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第二部 尾張の雄
07 赤塚の戦い
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今川義元という大魚は、三河に潜み、そして急浮上した。
尾張の、赤塚という場所で。
「山口教継、寝返り!?」
尾張鳴海城、山口教継は、織田信秀の時代には、信秀から重用されており、三河・今川方面への防備を任されていた。
それが、信秀が死んだ途端に、鳴海城は子の山口教吉に任せ、自身は中村に移った。それだけでなく、廃城になっていた笠寺城を修繕して、今川家の岡部元信らを招じ入れた。
「寝返りではない」
とは、山口教継の言葉である。
教継は、子の教吉に家督を譲って隠居した。隠居先として中村を選んだと語った。
「それでは、笠寺は」
織田信長はそこを追及した。
国境の国人だ。二枚舌を使うこともあろう。
たとえ、そうであったとしても、最後には、表向きには織田に味方すると言えば、信長としては、それで良かった。
だが。
「笠寺については、廃城として放っておいたところに、勝手に今川が家臣を送って修理し占領しているものである」
素知らぬふりをして、教継は信長をやり過ごそうとしていた。
所詮は、うつけ。親の七光り。
国境において、しのぎを削る争い合いの中に身を置いたわれわれになど、かなうものか。
そう高をくくっていた教継は、次の信長の命令に度肝を抜くことになる。
「勝手に今川が笠寺を己がものにしているのは仕方ない。なら、鳴海城の教吉と連携して、笠寺を攻めよ」
「何い!?」
こういう場合、様子見をせよとか、教継の判断に任せるとか言ってくるのが定石である。
そうではなく、攻めよと。
教継は唸った。
これを断れば、今度は信長が軍勢を率いてやって来るかもしれない。
そうなれば教継・教吉親子とて、その加勢に呼ばれるだろう。
「くそっ、甘く見てたか」
教継としては、信長に笠寺のことを気づかれるにしても、もう少し引き延ばしが可能だと思っていた。
その引き延ばした時間のうちに、今川の笠寺占拠を既成事実としてしまおうと目論んでいた。
「それが、こんな」
信長は容赦なく教継に笠寺の今川家の勢力を排除せよといってきた。
裏切りなど、絶対に認めぬという意志の表れかもしれぬ。
思い悩む教継の耳に、とんでもない一報が飛び込んできた。
「の、信長が」
信長は教継に対して使いや文を送りつつ、兵の用意をしていた。
そして頃合いと見て出陣していた。その数、八〇〇。
狙いは。
「この中村か」
信長は中村の教継を始末するつもりだ。
笠寺の今川軍にせよ、鳴海の教吉にせよ、動いているのは――指図しているのは教継だ。
大きく見れば、それは今川義元の指図かもしれないが、今少なくともこの笠寺、鳴海、中村で軸はどれかといわれたら、それはこの中村だ。
「鳴海の教吉に兵を出せと使いを!」
そうこうしている間にも、早朝に那古野城を進発した信長は、中根村を通り、小鳴海を過ぎ、ついに「三の山」という山の上に兵を待機させ、山口親子の出方を待った。
物見に出た服部小平太が帰ってくると、「三の山」の東――赤塚に山口教吉の兵およそ三千が進軍している、と報告してきた。
「で、あるか」
濃よ、仕掛けるかと呟いた信長は、その濃――帰蝶に那古野城の留守を守らせていることに気づき、やれやれと頭を掻いた。
「おっと済まぬ。では、やるか」
信長が愛馬に鞭をひとつくれると、一目散に駆け出した。小平太ら織田軍の将兵も、あわてて馬を走らせる。
「殿につづけ!」
信長の進軍は、いつもこうだ。
だけど、織田軍の将兵は知っている。
信長の行く先には、光が見える、と。
*
天文二十一年四月一七日。
巳の刻(およそ午前十時)。
後世、赤塚の戦いとして知られるその合戦は、終始信長の采配が冴えわたっていた。
「矢戦はほどほどにして、すぐに槍戦に移れ!」
数の差が反映される矢戦では、少数である織田軍が不利。
ならばと、信長は接近戦である槍戦に持ち込み、乱戦の中で山口軍の大将、山口教吉を討ち取る腹づもりだった。
「かかれ、かかれ!」
山口教吉にせよ、父である教継にせよ、元は織田家に仕えていた。そのため、織田軍、山口軍共に知り合いが多く、午の刻(正午)には、お互いに疲労困憊して「もうやめるか」「おう」というやり取りを交わしたという。
「ならば、退け」
信長も無理に攻めつづけようとは思わなかった。
このたびの合戦の水面下には、今川義元という大魚が潜んでいて、油断すると食ってやろうと身構えている。
「速攻で勝てればそれで良し。でなければ、引き分けでいい。さっさと帰るぞ」
だが信長は顔見知りということに付け込んで、捕らわれた兵や馬を交換して取り返すことを忘れなかった。
「これでよし。では、濃の顔が見たくなったゆえ、戻る!」
これには織田軍の将兵も思わず笑ってしまった。
さっきまでの殺伐とした雰囲気が霧散し、引き分けであるにもかかわらず、意気揚々と織田軍は引き返していった。
織田信長。
苛烈な態度で知られる彼だが、将兵の心理というものをつかんでいた。
