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第十六部 決戦の地

85 「石水混じり」の雨

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 簗田政綱やなだまさつなと木綿藤吉は、政綱が今川の忍びの者を全て始末して、忍び小屋に隠したのち、言ったとおり、野伏のぶせりのように、あるいは野の獣のように、森を、林を、茂みを走り、ついに今川軍の側面のくさむらに潜むことに成功した。
 政綱はそっと、その草と草の隙間から、今川軍をうかがう。

「……どうやら、進軍を止めるようだ」

「ですな。先手さきてが出たようなので、戻ったらまた」

「いや」

 政綱は空を指差した。
 時折、稲光が走る黒雲がうごめいている。

「もうすぐ雨だ。それにそなえて、どこぞに急ごしらえの陣でもかまえるやもしれぬ」

「……と、なると」

 木綿は考える。
 その、考える木綿を、政綱は黙って見守っている。
 実は、政綱はこのが終わったら、一線から退しりぞこうと思っている。
 自分の心身の最高潮はこのあたりだ、という自覚があったからである。
 人間は年を取る。
 衰えるのは、やむを得ない。
 幸い、忍び働きについては、蜂須賀小六がいる。
 だが、謀臣としては、この木綿藤吉が一番、見所みどころがある。
 過日、それを信長に申し出ると、「そのとおりである」と賛意を示され、こたびのには、必ず木綿を連れて行き、そのはかりごとすべを伝えよと念を押された。

「さて木綿、おれと……信長さまのを、裏切ってくれるなよ」

「……何か申されましたか?」

「いや、ひとりごとよ。それより、どうか」

 どうか、と聞く内容は決まっている。
 このような状況下で、今川軍がどう、そしてどこへ陣をかまえるか、ということだ。

「雨天ゆえ、陣に水が溜まらぬよう、高所へ。それも、大高城や、その他の砦が見られるような高所へ」

「……そうだ」

 政綱は、彼らしくもなく涙を浮かべながら、木綿の肩を叩いた。
 ああ、やはり、自分の潮時は、この時だという感慨があったからかもしれない。

「……あ、政綱さま。敵、動き出しました」

「よし。つけるぞ。ただし、今川の陣の目星がついたら、離れる」

 時が流れている。
 今、陣の場所を確かめることに必要以上に拘っては、織田は負ける。

「松平なり、朝比奈なり……それが戻ることと、何より……海路を迫る、ですな」

「そうだ」

 今川軍、特に今川義元の本陣を見極める。
 ただし、海路から迫る敵が侵掠をする前に。
 ……そういう、矛盾した命題に直面する織田軍であった。



 中嶋砦。
 織田信長は、寝てはいないが瞑目して、簗田政綱と木綿藤吉の到着を待っていた。
 前田利家らのもたらした情報により、今川軍の動向はある程度知れた。
 が、この雨の中、具体的にはどこに陣をかまえるのか。
 それを知らないことには、これからやろうとしていることができない。

「信長さま」

「何だ」

 信長は眉一つ動かさないが、政綱と木綿か、と言いたいことが、帰蝶にはわかった。

「……いえ、柴田勝家さま、この中嶋砦に着陣なさいました」

「……で、あるか」

 信長の態度は変わらない。
 常と変わらぬ態度だ。
 だがその目に、残念そうな色が帯びるのを、帰蝶は見た。

「……湯漬けでも作りましょうか?」

「……頼む」

 それを聞いて、森可成もりよしなりや河尻秀隆も、われもわれもと湯漬けをと言い出す。

「……お前ら」

 信長が失笑すると、帰蝶や皆も笑った。
 ちょうどそこへ、柴田勝家が砦の中のこの場へと入って来た。
 相も変わらず、渋い顔。
 皆とちがって、山賊や偸盗どろぼうの退治をさせられていたからか。
 誰もがそう思う中、勝家は黙然と歩を進めて、信長の前に来て、座して言った。

「信長さま」

「何だ」

「熱田より急報が。焼き討ちに遭っているとのよし

「で、あるか」

 湊から、つまり海路からの焼き討ちであろう。
 これまで散々、ささやかれていた、海路からの――双頭の蛇の残った胴体の――水軍の攻撃が始まったのだ。

「して、焼き討ちの主は」

「三つ鱗ではないとのことです」

 三つ鱗。
 北条家の家紋。
 つまり、このたびの海路から襲撃は、三つ鱗――北条家による大船団の水軍ではなく、やはり服部党。服部友貞によるものと推定されるとのことだった。

「ですがもはや――ことと次第によっては、三つ鱗も出張ってきましょう」

 今川としては、最終目的が何であれ天下であれ、少なくとも尾張を支配下に置くことが当面の目的である。
 その尾張で悪評を高めるのは、なるべくなら避けたいところである。
 服部党がやり過ぎれば、当然、掣肘するために、北条水軍が出よう。

