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第三章 シグルド18歳 ケヴィン24歳 アネット23歳(?)
三章-3
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あたしが意固地になってケヴィン様を拒む理由。
それはケヴィン様を苦しめたくないから。
声はかけられなかった。だけど誰だかわかっていたから、アネットは聞かずに扉を開いた。
「こんばんは、ケヴィン様」
アネットはにっこり笑いかける。しかし表情に乏しいケヴィンの顔に思い詰めたものを感じ取って、アネットは思わず怯みそうになった。
今日こそ言うつもりだ。
それを聞いてはいけない。言わせてはならない。
アネットは決意を胸に気をひきしめる。
「ノックだけじゃなくて、声もかけてくださいよ。それで、どうしたんですか?」
「中に入れてもらってもいいだろうか?」
「……どうぞ」
断る理由もみつからなくて、アネットは仕方なく部屋の奥へ入っていった。ケヴィンはそのあとについてきて、扉を閉める。
荷物がひしめきあい、歩けるのは扉と扉をつなぐ細い通路のような空間だけ。その途中まできてアネットは立ち止った。
「座ってもいいだろうか?」
背後から声をかけられる。それだけで心が震える。悟られまいと、アネットは振り返って元気に答えた。
「いちいち聞かなくていいですってば。あたしが寝てない時は単なるベンチなんですから、好きに座ってくださいよ」
アネットは笑うのに、ケヴィンの表情は固い。無言でベンチに腰掛けるのを見て、アネットは居心地の悪いものを感じながら三本脚の丸椅子に座った。
アネットが椅子に座ると、ケヴィンは口を開いた。
「再び戦地に赴くことになった」
「あ、はい。聞きました」
続けられる言葉が見つからない。“進軍を止められなくて残念でしたね”なんて軽すぎる。政治を仕切る貴族たちに腹立ちは覚えるけど、それはケヴィンに向けていい言葉じゃない。
……本当に言いたいのは“行かないで”。行くことが仕方ないとしても、早く帰ってきてほしい。無事でいてほしい。
でもそんな言葉を口にしたら、きっと今までの我慢が水の泡になる。
「今度は国王陛下も遠征することになった。今までは殿下が一つひとつの戦いを大きくしないことで犠牲を減らしてきたが、殿下が国王陛下の指揮下に入るとなると、そうも言っていられなくなる。……もしかすると、殿下の命を危うくするために隊が無謀な作戦にさらされることになるかもしれない。そうなるとわたしも無事に帰ってこれるかわからない」
淡々と語られた話に、アネットの心臓は握りしめられたかのように痛む。
あらためて言葉にされるとつらい。すがって引き留めたくなる。戦場に行くことを勧めたのはアネットなのに。
言葉を返せずにうつむいていると、ケヴィンの手がアネットの膝に伸びてきて、膝の上にあるアネットのこぶしをそっと包み込んだ。
熱い。
その熱さに驚いて手を退こうとするけれど、軽く握られただけで振りほどけなくなる。
ずっと欲しかったものだから。
でもダメ。
頭の中で警鐘が鳴る。
これ以上はダメ。聞いてはいけない。言わせてはいけない。
なのに動けない。いつもはよくしゃべる口も言葉を紡げない。
ケヴィンがとうとう話し出す。
「生きて帰れないかもしれないのに、勝手なことをしてすまない。だが、聞いてくれ」
一旦息を吸い、ケヴィンはゆっくりと告げた。
「君が、好きだ」
体から力が抜ける。
ごめんなさい、とは口にできなかった。言わせてしまってごめんなさいとも、気持ちに応えることはできませんとも。
「戦場に行って後悔したんだ。どうして想いを伝えずに来てしまったのだろうかと。──戦場は思っていた以上に過酷な場所だった。殿下は総指揮官だ。総指揮官が倒れればそれは軍の敗北を意味する。そのため殿下は幾重にも守られ、殿下に近い者ほど同時に守られることになる。だが、殿下一人を倒せば戦いに勝てるということから、敵は執拗に殿下を狙う。──わたしたちの周りでたくさんの者たちが死んだ。一緒に生きて帰ろうと誓った近衛仲間も、三人が死んだ。彼らの死を悼みながら、君のことを思い出さずにはいられなかった。もしここで死ぬことになったら、永遠に想いを伝える機会を失う。想いを伝えたくとも、君に手紙を送るわけにはいかなかっただろう?」
