを吐き出すようにため息をついたあと、光から頼まれたものを棚から取り出して、保管庫をあとにした。
「綾、なんかあったのか?」
店にやって来た尾崎から急に尋ねられ、綾は戸惑った。
「どうして、ですか?」
「いや。俺の気のせいかもしれないが、なんか表情が冴えないなーと思ってさ」
尾崎からじっと見つめられ、綾は居心地の悪さを感じ口を閉ざした。そのときタイミング悪く、綾を悩ませている原因を作っている男が地階から戻ってきたものだから、綾は無意識のうちにそちらに目を向けてしまう。だが、すぐに尾崎へと目線を戻した。
「気のせいですよ。多分」
「そうか? ならいいが」
手渡したタオルを受け取り、綾は早足でカウンターへ戻ろうとした。
すると、カウンターの中に戻った光が尾崎に問いかける。
「真理、お前日本にしばらくいるのか?」
「へっ?」
「この一か月、毎週末来ているからだ。いつもは一週間いたらとっとと向こうに帰るのに」
光が指摘すると、尾崎は苦笑した。
「実は、鈴の親父さんがごねて、さ。孫の誕生日くらい祝わせろって」
「それとお前の親父もだろ。あのじいさん二人がかりで来られたら、誰だって反論できないだろうしな」
光と尾崎の会話を聞くたびに、兄弟の会話に聞こえて仕方がない。綾は二人の会話を聞きながら、付け合わせの用意をし始めた。光が尾崎のために用意したものを冷蔵庫から取り出して、仕上げのオリーブオイルを掛ける。その上から軽く黒コショウを掛けたあと、尾崎の前に差し出した。
「尾崎さん。どうぞ」
「サンキュ。そうだ、今日はお前に頼みがあるんだよ、綾」
「私に頼み、ですか?」
綾がきょとんとした顔で問いかけると、尾崎は笑みを浮かべながら頷いた。
「お前が話していたランジェリーショップ教えてくれ」
「はい?」
「ほら、以前客から教えてもらったって話してただろ。ちっぱいが大きくなるブラを売ってるっていう店」
「ちっぱい」とは、尾崎が最愛の妻の小さな胸につけた愛称のようなものだ。その単語が飛び出すと、「大きな胸を分けてくれ」と尾崎はせがんでくる。しかし、今日はなんだか勝手が違っているような気がした。綾は尾崎から尋ねられた店のことを説明し始める。
「ああ……。正確にいえば、ちゃんとしたお店のことですよ。サイズを測るだけでなく、体つきやバストの形まで見てくれて似合うものを用意してくれるお店」
綾は店を訪れた女性のゲストから教えてもらった店のことを思い出しながら、尾崎に答えた。その店はここからそう離れていない場所にあり、フィッターと呼ばれる女性店員が丁寧な対応をすると評判の店だった。
ここを訪れるゲストには女性もいるし、お酒と会話を楽しみたいだけのものもいる。事実綾にその店を紹介してくれたゲストは、決して地階に行かない女性だった。
「そうそう、その店。日本にいる間に鈴を連れていってやりたくてさ。あいつ胸が小さいことを気にしているから。お前が胸を気にしているように、さ」
「最後のひと言いりませんから。じゃあ、お店の地図を用意しておきますね」
「ああ、頼む」
聞きたいことを聞けて満足したらしく、尾崎は満足げな笑みを浮かべたあと料理に手をつけた。
「これ、先ほどのお店の地図と連絡先です。フィッターさんは、毎日お店にいるわけではないみたいなので、事前に連絡された方が良いと思います」
小一時間ほど店にいた尾崎を見送るとき、綾はメモを手渡した。
すると尾崎は、顔をほころばせた。笑みを浮かべた唇から漏れた白い息が、闇に浮き上がる。
「早速明日にでも連絡してみる。クリスマス前にはあっちに帰るから」
「じゃあ、お正月もあちらで?」
「ああ。鈴もこっちに帰ってきたことでかなり疲れているから、さ。クリスマスと正月はあっちでのんびりさせようと思ってる」
「ロンドンのクリスマスとお正月ってどんなものなんです?」
