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第一章 人間の章 第一部 美濃の姫
02 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)
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「サンスケというそうです」
「サンスケ」
蜂須賀小六から、織田信長の「自称」について聞いた時、そんな答えが返って来た。
帰蝶は心の中でサンスケサンスケと唱えた。
だが、どうも響いて来ない。
「……やはり三郎と呼ぶことにしよう」
帰蝶は父・斎藤道三と、あの長良川の鵜飼いの夕餉のあと、すぐに尾張へ輿入れとなった。実際に今、輿に乗っている。
伴をするのは、尾張への道筋に詳しいという、蜂須賀小六である。
小六は美濃と尾張の国境を根城としている国人(地域領主)で、道三からよく「仕事」を頼まれる間柄で、今回の帰蝶の輿入れも、その流れから彼の仕事になった。
その小六が前方を見晴るかす。
尾張の方を望むと、もう侍が何人かいて、屯している様子だった。
どうやら、国境の警備の者らしい。
さすがに商いの盛んな尾張らしく、なかなか小洒落た者が多い。
帰蝶が侍たちの中で、一番小ざっぱりしているのは、あの浅葱色の羽織の者だと見定めていると、小六は「そろそろか」と呟いた。
「帰蝶さま」
「何?」
「そろそろ尾張との国境です。輿から降りて下さい」
「……は?」
帰蝶は何を言っているのかという目で小六を見た。
小六はため息をついてから言った。
「……尾張で輿に乗れるのは、国主、つまり尾張守護である斯波家の方のみ、と決まっておりますので」
京の幕府の定めた法でございます、と小六は頭を下げた。
「は? え? い、いやいや、確かに男の子の方はそれで良いでしょう。でも、わたしは女子ですよ?」
「まあ、そうなんですけどね……」
小六は頭を掻いた。
訳が分からないという表情をする帰蝶を前に、ごにょごにょと、斯波家の人は気位が高くて、しかも細かいから、少しでもその目につかないようにとか言い出した。
「……納得いかない」
「そう言うな、濃姫よ」
その甲高い声は、突如、帰蝶の目の前に躍り出た馬上の男――先ほど帰蝶が見ていた浅葱色の羽織の男、というか帰蝶と同じくらいの年頃の少年から響いてきた。
少年は、帰蝶の「?」という表情を見て、「おれが信長じゃ」と言い放った。
「見知り置け。以後よろしゅう、濃姫」
「……その濃姫って何です?」
帰蝶の凝視。
信長は笑った。
「美濃から来たから、濃姫。単純明快じゃろ?」
「…………」
サンスケと名乗るその「美意識」を自分に発揮されなくて良かったというべきか。
しかし姫とは。
いちおう、後家(未亡人)なんだけどなと思っていると、突然、抱きかかえられた。
いつの間にか下馬していた信長が、手を伸ばしていたのだ。
「なっ、何を」
「気に食わんのだろう? 斯波家がどうとか、輿がどうとか。その気持ち、よう分かる。分かるから、駆けるぞ!」
「……はっ!?」
信長は帰蝶を片腕で肩の上に乗せ、そのまま騎乗した。
これではまるで、山賊にかどわかされた村娘ではないか。
「ちょっ……待っ……サンスケ、じゃない、三郎さま!」
「おうっ! 三郎と呼ばれるのはかえって新鮮じゃな! 良いぞ! で、何じゃ!」
「こっ、この体勢! ちょっと! やめて下さい!」
「む? そうか? これでも……気を遣っているんだがな」
その時、帰蝶さま帰蝶さまと小六がひそひそと話す。
「輿を降りたくない。尾張の輿の決まりなど……と言うておられるから、無理矢理降ろされた……ということにしてくれてるのでござりましょう」
