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08 自分のミス
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少しセクハラ描写が入る苦いお話になっています。
苦手な方はご注意下さい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「こ、小宮山さん……?」
瑠伊さんの、困惑した顔。
彼女を困らせることが出来たのを少し嬉しく感じるだなんて、だいぶ酔っているのかもしれない。
「向井さんはいつがご都合よろしいんですか?」
私は初めてコウさんの顔をまともに見つめた。
コウさんは、頭をガリっと掻くと横目で瑠伊さんの様子を窺いながら、
「えーと、オレは仕事は平日は五時四十五分までで、土日が休みです。平日だったら六時三十分以降、土日は何時でも良いですよ。葉摘さんの都合に合わせますよ」
「ちょっと、コウちゃん!!」
「アネキは黙っててくれる? これは正式な依頼になるんだから」
コウさんの正式な依頼という言葉は、まるでビジネスのようだった。でも、それは事実。私たちの間に、それ以上の感情は無い。
「だけど……小宮山さんは本当に相談するのがこの弟で良いんですか?」
瑠伊さんは弟の不始末に戸惑っているような姉の顔だった。
「ええ。気軽に相談できそうなので、してみたいんです。向井さん、では、日程は改めてご連絡します。それでよろしいですか?」
「いいですよ。名刺の裏の個人の電話番号か表のメールアドレスに、連絡下さい。待ってますから」
私は頷いて、出されたブレンドコーヒーをいただくと、足取りも軽く店を出た。
大胆なことをした。
そのくらいしか、その時は思っていなかった。
コウさんと面談でお悩み相談する日をいつにするか考えるだけで、デートの日を決めるみたいでなんだか楽しかった。だから、コウさんに連絡をするのが勿体なくて、一度挨拶程度のメールをしたあと、そのまま日程を決めることなく連絡を先延ばしにしていた。
コウさん、イライラしてるかな。
ごめんなさい。
◇◇◇
それから一週間が過ぎた。
少し前に会社を辞めて行った仲の良かった男女の先輩方から誘いを受けたので、会社帰りの金曜の夜、三人で飲みに出かけた。
女性の渡辺さんは、設計とインテリアの仕事をしていた人で、辞めてから仲間同士で小さなインテリア事務所を立ち上げた。住宅メーカーの建売住宅などのインテリアコーディネートを請け負うのがメインの仕事らしい。私より六歳年上で既婚者だけれど、お子さんがいないので、バリバリ仕事をしている。私が入社当初、とても親切に指導していただいて、尊敬する先輩だった。今日は、耳を見せるほどのショートヘアに、紺色のツーピースを格好よく着こなしていた。
男性の内野さんは、ずっと営業担当をしていたが、それに疲れて退職すると、知り合いの会社の内勤業務の仕事に就いた。既婚者で中学生と小学生のお子さんがいるお父さんだ。いつもニコニコしていて、少し白髪が目立つようにはなったものの相変わらず物腰の柔らかな人だ。
先輩ふたりは同期入社で仲も良く、明るく楽しい人たちだった。彼らが会社にいた時は私もよく混ぜてもらって、気軽に三人で食事に行ったり飲みに行ったりしていた。
いつもの居酒屋は騒がしいが、人々の元気を貰える感じがして、嫌いではない。
「で、葉摘ちゃんは、最近どうなのよ?」
渡辺さんが、豪快に中ジョッキのビールを飲む。そして定番の枝豆をパクパクと忙しなく口に持って行く。
「そうですね。私は毎日変わりなく、家と会社とたまにカフェの往復です」
「お付き合いしてる人はいないの?」
「ええ、まあ」
「好きな人は?」
「いますけど、恋人になりたいとかじゃなくて、たぶん憧れです」
「え? なんで? どんな人よ?」