「家族でゆっくり過ごすんだ。そういう意味では日本とほぼ変わらない。でも、俺や鈴の実家はゆっくりなんかできない、特に正月はな」
苦笑を向けられてしまい、綾も苦笑するしかできなかった。尾崎夫妻のそれぞれの父親は元政治家だ。現在は引退しているけれど、それまでいた政治の世界とすぐに縁が切れるわけではない。正月や中元、歳暮になると挨拶しにくるものもいるだろう。綾は自分の実家のことを思い出してしまい、そのせいで苦笑が自嘲気味な笑みに変わっていた。
「そうだ。あとな、綾」
急に尾崎から声を掛けられ、綾は現実に引き戻された。
「光さんの手前、言えなかったことがあるだろ」
「えっ?」
「お前を煩わせているものがなんであるかだなんて、おおよその見当はついている。苦しくて仕方がなくなる前に俺にメールしろ。ほれ、名刺だ」
尾崎から手渡された名刺を見ると、手書きでメールアドレスが書かれていた。
綾は顔をはっとさせて、背が高い尾崎を見上げる。
「じゃあな。来年、また来る」
そう言って、尾崎は手を振って去っていった。
最後のゲストを見送る頃には日付が変わっていた。
ゲストを見送ったあと、綾は暖かい店内に戻る。カウンターの内側では、光が後片付けをしていた。
光を手伝おうとして、綾がカウンターの中に入ろうとしたそのときだった。
「今日は早く店を閉めようと思います」
光に目をやると、すぐに目が合っただけでなく笑みを向けられた。
「そろそろ地階にも出てもらわないとなりませんし、そこでのルールとそれぞれのエリアを教えますね」
「ルール、ですか?」
「ええ、ちゃんとルールがあるんです。何でもありだと、いろいろ問題が生じますし」
皿をバックバーの下にある棚にしまい込みながら、光が話す。
その表情は苦笑しているように見えた。
「さて、と。では始めましょうか」
「はっ、はいっ!」
光から開始を告げられた途端、全身に緊張が走った。綾は表情をこわばらせ、ぎくしゃくとした動きをし始める。それに気づいたらしく、光がぷっと噴き出した。
「綾さん、安心してください。今日は説明するだけだから。カウンターの席に座って」
「えっ? ええ?」
「今日は見取り図を使って説明します。本当は、見せながら説明した方が手っ取り早いのですが、多分耳に入らないと思うので……」
再び苦笑を向けられてしまい、綾は急に居心地の悪さを感じた。ずっと立ち入ることを許されなかった地階がどのようなところなのか、興味がなかったわけじゃない。しかし、そこで繰り広げられているものが性的な行為だけに考えないようにしていたのだった。
店で働き始めてもう一か月が過ぎた。光の言う通り、そろそろ新しい仕事を覚えないとならない頃合いだ。綾は一つ息を吐き出してからカウンター席に腰かける。
「これが簡単な見取り図です。階段を下りると、右手にロッカールームがあります」
光が差し出した見取り図を見ようとして、綾はカウンターの縁を覆う柔い革に寄りかかりながら身を乗り出した。
「これは男女分かれていますか?」
「いえ、分かれていません。ここから先は店で用意したもの以外使うことはできません。たまにセックス・トイを持ち込もうとするゲストがいるんですが、そういうのは全てお断りしています。ああ、でもコスチュームは別ですよ。御自身で用意したものを身につけていればOKです。ここで荷物を置いたら、パブリックスペースに向かいます」
見取り図の上で光の指先がゆっくりと動く。それを見ていると、数日前の出来事が突然蘇ってきた。光が残すキスマークを撫でていた指先が、唇までたどり着いたときのことだ。そのときは着信があったから中断せざるを得なかったけれど、もしもそれがなかったらどうなっていただろう。綾は、急に恥ずかしくなった。体の奥が火照りだし、心臓がとくとくと音を立てて脈打ち始める。
