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第十五部 敦盛の舞
83 前哨戦
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中嶋砦。
今川義元が沓掛城を出たこと。
織田信長が中嶋砦に向かいつつあること。
このふたつにより、砦の守将・梶川高秀はてんてこ舞いとなり、致し方なく、清州から出張って来て、砦外に陣をかまえていた明智十兵衛と佐々政次が高秀を補佐して、鳴海城の方への見張りを務めていた。
そして、信長を迎えるなら、やはり熱田神宮大宮司である千秋季忠に砦にいてもらった方がいいという話になり、季忠に使いを寄越した。
ところが、その使いが帰って来ると、季忠の陣に誰もいないと言った。
「どないなっとるんや」
「面妖だな……十兵衛どの、ここは拙者が行こう」
佐々政次は十兵衛が客将であることに気を遣い、自身が行くことにした。
このことが政次の生死を左右することになるのだが、今の政次には知る由もない。
*
佐々政次が手勢を率いて、千秋季忠のいた陣に行くと、そこには誰にもいないわけではなく、ひとりの神人が木陰で寝入っているのを発見した。
「もし、もし」
政次が肩を揺さぶると、神人は目を覚ました。
神人の汗は多く、よほど疲れることをしたのだということが知れた。
「寝ていたところ、すまぬが、千秋季忠どのを知らぬか?」
「……あ、ああ、それなら、出陣しました」
「なにゆえ!?」
政次の驚愕に、むしろ何故驚くのかといった表情をする神人は、自身が携えて来た情報を伝えた。
「熱田沖に……船の群れ? そなた、何故それを中嶋砦に伝えぬ」
気色ばむ政次に、神人は答えた。
「い、いやそれが……季忠さまが、あとは任せろと言うので……」
そして出陣の準備を整える季忠を見て、きっと季忠が中嶋砦に伝えてくれるのだろうと思って、早馬で疲れていたということもあり、この木陰で寝入ってしまったという。
「し……しまったッ! 季忠どの、抜け駆けか! い、いや、これは……」
政次は僚将として、季忠が織田信行のことで思い悩んでいたことを知っていた。
その季忠が、しかも、己の属する熱田神宮の、熱田の湊が例の今川の水軍に攻められつつあると知ったら、どうなるか。
「お……追えッ! 季忠どのを追うのじゃッ! 早う! 早うッ!」
*
千秋季忠は焦っていた。
今川軍を早く見つけなくては。
それは季忠自身の悔恨である織田信行のことと、今、現実的な脅威として、今川の水軍が、熱田に迫りつつあるからだ。
「早く、早く今川を叩かねば」
特に当てがあったわけではない。
だが、今川の先手が来ているという未確認情報がある。
その先手を捕まえれば、おさらく今川義元の居場所なり何なり、つかめるだろう。
そういう腹づもりであった。
「……おや」
そして季忠は、運命の邂逅を果たす。
季忠は、今川軍とおぼしき群れを見つけた。
何故、今川軍とおぼしきというのか。
それは。
「あれは……津々木、蔵人!」
髭と髪は伸びていたが、季忠にはすぐ判った。
蔵人自身は、物見のつもりで、手勢を率いて出て来ていたところであるが、季忠からすると、かつて織田信行の家臣であった蔵人が、織田を裏切って、今川の道案内をしているように見えた。
蔵人の認識としては、むろん今川の臣であるというのが先にあり、織田の臣というのは一時の方便であり、織田の連中の気持ちなど知ったことではなかったが。
「おのれ佞臣……そこまで、そこまで織田に仇を為すかッ!」
季忠は激昂した。
そもそもあの日、この蔵人が信行を誘って、斯波義銀に会わせようとしていた節がある。
「かかれえッ」
一方の津々木蔵人。
彼は、今川軍が尾張に入ったことにより、自身の目で「偵察」する必要があると具申した。今川軍の諸将は「今出て来たぽっと出の奴に」と反対したが、それを今川義元が押し切って、久野元宗の隊を寄騎に付けてくれた。こうして蔵人は、久野元宗らの隊の結構な兵数を率い、先手として進んでいたところである。
