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第十一部 輿上(よじょう)の敵
63 輿上(よじょう)の敵 前編
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帰蝶が美濃にて竹中半兵衛、真田幸綱らとの邂逅を遂げている頃。
尾張にて。
「森三左衛門可成!」
「はっ」
留守居役を任されていた森可成は、早速に、清州城に帰った主君・織田信長から声がかかった。
行くと、信長の隣には「帰蝶」が端然と座っていた。
「お」
「も、森どの」
「似合っておるぞ」
「そ、そういうことではなくて!」
「帰蝶」に扮した前田又左衛門利家は、顔を青くして、「早く、早く」と言った。
お方さまが怖い、妬まれているとも言った。
信長は笑いをこらえながら、「早く吉野を呼んでやれ」と言うと、やはり笑いをこらえながら可成は、侍女の吉野を呼びに行った。
吉野が「まあまあ」と言ったが、特に笑うことはなく、落ち着いた表情で「さ、こちらへ」と利家を誘った。
しばらく待つと、今度は吉野が「帰蝶」となり、利家はいつもの平服に戻って、やって来た。
「……でもこれでは、わたくしが帰蝶さまに恨まれるのでは?」
ふだんの若々しい帰蝶よりも、幾分大人びた印象の「帰蝶」の吉野は言った。
「問題ない」
「え」
周囲の驚きをよそに、信長は可成に近う寄れと言い、近くに来たところで、上座に座らせた。
「これより、森三左衛門可成に予の影武者を命ず」
「え」
戦場の勇者であり、豪胆で鳴らした可成も、これには度肝を抜いた。
そこで信長は説明した。
今川義元の「双頭の蛇」に対処するため、今、帰蝶が美濃で工作しているが、この信長もまた工作活動をする必要が生じた。
「嫌がらせを思いついたのじゃ……今川義元をぎゃふんと言わせるためのな」
そう言ってからからと笑う信長。
利家は、この人は少年の頃からこうやって悪だくみを思いついては、やはりこうやって笑っていたなと回想していた。
「そのためには、確かめる必要がある。それはおそらく駿府、あるいはその近くじゃ」
「それ」
吉野は眉根を寄せる。賢い彼女ではあったが、信長のこの言い回しの謎が解けない。この場に本物の帰蝶がいれば、少し考えてから「こういうことでしょう」と言ってくれるのだが。
信長もそう思ったのか、少し寂し気な表情をしてから答えた。
「輿じゃ、輿」
「輿?」
「うむ。じゃ、行くぞ又左。お前もついてきてくれ。まつには悪いがな」
まつとは、利家の愛妻である。利家が信長の上洛に随行したため、利家はしばらくまつに会っていなかった。
だが利家が気にしているのは、まつではなかった。
「もしかして……殿みずから、駿府に行かれるおつもりでござるか?」
「うむ。そうだ。利家、またお前に誰かに扮装せよというのも何だし、今度は三左に頼む。じゃから、お前が供をせよ」
それに利家には、傾奇者の時代に駿府まで行ったことがあるというのも、理由のひとつだった。
*
信長がこうと言ったら聞かない性格は誰もが承知しており、それを止められるのは、死者では織田信秀と平手政秀であり、生者では帰蝶である。
その帰蝶がいない以上、森可成としては信長とその供の前田利家を黙って見送るほか無かった。
横にいる「帰蝶」の吉野も苦笑いしている。
「ま、仕方ありませんね」
「……結局、留守居役をつづけろ、と言われているだけでござるしな」
そこへ林秀貞がやって来て、「あれ? 信長さま、京で老けられたか?」と言って、可成を激怒させたが、とにもかくにも、清州城は騒がしくも平穏な日常を過ごしつつ、主である信長と帰蝶を待った。
*
織田信長と前田利家は、商人に化けることにした。
結局また扮装ではないかと利家は思ったが、尾張を出る前にまつに会うことを許されると、そんな不平は地の彼方へと吹き飛んで行った。
その間、信長は津島湊で聞き込みをしつつ、やはり目的地は駿府にちがいあるまいという確信を抱き、利家を待ってから舟に乗った。
向かう先は駿府。
今川義元の領国の都である。
「しかし三左衛門どの」
駿府に着き、道案内を買って出た利家は、うしろで堂々と歩く信長に話しかけた。
