上 下
71 / 101
第三章 夢幻の章  第十二部 必勝の策

69 出陣、そして

しおりを挟む

 駿府。
 今川義元はその報に接し、いささか自分に都合の良すぎる展開に、かえって戸惑った。

「大高城の兵糧が無い?」

 最初は、小競り合いだったと聞く。
 そのうちに、織田が砦を築いた。
 丸根・鷲津の砦を。
 そこから、また小競り合いかと思ったが。



連絡つなぎができない?」

 大高城主にして、義理の弟である鵜殿長照(義元の妹が妻であるため)から、何の連絡も入らない、逆にこちらからの使いやふみも送れない、つまり……封じ込められているとのことがわかった。

「さて、どうするか」

 開戦の口実としては、少々弱い。封鎖して連絡を断っている、というだけでは。

「大高城の方から何とか突破できぬのか。今川の名折れぞ」

 単に封じられた、だけでは今川が戦わずして負けを認めているような雰囲気となる。
 こういう雰囲気というのは、あっという間に将兵に伝染して、に影響が出る。
 義元としては、そこを憂慮した。

 そうこうするうちに、五月になった。
 季節は梅雨、雨期である。
 織田信長の鉄砲対策として、義元は雨期開戦を目論んでいたが、こういう雰囲気のままではどうか、と考えあぐんでいたところ、珍しくも大高城の鵜殿長照から使いがやって来た。
 そこで冒頭の義元の台詞が出た、という次第である。

彼奴きゃつら……織田は、卑劣にも、大高城周囲の米を買い占めてござる」

 ひと粒たりとも、今川に渡らないぐらいに、織田は米を買いあさった。
 結果、仮に掠奪しようにも、村に米が無いという事態になった。

「そしてそれを伝えることもできず……苦しんでいたのでござった」

 そこで使いは気絶した。
 思った以上に、大高城は窮乏していると見える。
 こうなると、雰囲気がどうこうなどと、言っていられなくなる。
 むしろ、味方を救うためであると奮起を促した方が良い。

「元康はどうしているか」

 義元が左右の者に聞くと、ようやくにして三河忩劇みかわそうげきとそれにつづく三河国内の混乱を鎮定し、兵を出せる状態になった、とのことだった。

「ならば良し。何か乗せられているような気もしないではないが、好機である。兵を集めよ、いざ……いざ、出陣!」

 織田としては三河忩劇がまだまだつづいていた方が良かったのだが、こうして義元の出兵の契機となったことを考えれば、まだ幸いであったと言えよう。

 今川義元、出陣。

 それは稲妻のように周辺諸国に伝えられ、やがてが、この国全土を大きく揺るがすことになるが、それはまた別の話である。
 とにもかくにも、今川の同盟国である相模の北条と甲斐の武田は動きを示した。
 すなわち、北条は水軍の派兵、そして武田は東美濃へのである……。



 相模。
 小田原。
 北条水軍を率いる北条氏康は、珍客に遭遇していた。
 自ら水軍を引き連れて来た今川氏真である。

義父上ちちうえ、こたびはよろしゅう」

「いくら今川そちらの要請とはいえ、よくぞ自ら……」

「これくらいの礼を示さねば、虎の子の水軍を出したくないでしょう……この雨の季節に」

「……雨」

 そういえば、今川義元は織田信長の鉄砲を警戒していた。
 そして鉄砲と、双頭の蛇の『胴体』たる水軍を天秤にかけた結果、鉄砲を警戒する方向で、今の季節を選んだということか。

「……まあ、父上が言うには、海路の方は少なくとも、伊勢湾に、とのこと」

「そうか」

 伊勢湾に出現し、そのまま、つまり、それだけで織田は立ち往生する。
 そう義元は読んでいるのだ。
 織田には水軍が無い。
 あったとしても、それは、今川・北条水軍に抗するだけの水軍ではない。

「だが果たして、そううまくいくだろうか……」

 歴戦の猛者である氏康には、何か感じるものがあった。
 しかし氏真はその氏康の危惧を払うかのように笑った。

「何とかなるのではないですか。とにかく参りましょう義父上。仔細はお任せします」

 屈託のない氏真の笑みに、思わず氏康も顔をほころばせた。
 まあ、この男と一緒ならば、少なくとも必死にならぬ方向でやればいい。
 その点は、河越の時とちがって気楽だ。