勇んで中嶋砦に向かったところへ、ちょうど千秋季忠と出くわしたところである。
「何がかかれ、だ。貴様、千秋季忠だな? どれ、ついでに捉まえて織田のことを吐かせてやる!」
この日――永禄三年五月十九日、正午。
千秋季忠は、今川軍の先手・津々木蔵人と遭遇戦に入った。
*
毛利新介、毛利長秀、前田利家ら三人は、善照寺砦へと馬を馳せていたが、幸運なことに、その途次で、織田家のある重臣の軍勢に出会い、信長が中嶋砦へと向かっていることを知る。
その重臣とは。
「し、柴田どの! 柴田勝家どの!」
「……お、誰かと思えば。槍の又左、だったか」
勝家としては、利家の二つ名は「槍の又左」だったかな、という諧謔であったのだが、あまりにも迂遠だったため、誰にも気づかれることは無かった。
しかし勝家が気分を悪くする前に、利家が「勝家どの!」と抱き着いてきたので、むしろ勝家は閉口した。
「わ、わかった。わかったから離れよ。落ち着け」
これから戦場へ向かうというのに、美貌で知られる利家に抱き着かれる絵は、示しがつかん。
そこへ新介が聞きたいことがあるというので、渡りに船と、勝家は利家を引き剥がしながら「何だ」と言った。
「柴田どの……今、どちらに?」
「うむ」
やはり織田家一の武者はちがう。
軍勢の向かう先が気になるとは。
勝家は声を立てずに笑った。
「そうよ。信長さまは、すでに中嶋砦へ向かったとのことじゃ」
勝家は、いくさに乗じて乱取りする野武士や山賊を掃討しながら進軍していたため、いささか遅れていたという。
「さればわれら……これから中嶋砦へ向かいまする」
「……そうか」
勝家は、簗田政綱と木綿藤吉がいないことに気づいていたが、新介の目配せで、大方を悟った。
「よし、行け! われらもまた、中嶋へ行く。あとを追う」
新介らは無言で頭を下げて、馬を馳せた。
そして、それを茂みからうかがっていた影が追いかけようとした時、勝家が槍を投擲。
槍はあやまたず影に突き刺さった。
「今川の手の者か? さすがに海道一の弓取りは、油断ならんな……かかれッ」
勝家の裂帛の気合いの下に、柴田軍が駆け出す。
駆け出した先の茂みからは、何人かの影が飛び出したが、彼らは全員が、勝家の兵によって討ち取られてしまった。
「これで今川には、新介らのことの知らせが行かぬ……行かぬが、その行かぬということが、いずれは知れよう……あとは、簗田どのらが頼り」
その梁田政綱らも、必要に応じて敵の忍びを始末してようが、そういう足がついてでも、今は知らねばならぬ。
……輿乗の敵のいる場所を。
*
「……何やら、きな臭いわ」
明智十兵衛は、中嶋砦の守将・梶川高秀に「御免」と言い置いて、高秀が止めるのも聞かず、愛馬を駆った。
十兵衛の第六感に「何か」が感じ取れたのだ。
その「何か」は、今、駆けてゆく先で、姿を取って、現れる。
……前方に、金属を打ち合わせるような音が聞こえる。
剣戟の音だ。
「……千秋どの! 季忠どの! 退け! 退けい!」
「……止めるな、佐々どの! 今! あそこに! 佞臣が!」
佞臣とは大仰な言葉だな、と思って十兵衛が先を見ると、そこには津々木蔵人が、手勢を半包囲態勢にかまえて、千秋季忠と佐々政次ら三十余りの部隊を攻撃するところだった。
「あかん!」
十兵衛は火縄銃をかまえて、蔵人を狙った。
だが、その十兵衛を狙って、蔵人の隣の武者が弓を射た。
火縄が燃えるより、矢の方が速い。
十兵衛は舌打ちしながら、火縄銃を下ろし、矢を避けた。
「しゃらくさいやっちゃ。名を名乗れい!」
火縄の火は消えていない。
時間稼ぎのつもりだった。
「松平家中、服部正成!」
服部正成。
松平家一の武者である。
松平元康が、今川義元の身を案じて寄越したのが彼である。
十兵衛は正成のことをよく知らないが、それでも、その油断ならぬ眼光から、只者ではないことが分かった。
分かったので、火縄銃を撃った。
「おおきに。わいは明智十兵衛や。そらよ!」
「……小賢しい」
正成はわずかに頭を傾けて、弾丸を躱す。