三左衛門とは、信長の商人としての偽名であり、「影武者にしてやったのだから、名前ぐらい借りてもいいだろう」と、森三左衛門可成から勝手に借りた名前である。
「何だ又左衛門どの」
一方の利家は、前田又左衛門利家のまんまである。へたに、偽名にするよりは、より自然に受け答えできるだろうとの、まつの言葉による。
「どうやってこの……『東国の京』と呼ばれた町で、それを探すのでござ……ございますか?」
東国の京、東国の都。
当時の駿府はそういわれており、今川家が粋を尽くして京を手本に作り上げた町である。
そしてそれは今川家当代の今川義元の治政によって、殷賑を極めた。
「それは簡単だ」
利家と信長は友野座という店の前を横切った。
大路に出ると、信長は手をかざして、何かを探す仕草をした。
「……何をしているのでござ、いや、ですか?」
「探している」
「何を」
「だから言ったではないか、輿だ」
ホレお前も探せと言われて、利家は仕方なく自分も手をかざす。
そういえば輿と言われていたが、それが何を意味するのか、まったく聞かずじまいでここ駿府くんだりまで来てしまった。
「大体、輿って……つまり、輿の上の者を探せってことか?」
そうつぶやく利家の視界の先に。
駿府の大路の先の方に。
何か、人よりも高さが高いものが動いた。
「……ん?」
人よりも高さが高い。
大路の中を往くもの。
それは。
「こ、輿か!」
思わず叫ぶ利家。
そして凝と見た。
輿上を。
あれは。
どこかで、見たことのある人物だ。
今川義元ではない。
それは、見たことがない。
あれは。
「まさか……」
利家が知っている輿上の人。
それは。
いつの間にか隣にいた信長がつぶやく。
「これはこれは……われらが尾張守護、斯波義銀どの……やはり、駿府におられたか」
斯波義銀。
かつて、信長に擁立された尾張の守護であり、しかし信長を排除する動きを見せたため、尾張を追放された。
そして斯波家は、尾張守護として、幕府からある特権を認められていた。
すなわち、輿である。特に尾張国内では、斯波家の者以外には、輿の使用を許されていなかった。
*
信長に擁立された尾張守護であるもの、いつ頃からか、斯波義銀は真の意味で尾張の国主になりたいという欲求を抱いていた。
それは、密かに会いに来て、「共に足利家の名門としてふさわしく振る舞おうではないか」と煽って来た今川義元のせいかもしれない。
しかしいずれにせよ、義銀は尾張を支配したいと思うようになり、かつては信長包囲網なる策謀を策したことがある(実際は今川義元の策謀であるが)。
そしてそれが露見し、義銀は追放された。
だが義銀は諦めていなかった。
「この義銀を、尾張に」
義銀は駿府に来て義元と会い、そう訴えた。
それを聞いた義元は「善き哉」とほくそ笑んだ。
義元としては、最初は「不幸にも奸臣に牛耳られた国主・斯波義銀を救うため」と称して、尾張に攻め入るつもりだった。
この場合、奸臣とは織田信長である。
だがその信長が義銀を追放してしまい、さてどうしたものかと思っているところへ、その義銀が義元の許へ転がり込んだというわけである。
「奇貨居くべし」
この斯波義銀なる者を、御輿にして、尾張に攻め入れば、名分が立つ。
そのために、敢えて横槍を入れて、将軍・足利義輝に、織田信長の尾張支配を認めさせなかった。
そしてこのお飾りの守護を戴いて、やはり駿府に逃げて来ていた坂井大膳――守護代の下で政務をしていた坂井大膳に、尾張を仕切らせる。
そうすれば、足利義輝としても、先に信長による尾張支配を認めなかったこと、つまり斯波義銀こそが尾張守護であると暗に認めたことにより、何も言えない。
同盟相手の武田信玄にしろ、北条氏康にしろ、やり過ぎだと主張しても、「斯波義銀の旧領回復である」と言い張ることができる。
すなわち――今川が尾張を実効支配できる。
目付け役としては、那古野城に、弟の氏豊の子・津々木蔵人を入れておけば良い。
尾張の周囲――美濃の国主はすでに義元の操り人形と化した一色義龍であり、義龍には尾張に傾注するために南近江の六角と同盟を結ばせてある。
「わがこと、成れり」
