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第七部 相剋の戦(いくさ)

42 稲生(いのう)の戦い 前編

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 弘治二年八月二十四日。
 織田信行は、家臣である柴田勝家と林秀貞に出陣を命じた。

「勝家は千、秀貞は七百の兵を率いよ。信長の兄はおよそ七百しか兵が動かせないと聞く。挟み撃ちじゃ」

 そういう信行自身は出陣しないのか、と勝家は目線で訴えたが、それは信行に無視された。
 代わって、のつもりか、津々木蔵人が言った。

「……信行さまは、三河の動きに備え、末森の城に留守居を務められる。他意はない」

 三河。
 現状、三河は三河忩劇みかわそうげきと呼ばれる大混乱の中にあった。
 今川義元による三河進出への国人の反発が高まり、そして裏で斎藤道三が美濃の遠山氏を通じて、足助城あすけじょう鱸兵庫助すずきひょうごのすけを挙兵させたことに端を発するといわれる。これに呼応して、大給おぎゅうう松平家も挙兵し、さらに、足利家名門(御三家)である吉良家も争いに加わり、事態は混乱の様を呈した。
 なお、このときに義元は松平元康(のちの徳川家康)に出陣を命じ、それが元康の初陣であったと伝えられる。

「かような状況において、信行さままで出陣となっては、三河で何かあるやもしれぬ……」

「……それは蔵人、おぬしのが気になるからか」

「何ッ」

 蔵人が凄んだ。常の彼らしくなく、感情をむき出しにした表情だった。

「何だ、いい顔するじゃないか、蔵人。この鬼柴田も思わず震えたぞ」

「……たわむれは無しにしていただこう、柴田どの」
 
 にらみ合う蔵人と勝家。
 だが、蔵人を信行が、勝家を秀貞が「まあまあ」と引き寄せ、事なきを得た。
 そして勝家は無言で、秀貞とその弟の通具みちともは勇躍して出陣した。

であることは否定しなかった……ということは……」

 考えすぎだな、と勝家は頭をひとつ振って、これからのに集中することにした。
 すると今度は、あの元気な前田利家の姿が目に浮かび、それがまた、かつての利家の言葉により、蔵人への疑惑へ思いが傾く勝家であった。



 一方、織田信長の方は、津々木蔵人の指摘したとおり、七百の兵しか動員できなかった。

「いかに岩倉織田家への抑えが、犬山があるとはいえ、油断はできぬ。美濃から何かあるやもしれぬ」

 そのため、清州にある程度兵を残し、帰蝶に留守を守ってもらうことにした。

「安んじてお任せください」

「頼む。それと、十兵衛どのがどうなったかは、まだ判らぬのか……」

「ええ。小六どのも、探してくれてはいるのですが……」

 明智十兵衛光秀。
 長良川の戦いにおいて、明智の城を攻められていると聞き、城へ駆けつけたという。
 だが健闘虚しく明智城は落城し、その後、十兵衛は消息を絶つ。
 斎藤道三麾下で、十兵衛といわば戦友であった蜂須賀小六は、自身の厚誼もあって十兵衛の行方を探しているが、ようとして知れない。

なお方です。死んではいないと思うのですが」

「ならば、何か思うところがあるのでは。あるいは……」

 そこで信長は、何か思いついたような顔をした。
 帰蝶が聞く。

「どうされたのですか」

「いや……もしや十兵衛どのは、道三どのより何か頼まれごとをされたのでは」

「それは」

「われらには、美濃の国譲り状があったではないか」

「…………」

 国譲り状。
 それは、道三の遺言ともいえる書状で、信長に美濃を譲ると記されていた。
 木綿藤吉に託されたそれを受け取った信長と帰蝶は驚倒したが、何か深い意味が有ると判断して、木綿も含めて、緘口《かんこう》を命じていた。

義父上ちちうえマムシといわれた男。何か……何かに気づいて、策して、そうのこされたのかもしれない」

 そう言って、信長は帰蝶の了承を取って、口外を禁じ、それについて日々、考えを深めていた。

「存外、十兵衛どのの受けた頼まれごとと符合するやもしれんな」

 では、と言って信長は出陣した。
 あとに残った帰蝶は、改めて国譲り状を手に取って見つめた。

「父上……あなたは何に気づかれたのですか? そして……何をのこしてくれたのですか?」



 稲生いのう
 清洲から南東の方向、於多井川を越えたところにある。
 地名などから想像するに、相当の湿地帯であり、稲田があったものかと思われる。
 つまり――この時期の稲生とは泥田であり、信長は敢えてそこを戦場に選んだのだ。