「もう、私の話はいいですから」
好きな人に、私の気持ちを伝えることはない。
この手の話は勘弁して欲しいけど、他人の噂話が楽しいらしく、会社の誰と誰がその後どうなったとか、渡辺さんからはしつこく聞かれた。内野さんが助け舟を出してくれたので、渡辺さんの勢いも収まったけれど。
私は小ジョッキのビールをチビチビと飲んで、適当に聞かれた質問に当たり障りのない範囲で答えた。彼らはもう同じ会社の社員じゃないし、あまり内部のことをベラベラ喋ることはできない。
「こんなに綺麗な葉摘ちゃんが独身なんて、みんな見る目ないよなあ。うちの若い野郎を紹介しようか?」
「綺麗って、ありがとうございます。お世辞でも嬉しいですよ。内野さんの会社の若い方って、私よりもずっとお若いんじゃないんですか? 遠慮しときます!」
「お世辞じゃないよ。葉摘ちゃんはまだ二十代に見えなくもないし」
それは言い過ぎだろう。
さすがに二十代には見えないと思う。
悲しいことに、頬に薄いシミが出て来てるもの。
内野さんは笑いながらビールの次のハイボールを飲んでいた。
〈サン・ルイ〉のことやそこでのことは彼らには話さなかった。話す必要は無い。私だけの秘密の宝物だから。
先輩方の話を聞くと新しい職場での仕事はまあまあ順調のようで、私も安心した。四十を過ぎての転職は難しくリスクが高いと聞いていたので、心配していたのだ。
ふたりは新しい道を選び、私は今の会社で今の仕事を無難に定年までこなす。それで良い。
居酒屋で二時間ほど三人で楽しく飲んで話をした。内野さんは飲み足りないらしく、もう一軒行こうとしきりに渡辺さんを誘っていたが、渡辺さんはサッと帰ってしまった。後から思えば、私もその時帰るべきだったのだ。
内野さんからもう一杯だけ付き合って欲しいと誘われて、私は断りきれず、手首を引っ張られて少し歩いた先のビルの地下にあるバーに入った。
そこは、ホステスさんのいるバーで、内野さんの馴染みのお店らしかった。私たちは、奥まった陰のボックス席に通された。ボトルキープをしているようで、女性が内野さんに水割りを作って、軽く当たり障りのない会話をしたあと、自然に離れて行った。
私は悪いがウーロン茶にして貰った。ここでゆっくりお酒を飲む気にはなれなかった。
「葉摘ちゃん、付き合って貰って悪かったね。なんとなく、まだ帰りたくなくて。葉摘ちゃんは、スタイルも良いし綺麗にしてるよね。うちの嫁さんなんかさ、すっかり中年のお母さんになっちゃって、色気ゼロだよ」
「私ももう四十ですよ。若くはないし色気もないですし、ただの行き遅れですから」
「そんなことない、とても魅力的だよ」
内野さん酔ってるんだろうか。それとも辛いことでもあったんだろうか。会社で一緒だった時は、いつも朗らかでこんな話題を口にする人ではなかった。
「この歳で転職は、失敗したかな。やっぱり給料は減ってね、嫁さんからは文句を言われてる。嫁さんもこのご時世でパートのシフトを減らされたしいんだ」
「それは、大変ですね」
家族持ちはやはり大変だと思う。お子さんふたりもまだこれから何年も育てなくてはならない。
内野さん、こんな所で飲んでお金を使って良いのだろうか。まあ、たまには息抜きも必要か。
「男だって、色々辛いんだよ。わかってくれるよね? 葉摘ちゃん」
「はい、内野さんは一家の大黒柱ですから、何かと責任ありますものね。本当に大変だと思いますよ」
私はここで内野さんを褒めて宥める役割をしなきゃないの? 早く帰りたい。
「わかってくれて、ありがとう! 葉摘ちゃん、頑張ってる俺にご褒美くれる?」
「ご褒美って、……!?」
一瞬の出来事だった。
内野さんが私の唇にキスしたのだ。
ザラリとした舌の感触……が残った。
私は頭が真っ白になった。
まさか、
油断した。
内野さんからキスされるなんて、思いもしなかった。
ああ、馬鹿だ。
私が隙を見せたのが悪いんだ。
何の罰?