「服部党・服部友貞は歯止めが効かないところがあるからな。さもありなん」

 信長は立ち上がった。
 ことここに至っては、是非もなし。
 今少し、今少し今川義元の居場所を突き止めたかったが、熱田が今、海から攻められている。
 熱田を取られれば、鳴海城、大高城と連携し、今、中嶋砦ここにいる織田軍が孤立する。清州から切り離される。

「雨が」

 誰からともなく言ったその台詞に、信長は外を見た。
 外の雨は強く、もはや視界は遮られている。
 砦の屋根を叩くその音は、石でも降ってきているのかと言いたいぐらい、苛烈だ。
 信長公記に「石水混じり」と記される豪雨であり、もしかするとそれはひょうだったかもしれない。
 だが仕方ない。
 田楽狭間か、桶狭間か。 
 どちらかをつけて、征くしかない。

「いざ……」

 出陣、と言おうとした、その時だった。
 場に、帰蝶が現れた。
 いつの間にか、外に出ていたらしく、髪が、額が濡れている。

「信長さま」

「濃」

 帰蝶は無言で頭を下げた。
 そしてそのうしろから、何人かの影が。

「政綱? それに木綿か?」

「ただ今、戻りました」

「遅うなり申した」

 簗田政綱が毛利新介に抱えられ、木綿藤吉が前田利家に背負われて、場に登場した。
 帰蝶は、新介ら共に、砦の門前で、政綱らの到着を待っていたらしい。
 その当の政綱は、降る雨に濡らされ、と歯を鳴らすほど、寒がっているように見えた。
 だが実際の政綱は、寒がってなどいない。
 木綿の推測で、今川義元の本陣は、ある程度の目星がついた。
 ついたが、それを告げることが。
 そう、今川義元の居場所を告げることが。
 何か、空恐ろしいことのような気がしてならないのだ。
 そう、それは、沓掛城付近で輿の登場を待ちかまえていた時、感じたような。
 自分の目が、織田家という生き物、否、もっと大きな「何か」の目だと感じた、あの時のような。
 今の自分の口もまた、もっと大きな「何か」の口で、それをついと出してしまうと、それは天地を引っくり返す一大事を起こしてしまうような。
 ……そんな、気がするのだ。

「政綱」

 信長が語りかける。
 気がつけば、自分の肩に手を置いている。

「……大儀」

 ああ、自分は報われている。
 この人は、自分の働きをちゃんと見てくれている。
 そういう「大儀」だった。
 ……気がつけば、帰蝶もまた自分の肩に手を置いてくれている。
 そして自分の背にも、木綿のごつごつとした、それでいて力のある手が。

 ……言おう。
 政綱は口を開いて、それを告げた。
 この国の天地を引っくり返すことになる、それを。

輿こしは……輿乗よじょうの敵は、今川は……桶狭間山にあり」

「で、あるか」

 信長の目が炯炯けいけいと輝く。
 ついに、この時が来た。
 信長は語った。
 何故かは知らないが、自分は生まれた時から、こうなることを知っていた、と。

「……そう、何か大きなこと、大きなものが、いずれ自分の前に現われ、が来る、と知っていた。それが何かは分からない……が」

 まだ幼かった信長がそう言うと、父・織田信秀は、ある男を連れて来た。

「お前にこの男をつける。学べ。教われ。さすれば……の助けとなろう」

 信秀は自分の隣に立つその男を、自分の知る限り最高の知と力と……勇気を持つ男だと言った。
 その男の名は平手政秀。
 以後、傅役もりやくとして支え、見守り、死ぬまで信長を助けた硬骨漢である。

「もうこういうことは言うまいと思っていたが……敢えて言おう、親父殿、爺、義父上ちちうえ、見守っていてくれ」

 帰蝶がいつの間にか、隣に立っていた。
 もう、簗田政綱も木綿藤吉も、自らの足で立っている。
 それに毛利新介や前田利家もならび、そして毛利長秀や柴田勝家、気がつけば森可成や河尻秀隆らも、集まってきている。

「信長さま」

 一同を代表してか、帰蝶が言った。

「この石水混じりの雨の中ですが……」

「皆まで言うな」

 信長は笑った。
 それは、人によっては第六天の魔王の如き笑みだったかもしれない。
 だが、この場にいる誰もがそれを頼もしく思った。

「いざ……いざ、出陣!」

 織田信長、中嶋砦を出陣。
 折からの激しい風雨の中であるが、むしろそれを好機として出陣した。
 ……輿乗の敵を討つために。
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