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外伝  孤城の敵 A start of the Legend

下 孤城の敵

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 那古野城。
 城主・今川氏豊は退屈していた。
 特に何もすることが無い。
 が、今川那古野氏としての氏豊の仕事である。

「ふあ……」

 欠伸あくびをしても、誰も咎める者はいない。
 海道の覇者たる父・今川氏親の威光のゆえか、それとも、尾張国内において――守護・斯波家と守護代・織田家という海において、その中で佇立ちょりつする孤城・那古野城にかかわりを持とうなどというを起こしたくないのであろう。

「誰ぞ……」

 近侍たちがおもてを伏せる。
 重臣おとどたちも何か用事を思い出したとばかりに、城主の間から出て行く。

「……まだ、麿まろはまだ何も言うてないというに」

 これだ。
 いつも、これだ。
 氏豊は慨歎がいたんした。
 氏豊は連歌狂である。
 今川という名門に生まれたがゆえに、幼い頃から、和歌に連歌と興じてきた。
 これには、母・寿桂尼の存在も大きい。
 今川氏親の正室・寿桂尼は、京・中御門家の出身である。
 氏豊は末っ子ということもあり、寿桂尼から可愛がられ、連歌もその流れで教えられた。
 今となってはその寿桂尼も、父・氏親亡き後の今川家の運営、またこれから自らまつりごとにあたる長兄・氏輝の補佐と、やることが目白押しで余裕がなかったのか、交流が途絶えている。

「致し方ない」

 それでは、父・氏親から教えてもらった百舌鳥狩もずがりにでも行くか、と腰を上げた時だった。

「織田信秀さま、いらっしゃいました」

「何と」

 これには近侍たちも浮足立った。
 織田信秀は自身の居城で蹴鞠会を催すほどの、みやびの理解者である。
 少なくとも、氏豊の認識では、そうだ。
 それは氏豊の近侍や家臣たちにも共有されており、信秀のおとないがあると、氏豊は喜び、では蹴鞠なぞしようと城の庭へ誘うのである。
 これで、暇を持て余している氏豊の、いつ果てるともない連歌に付き合わなくて済む。
 ある重臣などは、口に出して言っていたぐらいだが、そこで、あろうことか、天から雨が降り出してきた。

「嗚呼」

 これでは蹴鞠ができない。
 せっかくの信秀の訪問も、終わる。
 皆、そう思った。
 何しろ、信秀は、蹴鞠はできるが、実は連歌はさほどでもない。
 そこが玉にきずである。
 尾張の支配層の代表格、織田家。
 その一門に庶流に連なる織田信秀は、斯波家や織田家の本家からすると、「ほど良い距離」にあり、今川那古野氏と接近しても、特に目くじらを立てられることはなかった。
 また、駿河の今川本家にしても、尾張の現地とのはある程度保って欲しいという思惑も有り、織田信秀のたびたびの訪問については、特に何も言ってこない。

「尾張と駿河、双方の面目のために……か、そこが付け目よ」

 その呟きは誰にも聞かれることはなかった。
 氏豊は庭に出て、片手の手のひらを天に向けて、雨滴を受けて、「やんぬるかな」と残念がっている。
 その氏豊に、信秀は拝礼しながら言上した。

「こたび、この信秀が参ったのは他でもありません。実は……連歌についてでござる」



 今川氏豊は狂喜した。
 自分が連歌狂であることは知っている。
 周囲が、いや誰もがその連歌狂の自分に付き合いたくない、そこまで連歌にのめり込めない、ということも知っている。
 それを。

「信秀どの……さ、よう、よう」

「は。さすれば……」

 もう、何日連歌をしているか分からない。
 最初は、さすがにそこまではやらなかった。
 けれども、信秀が「今度こそ」と言いつつ、何度も何度もやって来るので、氏豊はついに「互いに音を上げるまでやろう」として、今は限界近くまでをひねり出している。
 信秀も信秀で、重臣である平手政秀に、「自分が呼ぶまで来るな」と言い置いている。
 さすがに信秀を何日も放っておくこともできず、那古野の城外、志賀・田幡のあたりに手勢と共に待機している。