「パブリックスペースには、ハーフラウンド型のソファを五つ置いています。それぞれのソファは、薄い布で仕切られていますが、テーブルのライトを着けるとそこで何をしているか布越しに見えるようになっています」
「えっ?」
綾が素っ頓狂な声を出すと、光の指先がぴたりと止まった。
「見えるようにって、ことは、つまり、見られてもかまわないってことですよね?」
綾が問いかけると、図面を見ていたはずの光が顔を上げた。そのとき一瞬だけ表情が硬くなったのを綾は見逃さなかった。しかし、すぐに柔和な笑みに変わる。その一連の動きが、妙に気になった。
「ええ、そうですよ。ここは、見せること・見られることが大前提の店なので、ただ性的な行為をしたいだけなら、ラブホテルだってかまわないんです。でも、わざわざここに足を運んでくれるゲストたちは、見られること・見せることで興奮するし、その興奮が理性や羞恥を凌駕したときに非日常の扉が開くのだと思います。扉の向こう側には、開いたものにしか得られない快感があるんだと思いますよ」
目が合った次の瞬間、にっこりとほほ笑まれた。
「ところでハプニングバーの「ハプニング」ってどういう意味か分かりますか?」
「せ、性的な出来事、ですよね?」
「ええ、店のどこかで起きるハプニングを期待してゲストは店にやってきます。そしてそれが起きたら、ゲスト達はこぞって見に行くんです」
光が再び見取り図へ視線を落とした。綾は説明されたことを頭の中で反芻する。『ハプニング』が起きたら、ゲストたちはそれを見に行く、ということはつまり……。
「そ、それって、見られるってことですよね……」
綾は表情をこわばらせ、恐る恐る問いかけた。
「ええ、そうですよ。当然、ハプニングの当事者たちからも、見ている人間が見えてしまうのです」
想像を超えた説明が続いたものだから、綾はかなり混乱してしまう。面接のとき、一通りの説明は受けていたけれど、まさかそのようなことが行われているとは、思いもしなかった。
性的な知識が乏しい綾にとって『普通のセックス』をするためにこの店に訪れることだけでも理解できないのに、更に理解し難いことが行われていることを知ってしまったからだった。
「綾さん?」
光から呼びかけられて、綾は我に返った。
「大丈夫ですか? かなり驚かれているようですが」
光から優しい笑顔を向けられたけれど、綾は不安げな顔を向けるのみ。
その様子を見て無理だと思ったのだろう。光は苦笑しながら、綾に問いかけた。
「今日はここまでにしましょう。今温かいお茶を用意します」
そう言ってお茶の用意をし始めた光の姿を見ながら、綾はしばらくぼう然となっていた。
※※※
GUEST
尾崎 真理(33)
光の古い知り合い。既婚者。
綾はカウンターを拭いていた手を止めて、顔を上げた。
カウンターの内側へ目をやると、光は薄く切ったサーモンをあらかじめ皿に盛り付けた水菜の上に並べている。その様子を眺めていると、光と目が合った。
「三十分後に真理が来ますので、保管庫から盛り合わせ用のチーズとハムを持ってきてもらえますか?」
「は、はい」
尾崎 真理はこの店の常連客で、光の古い友人だ。かつては官能小説を書いていたらしいが、現在は自身と同年代の男性を主人公にした恋愛作品を手がけている。
明るく朗らかな性格と飾らない人柄が魅力的ではあるけれど、たった一つだけ難がある。それは、惚気話が長いだけでなくどいことだ。尾崎と久しぶりに会えることは嬉しいけれど、その惚気話に付き合わねばならないことを考えると苦笑いしか出てこない。それだけでなく、またからかわれることになる。綾は保管庫へ向かう途中、つい自分の胸を見下ろした。彼女は、胸が大きいことを常々気にしているのである。