私は、無理やり笑みをはりつけるとバッグを手元に引き寄せ、スマホを確認するフリをしてから立ち上がった。
「内野さん、すみません。ちょっと友達から連絡あったんで、今日はこれで失礼しますね」
私は震える手で財布から五千円札を出すと、テーブルに置いた。
「なになに、男?」
内野さんは興味津々の顔つきで、私にキスしたことなど、悪いことをしたなどとは露ほども思ってない様子だ。
「本当にすみません、失礼します!」
「あ、葉摘ちゃん!!」
自分のミスだ。私も渡辺さんと一緒に帰れば良かった。このことを渡辺さんに話したら、もめるのは目に見えている。渡辺さんと内野さんは仲の良い飲み友達。だから私は彼女には何も言わないし、言えない。ふたりの仲を裂くような真似はできない。
私はバーから走り出た。内野さんは、追いかけては来なかった。
こんなことくらいで、四十女は泣かない。
ーーーなになに、男?
全く嘘という訳でも無かった。
コウさんから、悩み相談は〈サン・ルイ〉以外の場所でも良いかとのメールだった。瑠伊さんがいちいちうるさいらしい。瑠伊さんとコウさん姉弟の些細なやり取りでさえ、思い出すと、多少は穏やかな気持ちになれた。
〈サン・ルイ〉は、駆け込み寺ではない。既に閉店時間を過ぎていて、恐らく誰もいないのはわかっている。それなのに私はそこに向かっていた。急いでいたので息は切れるし、体はおもりを背負っているかのように重い。それでも、私の足は止まらなかった。
〈サン・ルイ〉に着く頃には、どうしようもなく辛くてやるせない気持ちは、落ち着いて来ていた。
ところが内野さんの舌の感触が、思い出されると、急に吐き気に襲われた。
閉店した後の真っ暗な〈サン・ルイ〉のドアに手をかけ、しゃがみ込んだ。吐くものは無く、かわりに我慢していた涙が零れた。これは悔し涙。
四十にもなって、なんで好きでもない人から、キスされなきゃなんないの!?
悔しい、悔しくて情けないっ!!
「ん? 葉摘さん……!?」
「……」
この張りのある声。矢坂さんじゃない。
最近私を馴れ馴れしく名前で呼ぶ人。
ゆっくり振り返ると、そこには、レジ袋を下げたコウさんが立っていた。
苦手な方はご注意下さい。
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「こ、小宮山さん……?」
瑠伊さんの、困惑した顔。
彼女を困らせることが出来たのを少し嬉しく感じるだなんて、だいぶ酔っているのかもしれない。
「向井さんはいつがご都合よろしいんですか?」
私は初めてコウさんの顔をまともに見つめた。
コウさんは、頭をガリっと掻くと横目で瑠伊さんの様子を窺いながら、
「えーと、オレは仕事は平日は五時四十五分までで、土日が休みです。平日だったら六時三十分以降、土日は何時でも良いですよ。葉摘さんの都合に合わせますよ」
「ちょっと、コウちゃん!!」
「アネキは黙っててくれる? これは正式な依頼になるんだから」
コウさんの正式な依頼という言葉は、まるでビジネスのようだった。でも、それは事実。私たちの間に、それ以上の感情は無い。
「だけど……小宮山さんは本当に相談するのがこの弟で良いんですか?」
瑠伊さんは弟の不始末に戸惑っているような姉の顔だった。
「ええ。気軽に相談できそうなので、してみたいんです。向井さん、では、日程は改めてご連絡します。それでよろしいですか?」
「いいですよ。名刺の裏の個人の電話番号か表のメールアドレスに、連絡下さい。待ってますから」
私は頷いて、出されたブレンドコーヒーをいただくと、足取りも軽く店を出た。
大胆なことをした。
そのくらいしか、その時は思っていなかった。
コウさんと面談でお悩み相談する日をいつにするか考えるだけで、デートの日を決めるみたいでなんだか楽しかった。だから、コウさんに連絡をするのが勿体なくて、一度挨拶程度のメールをしたあと、そのまま日程を決めることなく連絡を先延ばしにしていた。