返事を待つケヴィンに、アネットは震える声で答える。
「あ、たりまえです。下働きに、手紙を出すお貴族様が、ど、どこにいるんですか」
「わたしが戦地に赴いたあと、君には恋人ができたかもしれないと思った。あるいは結婚が決まったかもしれなかった。手紙一通でそのしあわせを壊すわけにはいかなかった。だから会って、そのことを確かめてから君に想いを伝えようと、それを支えに今日まで来た」
握られたままの手が熱い。アネットの、女性としてはそんなに小さいわけではない手が、ケヴィンの手にすっぽりと隠れて見えない。
視線の持って行きどころがなく、途方に暮れてアネットはそれを見つめていた。
「いないのだろう? 結婚相手も、恋人も」
「何で、断言するんですか? 言ってないだけかもしれないでしょ……?」
「君はわたしが思っていたより、しっかりしている。そうした相手がいれば、顔向けできないような真似だけでなく、そう誤解されても仕方ないような状況も作ったりしない。このように、わたしを部屋に入れたり、手を握らせたりも」
手のことを指摘され、アネットはようやく動くことができた。立ち上がり、手を振りほどこうとする。
こんなことを許せば、特にこの状況だから、期待させてしまうにきまっている。どうしてそんなわかりきったことに気付けなかったんだろう。
手を握り込まれる前に振りほどかなくちゃならなかった。最初から、部屋に入れるべきじゃなかった。
今更気付いても遅い。
アネットの手はしっかり握られてしまっていて、引っ張っても離してもらえない。視線に気付いて握られた手から少し顔を上げると、ケヴィンの熱っぽい瞳にとらわれた。
目も、そらせなくなる。
「わたしを拒みたいなら言えばいい。恋人がいると、結婚相手が決まったと。そうできないことが君の答えだと思うのだが、違うのか?」
何でこの人にはわかってしまうの?
アネットは悔しくなって唇をかみしめる。
ごみみたいに汚れほつれた守り袋が、アネットにとってなくすことのできない大切なものだったと。
全員に配られたはずのお菓子を食べられなかったことを、ほんのちょっと話しただけで。
そして今も。
拒まなければいけないと思いながらも、ケヴィンを想うあまり、アネットには決して口にできないことを。
「今度こそ生きて帰れないかもしれないというのに、このような話をしてすまない。だが、君の想いを確かめずには、戦場に行けそうもなかったんだ」
ケヴィンはベンチに座ったまま、アネットを見上げてくる。
この残りの距離が、アネットに残された最後の選択肢だった。
ここでもう一度手を振りほどこうとすれば、今度は離してくれるだろう。
だけどもう、抵抗などできなかった。
「……行かなければいいんですよ。今から王子様についていかないって言っても、ご主人様が──公爵様が何とかしてくださるでしょ?」
めったに動かないケヴィンの表情が、ほんのわずか喜びに艶めく。
「わたしにそれはできないと、君にはわかっているのだろう?」
「そう、ですけど……」
何でもかんでも理解されてしまうというのも、それはそれで何だかしゃくに障る。
面白くなくてふいと目をそらすと、ケヴィンは急に立ち上がった。
間近に迫る上質の上着に包まれた胸元に、アネットは焦って思わず体を退きかける。しかし一歩下がる前に、背中に腕を回されてケヴィンに抱き込まれていた。
頭上から耳元へ、かすれた声が降りてくる。
「これが会える最後の機会になるかもしれないというのに勝手だと思うが、願いを、一つ聞いてもらってもいいだろうか……?」
アネットはおかしくなって、小さく笑い声をもらした。
前と違って遠まわしではあるけれど、何でいちいち確認してくるんだか。
「そーいうことは、口にしなくったっていいんですよ。……ホントに嫌だったらちゃんと嫌がります」
そう言って、ケヴィンの大きな背中に手を回す。
「そうか」