そう判断した義元は、早速に同盟相手である武田信玄と北条氏康を善得寺に呼び、かねてから温めていた「双頭の蛇」の策を開陳した。
あたかも、おのれこそが盟主であるかのように。
尾張にて。
「森三左衛門可成!」
「はっ」
留守居役を任されていた森可成は、早速に、清州城に帰った主君・織田信長から声がかかった。
行くと、信長の隣には「帰蝶」が端然と座っていた。
「お」
「も、森どの」
「似合っておるぞ」
「そ、そういうことではなくて!」
「帰蝶」に扮した前田又左衛門利家は、顔を青くして、「早く、早く」と言った。
お方さまが怖い、妬まれているとも言った。
信長は笑いをこらえながら、「早く吉野を呼んでやれ」と言うと、やはり笑いをこらえながら可成は、侍女の吉野を呼びに行った。
吉野が「まあまあ」と言ったが、特に笑うことはなく、落ち着いた表情で「さ、こちらへ」と利家を誘った。
しばらく待つと、今度は吉野が「帰蝶」となり、利家はいつもの平服に戻って、やって来た。
「……でもこれでは、わたくしが帰蝶さまに恨まれるのでは?」
ふだんの若々しい帰蝶よりも、幾分大人びた印象の「帰蝶」の吉野は言った。
「問題ない」
「え」
周囲の驚きをよそに、信長は可成に近う寄れと言い、近くに来たところで、上座に座らせた。
「これより、森三左衛門可成に予の影武者を命ず」
「え」
戦場の勇者であり、豪胆で鳴らした可成も、これには度肝を抜いた。
そこで信長は説明した。
今川義元の「双頭の蛇」に対処するため、今、帰蝶が美濃で工作しているが、この信長もまた工作活動をする必要が生じた。
「嫌がらせを思いついたのじゃ……今川義元をぎゃふんと言わせるためのな」
そう言ってからからと笑う信長。
利家は、この人は少年の頃からこうやって悪だくみを思いついては、やはりこうやって笑っていたなと回想していた。
「そのためには、確かめる必要がある。それはおそらく駿府、あるいはその近くじゃ」
「それ」
吉野は眉根を寄せる。賢い彼女ではあったが、信長のこの言い回しの謎が解けない。この場に本物の帰蝶がいれば、少し考えてから「こういうことでしょう」と言ってくれるのだが。
信長もそう思ったのか、少し寂し気な表情をしてから答えた。
「輿じゃ、輿」
「輿?」
「うむ。じゃ、行くぞ又左。お前もついてきてくれ。まつには悪いがな」
まつとは、利家の愛妻である。利家が信長の上洛に随行したため、利家はしばらくまつに会っていなかった。
だが利家が気にしているのは、まつではなかった。
「もしかして……殿みずから、駿府に行かれるおつもりでござるか?」
「うむ。そうだ。利家、またお前に誰かに扮装せよというのも何だし、今度は三左に頼む。じゃから、お前が供をせよ」
それに利家には、傾奇者の時代に駿府まで行ったことがあるというのも、理由のひとつだった。
*
信長がこうと言ったら聞かない性格は誰もが承知しており、それを止められるのは、死者では織田信秀と平手政秀であり、生者では帰蝶である。
その帰蝶がいない以上、森可成としては信長とその供の前田利家を黙って見送るほか無かった。
横にいる「帰蝶」の吉野も苦笑いしている。
「ま、仕方ありませんね」
「……結局、留守居役をつづけろ、と言われているだけでござるしな」
そこへ林秀貞がやって来て、「あれ? 信長さま、京で老けられたか?」と言って、可成を激怒させたが、とにもかくにも、清州城は騒がしくも平穏な日常を過ごしつつ、主である信長と帰蝶を待った。
*
織田信長と前田利家は、商人に化けることにした。
結局また扮装ではないかと利家は思ったが、尾張を出る前にまつに会うことを許されると、そんな不平は地の彼方へと吹き飛んで行った。
その間、信長は津島湊で聞き込みをしつつ、やはり目的地は駿府にちがいあるまいという確信を抱き、利家を待ってから舟に乗った。
向かう先は駿府。
今川義元の領国の都である。
「しかし三左衛門どの」
駿府に着き、道案内を買って出た利家は、うしろで堂々と歩く信長に話しかけた。
三左衛門とは、信長の商人としての偽名であり、「影武者にしてやったのだから、名前ぐらい借りてもいいだろう」と、森三左衛門可成から勝手に借りた名前である。
「何だ又左衛門どの」