その間にも、蔵人は包囲を完成させて、ついに千秋、佐々らを攻撃の網の中に閉じ込める。
「かかれ!」
待て、と十兵衛が言う前に、蔵人は容赦なく攻め立てる。
そこには、かつて浮野の戦いで恐怖した男の姿は無かった。
「義元さまの天下盗りの邪魔だ! 潔く散るがいい!」
千秋季忠、佐々政次も奮戦した方だが、蔵人の方が多勢であり、包囲されている。
加えて、明智十兵衛も、服部正成と一騎打ちを演じることになり、十兵衛と正成の実力は伯仲しており、とてもではないが、季忠と政次を援護できない状況になってしまった。
「千秋どの! 千秋どの! せ……」
最後まで千秋季忠の身を守ろうとした佐々政次は、その季忠に意識を取られているところを、弓矢の集中攻撃を食らって斃れてしまう。
「政次どの!」
そして政次の死により、悲歎にくれる季忠に対しても、蔵人は容赦なく攻撃した。
「食らえッ」
「くッ」
蔵人の槍が突き出される。
季忠もまた、政次の仇を討たんと必死だったが、ついに力尽きた。
季忠の手から刀が落ちる。
「うぬっ」
「よしっ、そのままお前も馬から落ちろ! 捉まえて……」
蔵人が槍を横殴りに振るう。
だが季忠は、捕まえられるよりはと、逆にその槍をその身に受けた。
「な……何ッ」
「これが……佞臣の貴様との差だ! 津々木……蔵人!」
蔵人の槍に突かれて、千秋季忠はついに絶命した。
動揺する蔵人だが、それではと十兵衛の方に向かおうとした時。
邪魔が入った。
「どけどけどけいッ! 槍なら、この『槍の又左』こと、前田利家とやらないか貴様ッ!」
前田利家が勇躍して槍を投擲する。
たまらず蔵人が馬を後退させると、その隙に毛利新介が、物凄い速度で服部正成に斬撃を浴びせた。
「うぬっ」
「わが名は毛利新介! 松平家一の武者、服部正成どのとお見受けする! いざ尋常に……尋常に勝負!」
むろん勝負する気など、新介には微塵もない。
新介の目的は、十兵衛を救い出すことにある。
そしてその新介の口上の隙に、毛利長秀が巧みに馬を十兵衛の馬に寄せて、そのまま十兵衛と共に、戦場を離脱した。
「……く」
それを見ていた服部正成だが、不満を述べるつもりはない。
もし仮に、自分が新介の立場だったら、同じことをするだろう。
それよりも、昂った蔵人が、利家を相手に戦おうとしている。
敵将を二人も討ち取った今、興奮状態にある将兵は、かえって危険である。
正成はこれまでの戦場の経験から、それを知っていた。
昂り、驕った将兵が、窮鼠猫を噛む敵軍に食われることを知っていた。
「退くぞ、蔵人どの!」
「正成どの、しかし……」
「天を見よ」
正成に言われて、天を仰ぐと、折からの黒雲が、この場を覆い尽くそうとしていた。
「雨が降る。強い雨が。われらは勝った。必要以上に、雨中で戦うことは無い」
冷静な正成にそう言われると、蔵人もなるほどそうかとうなずき、撤退を命じた。
同様に利家も、新介に諭されて、千秋季忠と佐々政次の残した将兵を集め、退いていった。
……こうして、桶狭間の戦いの前哨戦は、織田の負けに終わった。
そして服部正成の言ったとおり、この場に黒雲が群がり、やがて稲妻が走り、雷鳴が轟き、そして雨が降り出していった……。
今川義元が沓掛城を出たこと。
織田信長が中嶋砦に向かいつつあること。
このふたつにより、砦の守将・梶川高秀はてんてこ舞いとなり、致し方なく、清州から出張って来て、砦外に陣をかまえていた明智十兵衛と佐々政次が高秀を補佐して、鳴海城の方への見張りを務めていた。
そして、信長を迎えるなら、やはり熱田神宮大宮司である千秋季忠に砦にいてもらった方がいいという話になり、季忠に使いを寄越した。
ところが、その使いが帰って来ると、季忠の陣に誰もいないと言った。
「どないなっとるんや」
「面妖だな……十兵衛どの、ここは拙者が行こう」
佐々政次は十兵衛が客将であることに気を遣い、自身が行くことにした。
このことが政次の生死を左右することになるのだが、今の政次には知る由もない。
*
佐々政次が手勢を率いて、千秋季忠のいた陣に行くと、そこには誰にもいないわけではなく、ひとりの神人が木陰で寝入っているのを発見した。