「動きにくいぞ……くそっ」

 柴田勝家と林秀貞は、信長軍がいるという稲生に駆けつけると、その足場に悪さに閉口した。
 それでも勝家は自軍の千人を何とか進軍させ、正午、信長軍とどうにかぶつかることに成功する。

「かかれ!」

 柴田の異名をとる勝家の面目躍如とばかりに、勝家は突撃を命じた。
 対するや、信長軍は七百。しかし、ここで泥田を戦場に選んだことが奏功した。
 突っ込んで来る勝家の将兵らに向けて、信長は鉄砲隊の銃口を向けた。

ッ」

 橋本一巴はしもといっぱ指揮する鉄砲隊より火箭が放たれ、勝家軍の兵らはと倒れた。
 それを見た勝家の判断はすさまじかった。

「すぐにが来るぞ! を撃たすな! やらすな! かかれっ、かかれえっ!」

 村木砦の戦いにて、信長がいわゆる「三段撃ち」を使って砦を落としたことは、つとに知られている。
 それゆえに、このままただ突撃するだけでは、撃たれるのみ。
 ここは、死力を尽くしての全軍の突進突撃あるのみ。
 それは、勝家ならでは判断であり実行であり、余人ではできないであろう代物である。
 現に、林秀貞率いる七百は泥田で立ち往生しており、しかも信長の鉄砲攻撃を目にして、右往左往している。

「かかれ! ここで食らいつけば、勝てる! 数が多いは、こちらよ!」

 勝家は自ら槍を取って、先頭を征く。
 その前に一騎の武者が立ちはだかった。

「貴様は」

「織田信長がいちの武者、佐々孫介さっさまごすけなり!」

小豆坂七本槍あずきざかしちほんやりか。悪くない!」

 小豆坂七本槍とは、かつて、織田信秀が三河において今川義元と戦った小豆坂の戦いにおいて、特に武勇があると信秀より認められた武者七人を指す。ちなみに、故・織田信光もこの小豆坂七本槍である。
 孫介は槍をしごいて勝家の方へと向かった。

「孫介につづけ!」

「勝家さまにおくれを取るな!」

 こうなると乱戦である。
 信長も鉄砲隊を後方に下げ、織田信房(かつて織田姓を賜った家臣の孫。小豆坂七本槍のひとり)、丹羽長秀、佐久間信盛、前田利家らに、迎撃を命じた。

「征け! 勝家を討てば、このは終わる!」

 信長の発言は正鵠せいこくを射ていた。
 この場に織田信行はいない。津々木蔵人もいない。
 宿将・柴田勝家こそが大将であり、林秀貞は副将だが、おそらくは勝家軍が崩れれば、連動して倒されるであろう。

「そう簡単にやられる勝家だと思うな!」

 勝家が怒号と共に、孫介を槍で貫く。

「……ッ」

 言葉少なながらも忠実であり、常に前線に立ちつづけた勇将・佐々孫介の最期であった。
 片手で拝み、瞑目して悼む勝家。
 彼は勇士を尊敬した。
 それは故・平手政秀の教えでもある。
 そして勝家が目を開くと、見知った顔が立ちふさがっていた。

「貴様……前田又左衛門利家まえだまたざえもんとしいえ!」

「さよう……あんたに教えを受けた武を、今、ここであかす!」

 利家が槍をかまえる。
 槍はあけに塗られている。
 朱の槍は目立つ。
 それゆえに、勇士にしか持たされぬ。

「よかろう……貴様の武がどれほどのものか、試してくれるわ!」

「望むところよ! この『槍の又左またざ』の武、とごろうじよ!」

 ……勝家と利家の槍が交差する。
 勝家の軍と信長の軍もまた交差し、斬り合い、揉み合っていく。
 だが、数に勝る勝家軍が次第に次第に、勝家自身は利家に足止めを食らっていたが、勝家の軍は、ついに信長の本陣に達した。
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