一方の利家は、前田又左衛門利家のまんまである。へたに、偽名にするよりは、より自然に受け答えできるだろうとの、まつの言葉による。
「どうやってこの……『東国の京』と呼ばれた町で、それを探すのでござ……ございますか?」
東国の京、東国の都。
当時の駿府はそういわれており、今川家が粋を尽くして京を手本に作り上げた町である。
そしてそれは今川家当代の今川義元の治政によって、殷賑を極めた。
「それは簡単だ」
利家と信長は友野座という店の前を横切った。
大路に出ると、信長は手をかざして、何かを探す仕草をした。
「……何をしているのでござ、いや、ですか?」
「探している」
「何を」
「だから言ったではないか、輿だ」
ホレお前も探せと言われて、利家は仕方なく自分も手をかざす。
そういえば輿と言われていたが、それが何を意味するのか、まったく聞かずじまいでここ駿府くんだりまで来てしまった。
「大体、輿って……つまり、輿の上の者を探せってことか?」
そうつぶやく利家の視界の先に。
駿府の大路の先の方に。
何か、人よりも高さが高いものが動いた。
「……ん?」
人よりも高さが高い。
大路の中を往くもの。
それは。
「こ、輿か!」
思わず叫ぶ利家。
そして凝と見た。
輿上を。
あれは。
どこかで、見たことのある人物だ。
今川義元ではない。
それは、見たことがない。
あれは。
「まさか……」
利家が知っている輿上の人。
それは。
いつの間にか隣にいた信長がつぶやく。
「これはこれは……われらが尾張守護、斯波義銀どの……やはり、駿府におられたか」
斯波義銀。
かつて、信長に擁立された尾張の守護であり、しかし信長を排除する動きを見せたため、尾張を追放された。
そして斯波家は、尾張守護として、幕府からある特権を認められていた。
すなわち、輿である。特に尾張国内では、斯波家の者以外には、輿の使用を許されていなかった。
*
信長に擁立された尾張守護であるもの、いつ頃からか、斯波義銀は真の意味で尾張の国主になりたいという欲求を抱いていた。
それは、密かに会いに来て、「共に足利家の名門としてふさわしく振る舞おうではないか」と煽って来た今川義元のせいかもしれない。
しかしいずれにせよ、義銀は尾張を支配したいと思うようになり、かつては信長包囲網なる策謀を策したことがある(実際は今川義元の策謀であるが)。
そしてそれが露見し、義銀は追放された。
だが義銀は諦めていなかった。
「この義銀を、尾張に」
義銀は駿府に来て義元と会い、そう訴えた。
それを聞いた義元は「善き哉」とほくそ笑んだ。
義元としては、最初は「不幸にも奸臣に牛耳られた国主・斯波義銀を救うため」と称して、尾張に攻め入るつもりだった。
この場合、奸臣とは織田信長である。
だがその信長が義銀を追放してしまい、さてどうしたものかと思っているところへ、その義銀が義元の許へ転がり込んだというわけである。
「奇貨居くべし」
この斯波義銀なる者を、御輿にして、尾張に攻め入れば、名分が立つ。
そのために、敢えて横槍を入れて、将軍・足利義輝に、織田信長の尾張支配を認めさせなかった。
そしてこのお飾りの守護を戴いて、やはり駿府に逃げて来ていた坂井大膳――守護代の下で政務をしていた坂井大膳に、尾張を仕切らせる。
そうすれば、足利義輝としても、先に信長による尾張支配を認めなかったこと、つまり斯波義銀こそが尾張守護であると暗に認めたことにより、何も言えない。
同盟相手の武田信玄にしろ、北条氏康にしろ、やり過ぎだと主張しても、「斯波義銀の旧領回復である」と言い張ることができる。
すなわち――今川が尾張を実効支配できる。
目付け役としては、那古野城に、弟の氏豊の子・津々木蔵人を入れておけば良い。
尾張の周囲――美濃の国主はすでに義元の操り人形と化した一色義龍であり、義龍には尾張に傾注するために南近江の六角と同盟を結ばせてある。
「わがこと、成れり」
そう判断した義元は、早速に同盟相手である武田信玄と北条氏康を善得寺に呼び、かねてから温めていた「双頭の蛇」の策を開陳した。
あたかも、おのれこそが盟主であるかのように。
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