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第九部 双頭の蛇

52 蝮の遺産

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 尾張守護・斯波義銀しばよしかねは織田信長によって追放された。
 義銀は「やはり信長は予を」と思ったが、彼自身の悪だくみが原因であり、自業自得である。
 どこへなりと好きになさいませと信長に言われた義銀は、それならと輿こしに乗った。
 こういう時は馬にでも乗って、さっさと逃げ去るべきなのに、義銀はむしろ見せつけるように輿に乗り、そして去った。
 幕府により、尾張の国主として、斯波家の者のみが尾張で輿に乗ることが許されていた――そのため、義銀は、こうなっても自分こそが尾張の国主であるとを主張したいのであろう。

「……こんな時にまで、輿か」

 信長はあきれたが、それでも義銀の見送りにかこつけて、これ見よがしに海西郡の近くにまで兵を繰り出し、海西郡の服部党・服部友貞に圧力をかけることは忘れなかった。

「良し。ここはこれでいい。次は、岩倉織田家だな」

 服部友貞を例外とすれば、あとは岩倉織田家を倒せば、尾張のほぼすべてが信長の手中に入る。

「……そうしておかねば、来たるべき今川義元の乱入に、反攻どころか抵抗すらできぬ」

 この頃から、信長は今川義元の侵攻をより強く意識し始めていた。
 信長包囲網といい、海路による尾張攻撃の可能性といい、は徐々に具体的になってきている、と感じたからである。



 一方の岩倉織田家はというと、お家騒動の真っ最中である。
 当主・織田信安は長男・信賢のぶかたを嫡男から廃し、次男・信家を新たに嫡男にしようと躍起になっていた。

「そんなことでは、信長に付け入れられるぞ」

 美濃の一色義龍すら、そんな心配を口にして、実際書状を送って来たぐらい、それは深刻だった。
 その義龍もお家騒動を起こして美濃を乗っ取ったので、あまり人のことは言えなかったが。

「このままでは早晩、岩倉織田家にが起こる」

 信長はそう判断した。
 そしてその「何か」に際して、すぐに動けるように、具体的に言うと岩倉織田家に対してを挑むことを信長は画策し、姉の犬山殿を従兄弟の犬山城主・織田信清に嫁がせた。
 織田信清は、岩倉織田家の後見役・織田信康(織田信秀の弟)の子である。このことから、岩倉織田家の実情に詳しく、かつ、地理的に近い。

「岩倉織田家は腐っても守護代(尾張上四郡の守護代。織田信友は下四郡の守護代)。三千からの兵は見込まねばならぬ」

 現状、信長の動員兵力は二千人。だが、犬山の織田信清の兵、千人を合わせれば、互角の戦いを演じることができる。

「問題はその戦い方だ。さて、どうするか」

 岩倉織田家のお家騒動は、徐々に織田信賢の方へと趨勢が傾きつつあった。
 の時は近い。
 早々に手を打ち、必勝を期さねば。
 信長は茶室に籠り、両手を頭の後ろに組んで、のことを考えていた。
 横では帰蝶がさりげなく入室して、茶をてている。
 信長はその所作をなにげなく見ていた。
 妙案というか、良き考えというものは、こうして何か別のことをしているうちに、思いつくものだ。
 信長は何故か、それを生まれた時から知っていた。
 だからに興じた。
 何か、ちがうことをしてみよう。
 そうすると、これからどうしたらよいか、分かるかもしれない。
 多くの家臣たちは眉をひそめたが、父の信秀は「そうだ」と認めてくれた。
 傅役もりやくの平手政秀も認めてくれたが、彼は敢えて説教役を買って出た。
 は、があってこそ、面白いと言って。

「親父殿、爺……」

「……何か?」

 ふと口に出た懐かしい顔ぶれ。
 それに反応する帰蝶。
 帰蝶の顔はうつくしいが、信長はそれを見ると何故か、斎藤道三を思い出す。
 特に片目をつぶると、得意げな道三とそっくりだ。