コウさん、イライラしてるかな。
ごめんなさい。
◇◇◇
それから一週間が過ぎた。
少し前に会社を辞めて行った仲の良かった男女の先輩方から誘いを受けたので、会社帰りの金曜の夜、三人で飲みに出かけた。
女性の渡辺さんは、設計とインテリアの仕事をしていた人で、辞めてから仲間同士で小さなインテリア事務所を立ち上げた。住宅メーカーの建売住宅などのインテリアコーディネートを請け負うのがメインの仕事らしい。私より六歳年上で既婚者だけれど、お子さんがいないので、バリバリ仕事をしている。私が入社当初、とても親切に指導していただいて、尊敬する先輩だった。今日は、耳を見せるほどのショートヘアに、紺色のツーピースを格好よく着こなしていた。
男性の内野さんは、ずっと営業担当をしていたが、それに疲れて退職すると、知り合いの会社の内勤業務の仕事に就いた。既婚者で中学生と小学生のお子さんがいるお父さんだ。いつもニコニコしていて、少し白髪が目立つようにはなったものの相変わらず物腰の柔らかな人だ。
先輩ふたりは同期入社で仲も良く、明るく楽しい人たちだった。彼らが会社にいた時は私もよく混ぜてもらって、気軽に三人で食事に行ったり飲みに行ったりしていた。
いつもの居酒屋は騒がしいが、人々の元気を貰える感じがして、嫌いではない。
「で、葉摘ちゃんは、最近どうなのよ?」
渡辺さんが、豪快に中ジョッキのビールを飲む。そして定番の枝豆をパクパクと忙しなく口に持って行く。
「そうですね。私は毎日変わりなく、家と会社とたまにカフェの往復です」
「お付き合いしてる人はいないの?」
「ええ、まあ」
「好きな人は?」
「いますけど、恋人になりたいとかじゃなくて、たぶん憧れです」
「え? なんで? どんな人よ?」
「もう、私の話はいいですから」
好きな人に、私の気持ちを伝えることはない。
この手の話は勘弁して欲しいけど、他人の噂話が楽しいらしく、会社の誰と誰がその後どうなったとか、渡辺さんからはしつこく聞かれた。内野さんが助け舟を出してくれたので、渡辺さんの勢いも収まったけれど。
私は小ジョッキのビールをチビチビと飲んで、適当に聞かれた質問に当たり障りのない範囲で答えた。彼らはもう同じ会社の社員じゃないし、あまり内部のことをベラベラ喋ることはできない。
「こんなに綺麗な葉摘ちゃんが独身なんて、みんな見る目ないよなあ。うちの若い野郎を紹介しようか?」
「綺麗って、ありがとうございます。お世辞でも嬉しいですよ。内野さんの会社の若い方って、私よりもずっとお若いんじゃないんですか? 遠慮しときます!」
「お世辞じゃないよ。葉摘ちゃんはまだ二十代に見えなくもないし」
それは言い過ぎだろう。
さすがに二十代には見えないと思う。
悲しいことに、頬に薄いシミが出て来てるもの。
内野さんは笑いながらビールの次のハイボールを飲んでいた。
〈サン・ルイ〉のことやそこでのことは彼らには話さなかった。話す必要は無い。私だけの秘密の宝物だから。
先輩方の話を聞くと新しい職場での仕事はまあまあ順調のようで、私も安心した。四十を過ぎての転職は難しくリスクが高いと聞いていたので、心配していたのだ。
ふたりは新しい道を選び、私は今の会社で今の仕事を無難に定年までこなす。それで良い。
居酒屋で二時間ほど三人で楽しく飲んで話をした。内野さんは飲み足りないらしく、もう一軒行こうとしきりに渡辺さんを誘っていたが、渡辺さんはサッと帰ってしまった。後から思えば、私もその時帰るべきだったのだ。
内野さんからもう一杯だけ付き合って欲しいと誘われて、私は断りきれず、手首を引っ張られて少し歩いた先のビルの地下にあるバーに入った。
そこは、ホステスさんのいるバーで、内野さんの馴染みのお店らしかった。私たちは、奥まった陰のボックス席に通された。ボトルキープをしているようで、女性が内野さんに水割りを作って、軽く当たり障りのない会話をしたあと、自然に離れて行った。
私は悪いがウーロン茶にして貰った。ここでゆっくりお酒を飲む気にはなれなかった。