アネットが背中に回した手でぎゅっとしがみつくのと同時に、アネットの背に回ったケヴィンの腕に強い力がこもった。
それはケヴィン様を苦しめたくないから。
声はかけられなかった。だけど誰だかわかっていたから、アネットは聞かずに扉を開いた。
「こんばんは、ケヴィン様」
アネットはにっこり笑いかける。しかし表情に乏しいケヴィンの顔に思い詰めたものを感じ取って、アネットは思わず怯みそうになった。
今日こそ言うつもりだ。
それを聞いてはいけない。言わせてはならない。
アネットは決意を胸に気をひきしめる。
「ノックだけじゃなくて、声もかけてくださいよ。それで、どうしたんですか?」
「中に入れてもらってもいいだろうか?」
「……どうぞ」
断る理由もみつからなくて、アネットは仕方なく部屋の奥へ入っていった。ケヴィンはそのあとについてきて、扉を閉める。
荷物がひしめきあい、歩けるのは扉と扉をつなぐ細い通路のような空間だけ。その途中まできてアネットは立ち止った。
「座ってもいいだろうか?」
背後から声をかけられる。それだけで心が震える。悟られまいと、アネットは振り返って元気に答えた。
「いちいち聞かなくていいですってば。あたしが寝てない時は単なるベンチなんですから、好きに座ってくださいよ」
アネットは笑うのに、ケヴィンの表情は固い。無言でベンチに腰掛けるのを見て、アネットは居心地の悪いものを感じながら三本脚の丸椅子に座った。
アネットが椅子に座ると、ケヴィンは口を開いた。
「再び戦地に赴くことになった」
「あ、はい。聞きました」
続けられる言葉が見つからない。“進軍を止められなくて残念でしたね”なんて軽すぎる。政治を仕切る貴族たちに腹立ちは覚えるけど、それはケヴィンに向けていい言葉じゃない。
……本当に言いたいのは“行かないで”。行くことが仕方ないとしても、早く帰ってきてほしい。無事でいてほしい。
でもそんな言葉を口にしたら、きっと今までの我慢が水の泡になる。
「今度は国王陛下も遠征することになった。今までは殿下が一つひとつの戦いを大きくしないことで犠牲を減らしてきたが、殿下が国王陛下の指揮下に入るとなると、そうも言っていられなくなる。……もしかすると、殿下の命を危うくするために隊が無謀な作戦にさらされることになるかもしれない。そうなるとわたしも無事に帰ってこれるかわからない」
淡々と語られた話に、アネットの心臓は握りしめられたかのように痛む。
あらためて言葉にされるとつらい。すがって引き留めたくなる。戦場に行くことを勧めたのはアネットなのに。
言葉を返せずにうつむいていると、ケヴィンの手がアネットの膝に伸びてきて、膝の上にあるアネットのこぶしをそっと包み込んだ。
熱い。
その熱さに驚いて手を退こうとするけれど、軽く握られただけで振りほどけなくなる。
ずっと欲しかったものだから。
でもダメ。
頭の中で警鐘が鳴る。
これ以上はダメ。聞いてはいけない。言わせてはいけない。
なのに動けない。いつもはよくしゃべる口も言葉を紡げない。
ケヴィンがとうとう話し出す。
「生きて帰れないかもしれないのに、勝手なことをしてすまない。だが、聞いてくれ」
一旦息を吸い、ケヴィンはゆっくりと告げた。
「君が、好きだ」
体から力が抜ける。
ごめんなさい、とは口にできなかった。言わせてしまってごめんなさいとも、気持ちに応えることはできませんとも。
「戦場に行って後悔したんだ。どうして想いを伝えずに来てしまったのだろうかと。──戦場は思っていた以上に過酷な場所だった。殿下は総指揮官だ。総指揮官が倒れればそれは軍の敗北を意味する。そのため殿下は幾重にも守られ、殿下に近い者ほど同時に守られることになる。だが、殿下一人を倒せば戦いに勝てるということから、敵は執拗に殿下を狙う。──わたしたちの周りでたくさんの者たちが死んだ。一緒に生きて帰ろうと誓った近衛仲間も、三人が死んだ。彼らの死を悼みながら、君のことを思い出さずにはいられなかった。もしここで死ぬことになったら、永遠に想いを伝える機会を失う。想いを伝えたくとも、君に手紙を送るわけにはいかなかっただろう?」