「危険ではありませぬか」

 危惧を口にする氏豊の家臣もいた。が、氏豊も信秀に付き合ってもらっているという引け目もあるし、大多数の家臣はせっかく氏豊の相手をしないですむのに、という気持ちなのだ。
 ……結局のところ、危惧を発言した家臣も何も言わなくなり、なあなあのまま、平手政秀とその手勢は那古野城外にたむろしたまま、何日か過ぎた。
 そしてある日のこと。

「氏豊どの……も、もう結構……というか、拙者、ちと、気分が」

 すぐれぬ、と言おうとした信秀は倒れた。
 これにはさすがの氏豊も驚き、すぐに城外の平手政秀を呼ぶように、近侍に命令した。
 近侍が政秀のいる陣へ向かって少し経つと、今度は家臣が泡を食ってやって来た。

「じょ、城下に、火が」

「何!」

 この今川那古野氏・今川氏豊の城、那古野城の城下に火を放つなど、一体誰か。
 氏豊が考えをめぐらす暇もなく、城門の方から、「開門、開門」と平手政秀の声が。
 主たる信秀の危篤と、城下の火。
 さしもの政秀も心穏やかならずであろうと、氏豊はすぐに開門するように、門番をせかした。
 門が開く。

「今川氏豊どの、お覚悟」

 その声は、だが背後から聞こえた。
 気づくと、織田信秀が脇差を抜いて、氏豊の喉に擬している。

「な、な、何を、信秀どの」

「この城をいただく」

「な、な、何ゆえ」

 そこで信秀は目を見開いた。
 驚いているらしい。
 氏豊の問いに答えられない自分に。

「う~ん……言われてみると、どうして城を盗るのだったか」

「オイ信秀」

 城を制圧すべく、兵らに矢継ぎ早に指示を下す政秀が、そこであきれたように声を上げた。

「生まれた子の、吉法師きっぽうし(信長の幼名)のためじゃなかったのか、それ城盗り

「それはまあそうだが……改めて考えてみると、吉法師のといえばだが……」

 氏豊からすると、脇差が喉に迫る中、そのような会話をするな、何でもいいから脇差を何とかしろと言いたいが、政秀の鋭い目線に、何も言えない。

「お。そうだ」

「何だ」

 政秀がもはやうるさそうに応じると、信秀は嬉しそうに笑った。

「あの唄だ、あの唄だ。子のためといえばそのとおりだが、まずはおれ自身が、やりたかったんだ、語り草となる、何かを」

 子のために「何か」を残したい、それはある。
 それはあるが、その「何か」をしたいというのは、そも、何のためか。
 まずは己自身が、語り草となる「何か」をしてみたい、やってみたいという気持ちのためではないか。
 信秀は、氏豊の問いから、そう思い至った。
 悟りと言っても良いかもしれない。