「葉摘ちゃん、付き合って貰って悪かったね。なんとなく、まだ帰りたくなくて。葉摘ちゃんは、スタイルも良いし綺麗にしてるよね。うちの嫁さんなんかさ、すっかり中年のお母さんになっちゃって、色気ゼロだよ」
「私ももう四十ですよ。若くはないし色気もないですし、ただの行き遅れですから」
「そんなことない、とても魅力的だよ」
内野さん酔ってるんだろうか。それとも辛いことでもあったんだろうか。会社で一緒だった時は、いつも朗らかでこんな話題を口にする人ではなかった。
「この歳で転職は、失敗したかな。やっぱり給料は減ってね、嫁さんからは文句を言われてる。嫁さんもこのご時世でパートのシフトを減らされたしいんだ」
「それは、大変ですね」
家族持ちはやはり大変だと思う。お子さんふたりもまだこれから何年も育てなくてはならない。
内野さん、こんな所で飲んでお金を使って良いのだろうか。まあ、たまには息抜きも必要か。
「男だって、色々辛いんだよ。わかってくれるよね? 葉摘ちゃん」
「はい、内野さんは一家の大黒柱ですから、何かと責任ありますものね。本当に大変だと思いますよ」
私はここで内野さんを褒めて宥める役割をしなきゃないの? 早く帰りたい。
「わかってくれて、ありがとう! 葉摘ちゃん、頑張ってる俺にご褒美くれる?」
「ご褒美って、……!?」
一瞬の出来事だった。
内野さんが私の唇にキスしたのだ。
ザラリとした舌の感触……が残った。
私は頭が真っ白になった。
まさか、
油断した。
内野さんからキスされるなんて、思いもしなかった。
ああ、馬鹿だ。
私が隙を見せたのが悪いんだ。
何の罰?
私は、無理やり笑みをはりつけるとバッグを手元に引き寄せ、スマホを確認するフリをしてから立ち上がった。
「内野さん、すみません。ちょっと友達から連絡あったんで、今日はこれで失礼しますね」
私は震える手で財布から五千円札を出すと、テーブルに置いた。
「なになに、男?」
内野さんは興味津々の顔つきで、私にキスしたことなど、悪いことをしたなどとは露ほども思ってない様子だ。
「本当にすみません、失礼します!」
「あ、葉摘ちゃん!!」
自分のミスだ。私も渡辺さんと一緒に帰れば良かった。このことを渡辺さんに話したら、もめるのは目に見えている。渡辺さんと内野さんは仲の良い飲み友達。だから私は彼女には何も言わないし、言えない。ふたりの仲を裂くような真似はできない。
私はバーから走り出た。内野さんは、追いかけては来なかった。
こんなことくらいで、四十女は泣かない。
ーーーなになに、男?
全く嘘という訳でも無かった。
コウさんから、悩み相談は〈サン・ルイ〉以外の場所でも良いかとのメールだった。瑠伊さんがいちいちうるさいらしい。瑠伊さんとコウさん姉弟の些細なやり取りでさえ、思い出すと、多少は穏やかな気持ちになれた。
〈サン・ルイ〉は、駆け込み寺ではない。既に閉店時間を過ぎていて、恐らく誰もいないのはわかっている。それなのに私はそこに向かっていた。急いでいたので息は切れるし、体はおもりを背負っているかのように重い。それでも、私の足は止まらなかった。
〈サン・ルイ〉に着く頃には、どうしようもなく辛くてやるせない気持ちは、落ち着いて来ていた。
ところが内野さんの舌の感触が、思い出されると、急に吐き気に襲われた。
閉店した後の真っ暗な〈サン・ルイ〉のドアに手をかけ、しゃがみ込んだ。吐くものは無く、かわりに我慢していた涙が零れた。これは悔し涙。
四十にもなって、なんで好きでもない人から、キスされなきゃなんないの!?
悔しい、悔しくて情けないっ!!
「ん? 葉摘さん……!?」
「……」
この張りのある声。矢坂さんじゃない。
最近私を馴れ馴れしく名前で呼ぶ人。
ゆっくり振り返ると、そこには、レジ袋を下げたコウさんが立っていた。
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