「もし、もし」
政次が肩を揺さぶると、神人は目を覚ました。
神人の汗は多く、よほど疲れることをしたのだということが知れた。
「寝ていたところ、すまぬが、千秋季忠どのを知らぬか?」
「……あ、ああ、それなら、出陣しました」
「なにゆえ!?」
政次の驚愕に、むしろ何故驚くのかといった表情をする神人は、自身が携えて来た情報を伝えた。
「熱田沖に……船の群れ? そなた、何故それを中嶋砦に伝えぬ」
気色ばむ政次に、神人は答えた。
「い、いやそれが……季忠さまが、あとは任せろと言うので……」
そして出陣の準備を整える季忠を見て、きっと季忠が中嶋砦に伝えてくれるのだろうと思って、早馬で疲れていたということもあり、この木陰で寝入ってしまったという。
「し……しまったッ! 季忠どの、抜け駆けか! い、いや、これは……」
政次は僚将として、季忠が織田信行のことで思い悩んでいたことを知っていた。
その季忠が、しかも、己の属する熱田神宮の、熱田の湊が例の今川の水軍に攻められつつあると知ったら、どうなるか。
「お……追えッ! 季忠どのを追うのじゃッ! 早う! 早うッ!」
*
千秋季忠は焦っていた。
今川軍を早く見つけなくては。
それは季忠自身の悔恨である織田信行のことと、今、現実的な脅威として、今川の水軍が、熱田に迫りつつあるからだ。
「早く、早く今川を叩かねば」
特に当てがあったわけではない。
だが、今川の先手が来ているという未確認情報がある。
その先手を捕まえれば、おさらく今川義元の居場所なり何なり、つかめるだろう。
そういう腹づもりであった。
「……おや」
そして季忠は、運命の邂逅を果たす。
季忠は、今川軍とおぼしき群れを見つけた。
何故、今川軍とおぼしきというのか。
それは。
「あれは……津々木、蔵人!」
髭と髪は伸びていたが、季忠にはすぐ判った。
蔵人自身は、物見のつもりで、手勢を率いて出て来ていたところであるが、季忠からすると、かつて織田信行の家臣であった蔵人が、織田を裏切って、今川の道案内をしているように見えた。
蔵人の認識としては、むろん今川の臣であるというのが先にあり、織田の臣というのは一時の方便であり、織田の連中の気持ちなど知ったことではなかったが。
「おのれ佞臣……そこまで、そこまで織田に仇を為すかッ!」
季忠は激昂した。
そもそもあの日、この蔵人が信行を誘って、斯波義銀に会わせようとしていた節がある。
「かかれえッ」
一方の津々木蔵人。
彼は、今川軍が尾張に入ったことにより、自身の目で「偵察」する必要があると具申した。今川軍の諸将は「今出て来たぽっと出の奴に」と反対したが、それを今川義元が押し切って、久野元宗の隊を寄騎に付けてくれた。こうして蔵人は、久野元宗らの隊の結構な兵数を率い、先手として進んでいたところである。
勇んで中嶋砦に向かったところへ、ちょうど千秋季忠と出くわしたところである。
「何がかかれ、だ。貴様、千秋季忠だな? どれ、ついでに捉まえて織田のことを吐かせてやる!」
この日――永禄三年五月十九日、正午。
千秋季忠は、今川軍の先手・津々木蔵人と遭遇戦に入った。
*
毛利新介、毛利長秀、前田利家ら三人は、善照寺砦へと馬を馳せていたが、幸運なことに、その途次で、織田家のある重臣の軍勢に出会い、信長が中嶋砦へと向かっていることを知る。
その重臣とは。
「し、柴田どの! 柴田勝家どの!」
「……お、誰かと思えば。槍の又左、だったか」
勝家としては、利家の二つ名は「槍の又左」だったかな、という諧謔であったのだが、あまりにも迂遠だったため、誰にも気づかれることは無かった。
しかし勝家が気分を悪くする前に、利家が「勝家どの!」と抱き着いてきたので、むしろ勝家は閉口した。
「わ、わかった。わかったから離れよ。落ち着け」
これから戦場へ向かうというのに、美貌で知られる利家に抱き着かれる絵は、示しがつかん。
そこへ新介が聞きたいことがあるというので、渡りに船と、勝家は利家を引き剥がしながら「何だ」と言った。