返事を待つケヴィンに、アネットは震える声で答える。
「あ、たりまえです。下働きに、手紙を出すお貴族様が、ど、どこにいるんですか」
「わたしが戦地に赴いたあと、君には恋人ができたかもしれないと思った。あるいは結婚が決まったかもしれなかった。手紙一通でそのしあわせを壊すわけにはいかなかった。だから会って、そのことを確かめてから君に想いを伝えようと、それを支えに今日まで来た」
握られたままの手が熱い。アネットの、女性としてはそんなに小さいわけではない手が、ケヴィンの手にすっぽりと隠れて見えない。
視線の持って行きどころがなく、途方に暮れてアネットはそれを見つめていた。
「いないのだろう? 結婚相手も、恋人も」
「何で、断言するんですか? 言ってないだけかもしれないでしょ……?」
「君はわたしが思っていたより、しっかりしている。そうした相手がいれば、顔向けできないような真似だけでなく、そう誤解されても仕方ないような状況も作ったりしない。このように、わたしを部屋に入れたり、手を握らせたりも」
手のことを指摘され、アネットはようやく動くことができた。立ち上がり、手を振りほどこうとする。
こんなことを許せば、特にこの状況だから、期待させてしまうにきまっている。どうしてそんなわかりきったことに気付けなかったんだろう。
手を握り込まれる前に振りほどかなくちゃならなかった。最初から、部屋に入れるべきじゃなかった。
今更気付いても遅い。
アネットの手はしっかり握られてしまっていて、引っ張っても離してもらえない。視線に気付いて握られた手から少し顔を上げると、ケヴィンの熱っぽい瞳にとらわれた。
目も、そらせなくなる。
「わたしを拒みたいなら言えばいい。恋人がいると、結婚相手が決まったと。そうできないことが君の答えだと思うのだが、違うのか?」
何でこの人にはわかってしまうの?
アネットは悔しくなって唇をかみしめる。
ごみみたいに汚れほつれた守り袋が、アネットにとってなくすことのできない大切なものだったと。
全員に配られたはずのお菓子を食べられなかったことを、ほんのちょっと話しただけで。
そして今も。
拒まなければいけないと思いながらも、ケヴィンを想うあまり、アネットには決して口にできないことを。
「今度こそ生きて帰れないかもしれないというのに、このような話をしてすまない。だが、君の想いを確かめずには、戦場に行けそうもなかったんだ」
ケヴィンはベンチに座ったまま、アネットを見上げてくる。
この残りの距離が、アネットに残された最後の選択肢だった。
ここでもう一度手を振りほどこうとすれば、今度は離してくれるだろう。
だけどもう、抵抗などできなかった。
「……行かなければいいんですよ。今から王子様についていかないって言っても、ご主人様が──公爵様が何とかしてくださるでしょ?」
めったに動かないケヴィンの表情が、ほんのわずか喜びに艶めく。
「わたしにそれはできないと、君にはわかっているのだろう?」
「そう、ですけど……」
何でもかんでも理解されてしまうというのも、それはそれで何だかしゃくに障る。
面白くなくてふいと目をそらすと、ケヴィンは急に立ち上がった。
間近に迫る上質の上着に包まれた胸元に、アネットは焦って思わず体を退きかける。しかし一歩下がる前に、背中に腕を回されてケヴィンに抱き込まれていた。
頭上から耳元へ、かすれた声が降りてくる。
「これが会える最後の機会になるかもしれないというのに勝手だと思うが、願いを、一つ聞いてもらってもいいだろうか……?」
アネットはおかしくなって、小さく笑い声をもらした。
前と違って遠まわしではあるけれど、何でいちいち確認してくるんだか。
「そーいうことは、口にしなくったっていいんですよ。……ホントに嫌だったらちゃんと嫌がります」
そう言って、ケヴィンの大きな背中に手を回す。
「そうか」
アネットが背中に回した手でぎゅっとしがみつくのと同時に、アネットの背に回ったケヴィンの腕に強い力がこもった。
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