義父上ちちうえか……」

「また」

 帰蝶が眉根を寄せた。
 自分の顔を、父・道三のよすがにするな、と。
 しかしまんざらでもないらしい。
 顔はともかく、知恵が回るのは道三譲りと言うと、特に嬉しいらしい。

「そういえば」

 道三の遺言状ともいうべき国譲り状。
 あれは、この茶室に隠してあった。
 信長は掛け軸の裏の穴から、それをごそりと取り出す。
 特に読むだけでなく、何となく眺める。
 内容は頭に入っている。
 暇な時は、いつでもその内容を咀嚼するために。

「大体、美濃を譲ると言うて、それは嬉しいが……あの義父上が、そんなの書状を書くか?」

 その疑問が、信長の頭を捉えて離さない。
 帰蝶も同じらしく、「ええ」とうなずく。
 斎藤道三は稀代の梟雄である。
 むろん、情が無いわけではなく、娘の夫に国を譲りたいという想いを抱くことも、理解できる。
 だが。

「敢えて書状にするのが……わたしに言えばそれは伝わるのに……」

「そうだ」

 
 
 娘から悪知恵日本一といわれるぐらいの男だ、何か考えがあろう。

「…………」

 沈思する信長を前に、帰蝶がひとつ。

「……大体、あの兄、いえ、一色義龍にその国譲り状を見せたところで、鼻で笑われるだけでしょう」

 一色義龍は、かつて斎藤義龍といって、道三の嫡子であったが、ある日道三に叛旗をひるがえし、しかも自らは斎藤ではなく、一色の血筋の貴種であると言い張り、美濃を奪った。
 国盗りをした相手に、このように国譲り状があるからと言って見せてどうするか。
 何もなりはしない、あんな相手に。
 何も……相手……。

「……あっ」

 信長はその時、藪の中から鎌首をもたげるマムシを見たような気がした。

 
 

 蝮が、そう言っているような気がした。
 ふと横をかえりみると、帰蝶もまた、驚愕の表情を浮かべていた。

「……まさか」

 気づいたのだ。
 彼女も。

「急ぎ、小六を呼べ」

「はい」

 帰蝶が「たれかある」と言うと、茶室の戸が開いて、木綿藤吉が顔をのぞかせた。

「お呼びですか」

「は、蜂須賀小六どの、蜂須賀どのを呼んで下さい」

「は、はい」

 帰蝶の迫力に気圧けおされて、図太い木綿も目を見開いてうなずく。
 そこへ、当の小六自らが駆けてやって来た。

「こ、小六どの、ま、まだ呼んでないのに……」

「は? おい木綿、お前何を言っているんだ? おれは急ぎ信長さまに注進することがあって……」

「聞こう」

 この時、信長は茶室から出ていた。
 その手に、国譲り状を持って。
 国譲り状と、蜂須賀小六。
 ふたつを見比べて、木綿もまた、うめいた。

「お前も、分かったか」

「分かり申した、信長さま……この木綿、まだまだ至りませぬ」

「いえ、わたしたちも、今気づいたところですゆえ」

「お方さま……ありがたきお心遣い、この木綿、痛み入ります」

「……何を言っているのだ?」

 不得要領な小六だったが、それでも伝えるべきことは伝えた。

「岩倉織田家、ついに嫡男・織田信賢が家督を簒奪、当主の父・信安と弟・信家を追放した模様」

「……で、あるか」

 信長の、国譲り状を持つ手に力がこもる。
 ぐにゃりと折り曲がる、国譲り状。
 あたかも蛇……蝮のように。

 ……
 

 この場にいないはずの道三の声を、信長は聞いた。
 確かに聞いた。
 それは、横にいた帰蝶も同じだった。

「となれば、今このにおいて、採るべき策は」

「……はい。前田さまにもらいますか……に」

「そうしよう」

 帰蝶は「前田又左衛門利家まえだまたざえもんとしいえをこれへ」と言った。
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