「柴田どの……今、どちらに?」
「うむ」
やはり織田家一の武者はちがう。
軍勢の向かう先が気になるとは。
勝家は声を立てずに笑った。
「そうよ。信長さまは、すでに中嶋砦へ向かったとのことじゃ」
勝家は、いくさに乗じて乱取りする野武士や山賊を掃討しながら進軍していたため、いささか遅れていたという。
「さればわれら……これから中嶋砦へ向かいまする」
「……そうか」
勝家は、簗田政綱と木綿藤吉がいないことに気づいていたが、新介の目配せで、大方を悟った。
「よし、行け! われらもまた、中嶋へ行く。あとを追う」
新介らは無言で頭を下げて、馬を馳せた。
そして、それを茂みからうかがっていた影が追いかけようとした時、勝家が槍を投擲。
槍はあやまたず影に突き刺さった。
「今川の手の者か? さすがに海道一の弓取りは、油断ならんな……かかれッ」
勝家の裂帛の気合いの下に、柴田軍が駆け出す。
駆け出した先の茂みからは、何人かの影が飛び出したが、彼らは全員が、勝家の兵によって討ち取られてしまった。
「これで今川には、新介らのことの知らせが行かぬ……行かぬが、その行かぬということが、いずれは知れよう……あとは、簗田どのらが頼り」
その梁田政綱らも、必要に応じて敵の忍びを始末してようが、そういう足がついてでも、今は知らねばならぬ。
……輿乗の敵のいる場所を。
*
「……何やら、きな臭いわ」
明智十兵衛は、中嶋砦の守将・梶川高秀に「御免」と言い置いて、高秀が止めるのも聞かず、愛馬を駆った。
十兵衛の第六感に「何か」が感じ取れたのだ。
その「何か」は、今、駆けてゆく先で、姿を取って、現れる。
……前方に、金属を打ち合わせるような音が聞こえる。
剣戟の音だ。
「……千秋どの! 季忠どの! 退け! 退けい!」
「……止めるな、佐々どの! 今! あそこに! 佞臣が!」
佞臣とは大仰な言葉だな、と思って十兵衛が先を見ると、そこには津々木蔵人が、手勢を半包囲態勢にかまえて、千秋季忠と佐々政次ら三十余りの部隊を攻撃するところだった。
「あかん!」
十兵衛は火縄銃をかまえて、蔵人を狙った。
だが、その十兵衛を狙って、蔵人の隣の武者が弓を射た。
火縄が燃えるより、矢の方が速い。
十兵衛は舌打ちしながら、火縄銃を下ろし、矢を避けた。
「しゃらくさいやっちゃ。名を名乗れい!」
火縄の火は消えていない。
時間稼ぎのつもりだった。
「松平家中、服部正成!」
服部正成。
松平家一の武者である。
松平元康が、今川義元の身を案じて寄越したのが彼である。
十兵衛は正成のことをよく知らないが、それでも、その油断ならぬ眼光から、只者ではないことが分かった。
分かったので、火縄銃を撃った。
「おおきに。わいは明智十兵衛や。そらよ!」
「……小賢しい」
正成はわずかに頭を傾けて、弾丸を躱す。
その間にも、蔵人は包囲を完成させて、ついに千秋、佐々らを攻撃の網の中に閉じ込める。
「かかれ!」
待て、と十兵衛が言う前に、蔵人は容赦なく攻め立てる。
そこには、かつて浮野の戦いで恐怖した男の姿は無かった。
「義元さまの天下盗りの邪魔だ! 潔く散るがいい!」
千秋季忠、佐々政次も奮戦した方だが、蔵人の方が多勢であり、包囲されている。
加えて、明智十兵衛も、服部正成と一騎打ちを演じることになり、十兵衛と正成の実力は伯仲しており、とてもではないが、季忠と政次を援護できない状況になってしまった。
「千秋どの! 千秋どの! せ……」
最後まで千秋季忠の身を守ろうとした佐々政次は、その季忠に意識を取られているところを、弓矢の集中攻撃を食らって斃れてしまう。
「政次どの!」
そして政次の死により、悲歎にくれる季忠に対しても、蔵人は容赦なく攻撃した。
「食らえッ」
「くッ」
蔵人の槍が突き出される。
季忠もまた、政次の仇を討たんと必死だったが、ついに力尽きた。
季忠の手から刀が落ちる。
「うぬっ」
「よしっ、そのままお前も馬から落ちろ! 捉まえて……」
蔵人が槍を横殴りに振るう。
だが季忠は、捕まえられるよりはと、逆にその槍をその身に受けた。
「な……何ッ」