店で働くことになり、光から渡された制服は黒いワンピースだった。ほどよく体にフィットしているものだから、コンプレックスを抱いている大きい胸のラインがしっかり出てしまう。肌の露出こそ少ないが、体のラインが出てしまうデザインだから、店を訪れるゲストの男性からセクシャルな視線を向けられることが多かった。
そんな視線を向けてくるゲストより、口に出す尾崎の方がまだマシだとは思うけれど、ああもはっきり言われたら、そう思えなくなってしまう。なるべくならムキにならないようにしてはいるが、尾崎の口車に乗せられてしまい、ついつい言い返したあと、最愛の妻のバストと比較されるまでが一つの流れのようなものになっていた。今夜もまたそれが始まるのだと思うと、自然と気分が滅入ってくる。
しかし、尾崎と子供じみた言い合いをしている間だけは、あの日から抱えている不安から目をそらすことができる。数日前、光を尋ねて店にやって来た女性の姿が頭に浮かんできてしまい、綾は表情を曇らせた。
光への思いを手放してしまえば、こんな気持ちを抱くことはない。でも、それができないから、いつも苦しい気持ちになる。綾はずっとため込んだものを吐き出すようにため息をついたあと、光から頼まれたものを棚から取り出して、保管庫をあとにした。
「綾、なんかあったのか?」
店にやって来た尾崎から急に尋ねられ、綾は戸惑った。
「どうして、ですか?」
「いや。俺の気のせいかもしれないが、なんか表情が冴えないなーと思ってさ」
尾崎からじっと見つめられ、綾は居心地の悪さを感じ口を閉ざした。そのときタイミング悪く、綾を悩ませている原因を作っている男が地階から戻ってきたものだから、綾は無意識のうちにそちらに目を向けてしまう。だが、すぐに尾崎へと目線を戻した。
「気のせいですよ。多分」
「そうか? ならいいが」
手渡したタオルを受け取り、綾は早足でカウンターへ戻ろうとした。
すると、カウンターの中に戻った光が尾崎に問いかける。
「真理、お前日本にしばらくいるのか?」
「へっ?」
「この一か月、毎週末来ているからだ。いつもは一週間いたらとっとと向こうに帰るのに」
光が指摘すると、尾崎は苦笑した。
「実は、鈴の親父さんがごねて、さ。孫の誕生日くらい祝わせろって」
「それとお前の親父もだろ。あのじいさん二人がかりで来られたら、誰だって反論できないだろうしな」
光と尾崎の会話を聞くたびに、兄弟の会話に聞こえて仕方がない。綾は二人の会話を聞きながら、付け合わせの用意をし始めた。光が尾崎のために用意したものを冷蔵庫から取り出して、仕上げのオリーブオイルを掛ける。その上から軽く黒コショウを掛けたあと、尾崎の前に差し出した。
「尾崎さん。どうぞ」
「サンキュ。そうだ、今日はお前に頼みがあるんだよ、綾」
「私に頼み、ですか?」
綾がきょとんとした顔で問いかけると、尾崎は笑みを浮かべながら頷いた。
「お前が話していたランジェリーショップ教えてくれ」
「はい?」
「ほら、以前客から教えてもらったって話してただろ。ちっぱいが大きくなるブラを売ってるっていう店」
「ちっぱい」とは、尾崎が最愛の妻の小さな胸につけた愛称のようなものだ。その単語が飛び出すと、「大きな胸を分けてくれ」と尾崎はせがんでくる。しかし、今日はなんだか勝手が違っているような気がした。綾は尾崎から尋ねられた店のことを説明し始める。
「ああ……。正確にいえば、ちゃんとしたお店のことですよ。サイズを測るだけでなく、体つきやバストの形まで見てくれて似合うものを用意してくれるお店」
綾は店を訪れた女性のゲストから教えてもらった店のことを思い出しながら、尾崎に答えた。その店はここからそう離れていない場所にあり、フィッターと呼ばれる女性店員が丁寧な対応をすると評判の店だった。
ここを訪れるゲストには女性もいるし、お酒と会話を楽しみたいだけのものもいる。事実綾にその店を紹介してくれたゲストは、決して地階に行かない女性だった。