だからこそ、曲者ぞろいの織田軍を率いて、天下を目指すことができたという。
尾張の、赤塚という場所で。
「山口教継、寝返り!?」
尾張鳴海城、山口教継は、織田信秀の時代には、信秀から重用されており、三河・今川方面への防備を任されていた。
それが、信秀が死んだ途端に、鳴海城は子の山口教吉に任せ、自身は中村に移った。それだけでなく、廃城になっていた笠寺城を修繕して、今川家の岡部元信らを招じ入れた。
「寝返りではない」
とは、山口教継の言葉である。
教継は、子の教吉に家督を譲って隠居した。隠居先として中村を選んだと語った。
「それでは、笠寺は」
織田信長はそこを追及した。
国境の国人だ。二枚舌を使うこともあろう。
たとえ、そうであったとしても、最後には、表向きには織田に味方すると言えば、信長としては、それで良かった。
だが。
「笠寺については、廃城として放っておいたところに、勝手に今川が家臣を送って修理し占領しているものである」
素知らぬふりをして、教継は信長をやり過ごそうとしていた。
所詮は、うつけ。親の七光り。
国境において、しのぎを削る争い合いの中に身を置いたわれわれになど、かなうものか。
そう高をくくっていた教継は、次の信長の命令に度肝を抜くことになる。
「勝手に今川が笠寺を己がものにしているのは仕方ない。なら、鳴海城の教吉と連携して、笠寺を攻めよ」
「何い!?」
こういう場合、様子見をせよとか、教継の判断に任せるとか言ってくるのが定石である。
そうではなく、攻めよと。
教継は唸った。
これを断れば、今度は信長が軍勢を率いてやって来るかもしれない。
そうなれば教継・教吉親子とて、その加勢に呼ばれるだろう。
「くそっ、甘く見てたか」
教継としては、信長に笠寺のことを気づかれるにしても、もう少し引き延ばしが可能だと思っていた。
その引き延ばした時間のうちに、今川の笠寺占拠を既成事実としてしまおうと目論んでいた。
「それが、こんな」
信長は容赦なく教継に笠寺の今川家の勢力を排除せよといってきた。
裏切りなど、絶対に認めぬという意志の表れかもしれぬ。
思い悩む教継の耳に、とんでもない一報が飛び込んできた。
「の、信長が」
信長は教継に対して使いや文を送りつつ、兵の用意をしていた。
そして頃合いと見て出陣していた。その数、八〇〇。
狙いは。
「この中村か」
信長は中村の教継を始末するつもりだ。
笠寺の今川軍にせよ、鳴海の教吉にせよ、動いているのは――指図しているのは教継だ。
大きく見れば、それは今川義元の指図かもしれないが、今少なくともこの笠寺、鳴海、中村で軸はどれかといわれたら、それはこの中村だ。
「鳴海の教吉に兵を出せと使いを!」
そうこうしている間にも、早朝に那古野城を進発した信長は、中根村を通り、小鳴海を過ぎ、ついに「三の山」という山の上に兵を待機させ、山口親子の出方を待った。
物見に出た服部小平太が帰ってくると、「三の山」の東――赤塚に山口教吉の兵およそ三千が進軍している、と報告してきた。
「で、あるか」
濃よ、仕掛けるかと呟いた信長は、その濃――帰蝶に那古野城の留守を守らせていることに気づき、やれやれと頭を掻いた。
「おっと済まぬ。では、やるか」
信長が愛馬に鞭をひとつくれると、一目散に駆け出した。小平太ら織田軍の将兵も、あわてて馬を走らせる。
「殿につづけ!」
信長の進軍は、いつもこうだ。
だけど、織田軍の将兵は知っている。
信長の行く先には、光が見える、と。
*
天文二十一年四月一七日。
巳の刻(およそ午前十時)。
後世、赤塚の戦いとして知られるその合戦は、終始信長の采配が冴えわたっていた。
「矢戦はほどほどにして、すぐに槍戦に移れ!」
数の差が反映される矢戦では、少数である織田軍が不利。
ならばと、信長は接近戦である槍戦に持ち込み、乱戦の中で山口軍の大将、山口教吉を討ち取る腹づもりだった。
「かかれ、かかれ!」
山口教吉にせよ、父である教継にせよ、元は織田家に仕えていた。そのため、織田軍、山口軍共に知り合いが多く、午の刻(正午)には、お互いに疲労困憊して「もうやめるか」「おう」というやり取りを交わしたという。
「ならば、退け」
信長も無理に攻めつづけようとは思わなかった。
このたびの合戦の水面下には、今川義元という大魚が潜んでいて、油断すると食ってやろうと身構えている。
「速攻で勝てればそれで良し。でなければ、引き分けでいい。さっさと帰るぞ」
だが信長は顔見知りということに付け込んで、捕らわれた兵や馬を交換して取り返すことを忘れなかった。
「これでよし。では、濃の顔が見たくなったゆえ、戻る!」
これには織田軍の将兵も思わず笑ってしまった。
さっきまでの殺伐とした雰囲気が霧散し、引き分けであるにもかかわらず、意気揚々と織田軍は引き返していった。
織田信長。
苛烈な態度で知られる彼だが、将兵の心理というものをつかんでいた。
だからこそ、曲者ぞろいの織田軍を率いて、天下を目指すことができたという。
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