「これが……佞臣の貴様との差だ! 津々木……蔵人!」
蔵人の槍に突かれて、千秋季忠はついに絶命した。
動揺する蔵人だが、それではと十兵衛の方に向かおうとした時。
邪魔が入った。
「どけどけどけいッ! 槍なら、この『槍の又左』こと、前田利家とやらないか貴様ッ!」
前田利家が勇躍して槍を投擲する。
たまらず蔵人が馬を後退させると、その隙に毛利新介が、物凄い速度で服部正成に斬撃を浴びせた。
「うぬっ」
「わが名は毛利新介! 松平家一の武者、服部正成どのとお見受けする! いざ尋常に……尋常に勝負!」
むろん勝負する気など、新介には微塵もない。
新介の目的は、十兵衛を救い出すことにある。
そしてその新介の口上の隙に、毛利長秀が巧みに馬を十兵衛の馬に寄せて、そのまま十兵衛と共に、戦場を離脱した。
「……く」
それを見ていた服部正成だが、不満を述べるつもりはない。
もし仮に、自分が新介の立場だったら、同じことをするだろう。
それよりも、昂った蔵人が、利家を相手に戦おうとしている。
敵将を二人も討ち取った今、興奮状態にある将兵は、かえって危険である。
正成はこれまでの戦場の経験から、それを知っていた。
昂り、驕った将兵が、窮鼠猫を噛む敵軍に食われることを知っていた。
「退くぞ、蔵人どの!」
「正成どの、しかし……」
「天を見よ」
正成に言われて、天を仰ぐと、折からの黒雲が、この場を覆い尽くそうとしていた。
「雨が降る。強い雨が。われらは勝った。必要以上に、雨中で戦うことは無い」
冷静な正成にそう言われると、蔵人もなるほどそうかとうなずき、撤退を命じた。
同様に利家も、新介に諭されて、千秋季忠と佐々政次の残した将兵を集め、退いていった。
……こうして、桶狭間の戦いの前哨戦は、織田の負けに終わった。
そして服部正成の言ったとおり、この場に黒雲が群がり、やがて稲妻が走り、雷鳴が轟き、そして雨が降り出していった……。
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旧題:礫-つぶて-
【第六回アルファポリス歴史・時代小説大賞 特別賞受賞作品】
俺は石ころじゃない、礫(つぶて)だ!桶狭間前夜を駆ける無名戦士達の物語。永禄3年5月19日の早朝。桶狭間の戦いが起こるほんの数時間ほど前の話。出撃に際し戦勝祈願に立ち寄った熱田神宮の拝殿で、織田信長の眼に、彼方の空にあがる二条の黒い煙が映った。重要拠点の敵を抑止する付け城として築かれた、鷲津砦と丸根砦とが、相前後して炎上、陥落したことを示す煙だった。敵は、餌に食いついた。ひとりほくそ笑む信長。しかし、引き続く歴史的大逆転の影には、この両砦に籠って戦い、玉砕した、名もなき雑兵どもの人生と、夢があったのである・・・
本編は「信長公記」にも記された、このプロローグからわずかに時間を巻き戻し、弥七という、矢作川の流域に棲む河原者(被差別民)の子供が、ある理不尽な事件に巻き込まれたところからはじまります。逃亡者となった彼は、やがて国境を越え、風雲急を告げる東尾張へ。そして、戦地を駆ける黒鍬衆の一人となって、底知れぬ謀略と争乱の渦中に巻き込まれていきます。そして、最後に行き着いた先は?
ストーリーはフィクションですが、周辺の歴史事件など、なるべく史実を踏みリアリティを追求しました。戦場を駆ける河原者二人の眼で、戦国時代を体感しに行きましょう!
トノサマニンジャ 外伝 『剣客 原口源左衛門』
原口源太郎
歴史・時代
御前試合で相手の腕を折った山本道場の師範代原口源左衛門は、浪人の身となり仕官の道を探して美濃の地へ流れてきた。資金は尽き、その地で仕官できなければ刀を捨てる覚悟であった。そこで源左衛門は不思議な感覚に出会う。影風流の使い手である源左衛門は人の気配に敏感であったが、近くに誰かがいて見られているはずなのに、それが何者なのか全くつかめないのである。そのような感覚は初めてであった。
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