「……では、出帆!」

 北条・今川連合水軍は出帆する。
 小田原の港では、留守居役を命じられた北条綱成が、氏康らを見送っていた。



 甲斐。
 古府中。
 武田信玄は、かねてからの策により、まず美濃に潜伏している真田幸綱に、今川義元出陣の旨を急ぎ伝えさせた。

「勘助。その後の動きは……分かっていようの?」

「委細承知」

 武田の謀臣・山本勘助は、美濃にて諜報活動をおこなっていた真田幸綱からの報告と要請により、に追われる毎日を送っていた。
 だがその日々も報われる。

「まずは……お館様の書状を、例のあの方に」

「うむ」

「次いで……東美濃の遠山さまに、例の命令を」

「よしよし」

 信玄は立ち上がった。すると、小姓たちがわらわらとやって来て、信玄の体に甲冑をつける。

「では、行くとするか……信濃に」

 今川義元に言われたとおり、信玄は信濃へと出陣し、美濃の一色義龍の後詰めを果たし、かつ、駿河への野心無きことを示すことにした。
 表向きは。



 今川義元は出陣にあたり、藤枝に寄り、長らく臥せったままの弟・今川氏豊を見舞った。

「誰も入ってはならぬ」

 氏豊の屋敷には、義元ひとりで入った。
 鳥小屋の百舌鳥もずのさえずりを聞きつつ、義元は氏豊の体の世話を終え、最後にこう語った。

「弟よ……そなたを放逐した織田を討つ。そして尾張を手に入れてみせようぞ」

 だが反応は無い。
 義元も別に期待して発言したわけではない。
 氏豊は織田信秀の詭計により、那古野城を奪われた。その後、京へと落ちび、窮乏の末、駿河へと舞い戻った。
 舞い戻った先の駿河は花倉の乱という争乱の真っ最中で、乱の一方の雄・今川良真いまがわながさね(義元と氏豊の兄)の手により、氏豊は毒を盛られ、このように眠ったままの状態となってしまった。
 その良真も、乱のもう一方の雄・義元の手によって討たれ、花倉の乱は終結した。
 だが恨みは残った。
 よりによって、氏豊の子の心に。

「……おれは」

 その呟きは、義元のものではない。
 まるで、かつての良真のような。
 そういう呪いを感じさせるような、声。

何奴なにやつ!」

 義元は刀の柄に手をかけた。
 すると、人払いをしているはずの屋敷の庭の一角から。
 人影がぬうっと出現した。
 その人影には、見覚えがあった。

「蔵人……? 蔵人ではないか」

 津々木蔵人つづきくらんどと名乗るその青年、氏豊の子は、浮野の戦い以降、行方知れずとなっていた。
 義元も手を尽くして探したが、敵地・尾張での出来事であるため、結局のところ見つからなかった。
 蔵人は、氏豊の子として、尾張那古野城を奪するという執念がある。
 義元としては、せめてものこととして、その執念をかなえさせるべく行動させていたが、それがついに蔵人を亡き者にしてしまったかと思っていたが。

「生きていたのか」

「……はい。こたび、伯父上の出陣の旨を聞き、馳せ参じました」

 よく見ると蔵人は、かつての色男ぶりを放棄したように髭を伸ばし放題、髪も伸び放題である。

「……思うところがありまして、己をもう一度鍛え直して参りました」

「……そうか」

 義元は理由を詳しく聞こうとはしなかった。
 男が思うところがあると言っているのだ。
 それ以上の理由は無い。

「それで蔵人よ」

「はい」

「そなた、出陣の旨を聞いてとのことだが……この義元と共に、尾張へきたいと申すか」

「さよう」

 目をつぶって一礼する蔵人。
 自然な一礼だが、覚悟のを伝えてくれた。

「そなたには、駿府にて留守居役を果たすという道もあると思うのだが……」

「いえ、征かせてください」

「そうか」

 義元は振り返って氏豊を見た。
 むろん、反応は無い。
 起き上がって息子を止めろというつもりはない。
 それができないのが、毒に倒れるということだ。
 結局のところ、今川家の長として、あるいは甥の伯父として。
 決めるのはこの今川義元である。
 そして義元という男は、内なるものに突き動かされるということ――その衝動に身を委ねるということが、嫌いではない。

「よかろう」

「では」

「予の供を命ず。ちょうど、斯波義銀しばよしかね御輿みこしに、尾張のを連れて来たところよ……だから敢えてこの名で言うぞ、よ、その尾張衆を

「ありがたき幸せ」

 鼻持ちならない斯波義銀の相手は、今川家の誰もが辟易していた。
 そして、その義銀の「威光」を笠に着て、坂井大膳らも幅を利かせているところだった。
 持て余している尾張衆、その面倒を見るには、蔵人は最適といえた。

「あの斯波義銀はな、心中、予のことを……ゆえに、予の甥だというても駄々をこねるだけよ」

「……ゆえに、、とのことですね。承知しました」

 何故、斯波義銀が今川義元のことをのか。
 に思い至った蔵人だったが、口にすることは無かった。

「…………」

 常なら表情豊かな義元が、その時に限って、無表情だったからである。
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