「そうそう、その店。日本にいる間に鈴を連れていってやりたくてさ。あいつ胸が小さいことを気にしているから。お前が胸を気にしているように、さ」
「最後のひと言いりませんから。じゃあ、お店の地図を用意しておきますね」
「ああ、頼む」
聞きたいことを聞けて満足したらしく、尾崎は満足げな笑みを浮かべたあと料理に手をつけた。
「これ、先ほどのお店の地図と連絡先です。フィッターさんは、毎日お店にいるわけではないみたいなので、事前に連絡された方が良いと思います」
小一時間ほど店にいた尾崎を見送るとき、綾はメモを手渡した。
すると尾崎は、顔をほころばせた。笑みを浮かべた唇から漏れた白い息が、闇に浮き上がる。
「早速明日にでも連絡してみる。クリスマス前にはあっちに帰るから」
「じゃあ、お正月もあちらで?」
「ああ。鈴もこっちに帰ってきたことでかなり疲れているから、さ。クリスマスと正月はあっちでのんびりさせようと思ってる」
「ロンドンのクリスマスとお正月ってどんなものなんです?」
「家族でゆっくり過ごすんだ。そういう意味では日本とほぼ変わらない。でも、俺や鈴の実家はゆっくりなんかできない、特に正月はな」
苦笑を向けられてしまい、綾も苦笑するしかできなかった。尾崎夫妻のそれぞれの父親は元政治家だ。現在は引退しているけれど、それまでいた政治の世界とすぐに縁が切れるわけではない。正月や中元、歳暮になると挨拶しにくるものもいるだろう。綾は自分の実家のことを思い出してしまい、そのせいで苦笑が自嘲気味な笑みに変わっていた。
「そうだ。あとな、綾」
急に尾崎から声を掛けられ、綾は現実に引き戻された。
「光さんの手前、言えなかったことがあるだろ」
「えっ?」
「お前を煩わせているものがなんであるかだなんて、おおよその見当はついている。苦しくて仕方がなくなる前に俺にメールしろ。ほれ、名刺だ」
尾崎から手渡された名刺を見ると、手書きでメールアドレスが書かれていた。
綾は顔をはっとさせて、背が高い尾崎を見上げる。
「じゃあな。来年、また来る」
そう言って、尾崎は手を振って去っていった。
最後のゲストを見送る頃には日付が変わっていた。
ゲストを見送ったあと、綾は暖かい店内に戻る。カウンターの内側では、光が後片付けをしていた。
光を手伝おうとして、綾がカウンターの中に入ろうとしたそのときだった。
「今日は早く店を閉めようと思います」
光に目をやると、すぐに目が合っただけでなく笑みを向けられた。
「そろそろ地階にも出てもらわないとなりませんし、そこでのルールとそれぞれのエリアを教えますね」
「ルール、ですか?」
「ええ、ちゃんとルールがあるんです。何でもありだと、いろいろ問題が生じますし」
皿をバックバーの下にある棚にしまい込みながら、光が話す。
その表情は苦笑しているように見えた。
「さて、と。では始めましょうか」
「はっ、はいっ!」
光から開始を告げられた途端、全身に緊張が走った。綾は表情をこわばらせ、ぎくしゃくとした動きをし始める。それに気づいたらしく、光がぷっと噴き出した。
「綾さん、安心してください。今日は説明するだけだから。カウンターの席に座って」
「えっ? ええ?」
「今日は見取り図を使って説明します。本当は、見せながら説明した方が手っ取り早いのですが、多分耳に入らないと思うので……」
再び苦笑を向けられてしまい、綾は急に居心地の悪さを感じた。ずっと立ち入ることを許されなかった地階がどのようなところなのか、興味がなかったわけじゃない。しかし、そこで繰り広げられているものが性的な行為だけに考えないようにしていたのだった。
店で働き始めてもう一か月が過ぎた。光の言う通り、そろそろ新しい仕事を覚えないとならない頃合いだ。綾は一つ息を吐き出してからカウンター席に腰かける。