「やれ、嬉しや。氏豊どの、汝のおかげじゃ」

「は、はあ……」

 そんなことよりこの脇差を下ろしてくれと言いたいが、氏豊としては、ここで迂闊な真似はできぬと、うなずくしかない。



 今川氏豊との問答がよほどうれしかったのか、織田信秀は今川氏豊を追放するにとどめた。

「殺さなくていいのか」

 とは、平手政秀の言である。

「いいのさ」

 信秀は手をひらひらとさせながら応じた。

「へたに殺すと、あとが怖い。さしもの寿桂尼と今川氏輝とて、この尾張にまで兵を差し向けるやもしれぬ」

「…………」

 一理ある、と思いつつも、どこか不満そうな政秀の顔。
 信秀は政秀の肩を抱いた。

「あとはのう……そうしておいた方が、いざ今川に争乱が起こっていた時に、利があるからじゃ」

「争乱!?」

 政秀が驚愕する。

「そうじゃ。今川氏輝、蒲柳ほりゅうの質と聞く。体が弱い。そんな体で、あの今川家を背負う……長くはつまい」

 まただ。
 また、勘の良さを発揮している。
 政秀が眉をひそめる中、信秀は楽しそうに話をつづける。

「そこへもって、家督争いの争乱がささやかれる最中さなか、氏豊どのを持って行ったら、どうなるか」

「…………」

「……まあ、ああいうお方だ、氏豊どのは家督に興味など持つまいよ。ゆえに」

「京へ行かせたのか」

「そうよ」

 今川氏豊は、妻の縁者を頼って、京へ行った。
 そこには織田信秀の長広舌による、「駿府へ戻れば、家督を狙うと思われる」という触れ込みがあった。
「まあたしかに……京へ行ってもらった方がやり易くはある」

 平手政秀がそう云うのは理由がある。
 斯波家や他の織田家に対しては、積年の今川の攻勢への仕返しとして。
 今川家に対しては、氏豊が尾張国内の「孤城の敵」として存立するのが厭になったとして。
 城を預かるができるからである。

 ……守護(斯波家)や守護代(織田本家)は、今川へ意趣返ししたいが、だからといってや表には立ちたくないし、など御免だ。だから氏豊を「追い出した」かたちにすれば――それも、京へ行ってしまったことにすれば――それは「適度な」範囲での復讐である。
 ……今川家にとしては、現当主・氏輝とその後継と目される彦五郎の対抗馬となりうる氏豊の立場は微妙である。また、下手に尾張国内の火種となられても、現在の今川家では対応できない。よって、今川那古野氏・氏豊は邪魔というか厄介であり、できれば穏便に消えてもらいたい存在である。

「……それが、都合よく京へ行ってしまった……信秀、これお前が最初はなからそう描いていたことだろう?」

「ちがうな、政秀」

 信秀は、ざるから胡瓜を二本取り、一本を政秀に放り投げた。
 政秀が器用に胡瓜を手で取ったのを見て、信秀は微笑んだ。

「……まあ、城盗りをしたあとは、穏便に済ませられればいいな、とは思うていたが、そこまで明確にハッキリと描いていたわけじゃない」

「……つまり、出たとこ勝負か、わが主、信秀よ」

「……そこで厭味っぽく『わが主』とか云うな、わが友、政秀よ」

 信秀は胡瓜をかじった。
 政秀も齧った。
 そして思った。信秀は、たしかに明確には絵図面を描いていなかったろうが、おそらく、何通りか、うすぼんやりとだが、「こうすると、こうなるだろう」という程度の考えは持っていたのだろう。
 そういう「ゆらぎ」の中から、正解をつかみ取るのが得意の男だ。

「……大した玉だ」

「? 何か云ったか?」

「胡瓜が旨いと云ったんだ」

「そうか」

 胡瓜を齧り終えた信秀は、頬杖を突いた。
 そして何気なくだが、いつも好んで唄う小唄を口ずさみ、政秀もそれに和した。

 ――死のふは一定いちじょう しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすのよ

 唄い終えた信秀は、ふと思い出したように云った。

「そういえば」

「何だ。那古野の城は盗ったものの、領地のこととか、いろいろと忙しいんだ」

「そうだが」

「……云ってみろ」

 結局のところ、政秀は信秀に弱い。
 眉目秀麗な政秀が凄むと結構な迫力なのだが、信秀は怖れず、云った。

「吉法師の奴、何だか将来、大敵だか大難だかに遭うような気がすると云ってきて……」

 そして二人が笊の胡瓜を食べつくす頃には、政秀は吉法師の傅役もりやくになることを承服させられていた。

「やれやれ。この忙しいのに」

 だが悪い気はしなかった。
 この悪い気がしなかったことが、この国の運命を変えていくことになるのだが、この時の織田信秀と平手政秀は、それを知るよしもなかった。




【「輿乗の敵」外伝「孤城の敵」 A start of the Legend  了】
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