お鍋の方

国香
歴史・時代
織田信長の妻・濃姫が恋敵? 茜さす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る 紫草の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 出会いは永禄2(1559)年初春。 古歌で知られる蒲生野の。 桜の川のほとり、桜の城。 そこに、一人の少女が住んでいた。 ──小倉鍋── 少女のお鍋が出会ったのは、上洛する織田信長。 ───────────── 織田信長の側室・お鍋の方の物語。 ヒロインの出自等、諸説あり、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど謎なので、作者の妄想で書いて行きます。 通説とは違っていますので、あらかじめご了承頂きたく、お願い申し上げます。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉
歴史・時代
 その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。  父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。  稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。  明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。  ◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』でも同時掲載しています◇

前夜 ~敵は本能寺にあり~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。 【表紙画像・挿絵画像】 「きまぐれアフター」様より

奴隷少年♡助左衛門

鼻血の親分
歴史・時代
 戦国末期に活躍した海賊商人、納屋助左衛門は人生の絶頂期を迎えていた。しかし時の権力者、秀吉のある要請を断り、その将来に不安な影を落とす。  やがて助左衛門は倒れ伏せ、少年時代の悪夢にうなされる。 ──以後、少年時代の回想  戦に巻き込まれ雑兵に捕まった少年、助左衛門は物として奴隷市場に出された。キリシタンの彼は珍しがられ、奴隷商人の元締、天海の奴隷として尾張へ連れて行かれることになる。  その尾張では、 戦国の風雲児、信長がまだ「うつけ」と呼ばれていた頃、彼の領地を巡り戦が起ころうとしていた。  イクサ。  なぜ、戦が起こるのか⁈  なぜ、戦によって奴隷が生まれるのか⁈  奴隷商人が暗躍する戦場で見た現実に、助左衛門は怒りを覚える!!   そして……。

戦国LOVERS~まるで憎しみあうような愛でした~

猫田けだま
歴史・時代
10年以上前に書いた作品を、加筆修正しながら更新しています。 時は、戦国 鬼神(きじん)と呼ばれた男、織田信長 鬼蝶(きちょう)と呼ばれた女、濃姫 傍観者でいる事を時代が許さなかった男、徳川家康 時代に翻弄され、それでも走る事を止めなかった男達 明智光秀、森蘭丸、羽柴秀吉 戦乱の炎の中を走り抜ける 殺し合わぬ時代の為に殺し合うのか それとも、自らの心の中に巣くった鬼に喰らわれるのか 私たちはどこにたどり着くのだろう 何を求めて、動乱の時代を走るのだろう ――――――――― ※ 戦国時代を元ネタにしたフィクションですので、史実とは大きく異なる部分がございます。

恐妻と愛妻は紙一重

shingorou
歴史・時代
ピクシブにも同じものをアップしています。帰蝶様に頭が上がらない信長公の話です。

河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今は昔、戦国の世の物語―― 父・北条氏綱の死により、北条家の家督を継いだ北条新九郎氏康は、かつてない危機に直面していた。 領国の南、駿河・河東(駿河東部地方)では海道一の弓取り・今川義元と、甲斐の虎・武田晴信の連合軍が侵略を開始し、領国の北、武蔵・河越城は関東管領・山内上杉憲政と、扇谷上杉朝定の「両上杉」の率いる八万の関東諸侯同盟軍に包囲されていた。 関東管領の山内上杉と、扇谷上杉という関東の足利幕府の名門の「双つの杉」を倒す夢を祖父の代から受け継いだ、相模の獅子・北条新九郎氏康の奮戦がはじまる。

第二艦隊転進ス       進路目標ハ未来

みにみ
歴史・時代
太平洋戦争末期 世界最大の46㎝という巨砲を 搭載する戦艦  大和を旗艦とする大日本帝国海軍第二艦隊 戦艦、榛名、伊勢、日向 空母天城、葛城、重巡利根、青葉、軽巡矢矧 駆逐艦涼月、冬月、花月、雪風、響、磯風、浜風、初霜、霞、朝霜、響は 日向灘沖を航行していた そこで米潜水艦の魚雷攻撃を受け 大和や葛城が被雷 伊藤長官はGFに無断で 作戦の中止を命令し、反転佐世保へと向かう 途中、米軍の新型兵器らしき爆弾を葛城が被弾したりなどもするが 無事に佐世保に到着 しかし、そこにあったのは……… ぜひ、伊藤長官率いる第一遊撃艦隊の進む道をご覧ください どうか感想ください…心が折れそう どんな感想でも114514!!! 批判でも結構だぜ!見られてるって確信できるだけで モチベーション上がるから!

処理中です...