「これが簡単な見取り図です。階段を下りると、右手にロッカールームがあります」
光が差し出した見取り図を見ようとして、綾はカウンターの縁を覆う柔い革に寄りかかりながら身を乗り出した。
「これは男女分かれていますか?」
「いえ、分かれていません。ここから先は店で用意したもの以外使うことはできません。たまにセックス・トイを持ち込もうとするゲストがいるんですが、そういうのは全てお断りしています。ああ、でもコスチュームは別ですよ。御自身で用意したものを身につけていればOKです。ここで荷物を置いたら、パブリックスペースに向かいます」
見取り図の上で光の指先がゆっくりと動く。それを見ていると、数日前の出来事が突然蘇ってきた。光が残すキスマークを撫でていた指先が、唇までたどり着いたときのことだ。そのときは着信があったから中断せざるを得なかったけれど、もしもそれがなかったらどうなっていただろう。綾は、急に恥ずかしくなった。体の奥が火照りだし、心臓がとくとくと音を立てて脈打ち始める。
「パブリックスペースには、ハーフラウンド型のソファを五つ置いています。それぞれのソファは、薄い布で仕切られていますが、テーブルのライトを着けるとそこで何をしているか布越しに見えるようになっています」
「えっ?」
綾が素っ頓狂な声を出すと、光の指先がぴたりと止まった。
「見えるようにって、ことは、つまり、見られてもかまわないってことですよね?」
綾が問いかけると、図面を見ていたはずの光が顔を上げた。そのとき一瞬だけ表情が硬くなったのを綾は見逃さなかった。しかし、すぐに柔和な笑みに変わる。その一連の動きが、妙に気になった。
「ええ、そうですよ。ここは、見せること・見られることが大前提の店なので、ただ性的な行為をしたいだけなら、ラブホテルだってかまわないんです。でも、わざわざここに足を運んでくれるゲストたちは、見られること・見せることで興奮するし、その興奮が理性や羞恥を凌駕したときに非日常の扉が開くのだと思います。扉の向こう側には、開いたものにしか得られない快感があるんだと思いますよ」
目が合った次の瞬間、にっこりとほほ笑まれた。
「ところでハプニングバーの「ハプニング」ってどういう意味か分かりますか?」
「せ、性的な出来事、ですよね?」
「ええ、店のどこかで起きるハプニングを期待してゲストは店にやってきます。そしてそれが起きたら、ゲスト達はこぞって見に行くんです」
光が再び見取り図へ視線を落とした。綾は説明されたことを頭の中で反芻する。『ハプニング』が起きたら、ゲストたちはそれを見に行く、ということはつまり……。
「そ、それって、見られるってことですよね……」
綾は表情をこわばらせ、恐る恐る問いかけた。
「ええ、そうですよ。当然、ハプニングの当事者たちからも、見ている人間が見えてしまうのです」
想像を超えた説明が続いたものだから、綾はかなり混乱してしまう。面接のとき、一通りの説明は受けていたけれど、まさかそのようなことが行われているとは、思いもしなかった。
性的な知識が乏しい綾にとって『普通のセックス』をするためにこの店に訪れることだけでも理解できないのに、更に理解し難いことが行われていることを知ってしまったからだった。
「綾さん?」
光から呼びかけられて、綾は我に返った。
「大丈夫ですか? かなり驚かれているようですが」
光から優しい笑顔を向けられたけれど、綾は不安げな顔を向けるのみ。
その様子を見て無理だと思ったのだろう。光は苦笑しながら、綾に問いかけた。
「今日はここまでにしましょう。今温かいお茶を用意します」
そう言ってお茶の用意をし始めた光の姿を見ながら、綾はしばらくぼう然となっていた。
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