「聞こえておるぞ、小六。ま、そういうことじゃ。濃よ、お前の心中だけでなく、何で美濃の姫がという……舅どのの、道三どのの手前もあろう。こうしておれがかっさらったことにすれば、万事解決。誰にも角が立たずに済む!」
得意げに言い切る信長。
帰蝶としては、理屈は分かるが、とにかくこの体勢はやめろと言いたい。
だがそんな帰蝶の心の声など、まるで気にしない信長は、「ハイヤ!」と叫んで、馬に鞭をくれた。
「小六! 姫御前、いや、花嫁御寮人の送り届け、ご苦労! ではの!」
「はい、また何かございましたら、よろしゅう」
うやうやしく頭を下げる小六に、帰蝶が待ってと言う暇もなく、信長は、信長の馬は駆け出した。
そして信長(と帰蝶)が見えなくなるまで、小六はずっと頭を下げていた。
「……行ったか」
その小六の後ろに立つ影。
斎藤道三である。
「これは大殿」
「驚いたふりなどやめよ」
道三はにやりと笑うと、小六の手に銀子を握らせた。
すると小六も人の悪い笑顔を浮かべて、銀子を懐にしまった。
小六は道三がつけているのを知っていた。
それは、素波乱波(忍び)の技を身に付けている小六にとって、造作もないことであった。
「こたびの帰蝶の輿入れの件、大儀」
「……恐悦至極」
「なかなか頼りになる婿ではないか」
道三は片手をひさしにする。
すでに信長と帰蝶はいないが、彼にとってはどうでもいいことだった。
「……尾張の織田信長、これからの男。しかも、見る目がある」
斯波家のみ輿が許される地で、信長自身が強引にというかたたちで(実際に強引だったが)、帰蝶を輿から下ろした。
こうすることにより、帰蝶はあくまでも輿に乗ることにこだわっていた、父である道三も娘が輿に乗る――斯波家などに屈したわけではない、と考えられるようにした。
「――そして、姫とな。先夫がいることなど気にしない、という心意気の表れか」
これなら、帰蝶を任せても大丈夫そうだ。
道三はうんうんと満足そうにうなずいて、待たせていた愛馬の方へ向かった。
「達者でな、帰蝶。その男なら、お前を任せても良かろうよ」
斎藤道三。
これより、嫡男である義龍との暗闘、謀略、そして血みどろの闘争に身を投じることになる運命にある。
そうなる前に――ひと目、娘の晴れ姿を見ておきたかったのかもしれない。
「サンスケ」
蜂須賀小六から、織田信長の「自称」について聞いた時、そんな答えが返って来た。
帰蝶は心の中でサンスケサンスケと唱えた。
だが、どうも響いて来ない。
「……やはり三郎と呼ぶことにしよう」
帰蝶は父・斎藤道三と、あの長良川の鵜飼いの夕餉のあと、すぐに尾張へ輿入れとなった。実際に今、輿に乗っている。
伴をするのは、尾張への道筋に詳しいという、蜂須賀小六である。
小六は美濃と尾張の国境を根城としている国人(地域領主)で、道三からよく「仕事」を頼まれる間柄で、今回の帰蝶の輿入れも、その流れから彼の仕事になった。
その小六が前方を見晴るかす。
尾張の方を望むと、もう侍が何人かいて、屯している様子だった。
どうやら、国境の警備の者らしい。
さすがに商いの盛んな尾張らしく、なかなか小洒落た者が多い。
帰蝶が侍たちの中で、一番小ざっぱりしているのは、あの浅葱色の羽織の者だと見定めていると、小六は「そろそろか」と呟いた。
「帰蝶さま」
「何?」
「そろそろ尾張との国境です。輿から降りて下さい」
「……は?」
帰蝶は何を言っているのかという目で小六を見た。
小六はため息をついてから言った。
「……尾張で輿に乗れるのは、国主、つまり尾張守護である斯波家の方のみ、と決まっておりますので」
京の幕府の定めた法でございます、と小六は頭を下げた。
「は? え? い、いやいや、確かに男の子の方はそれで良いでしょう。でも、わたしは女子ですよ?」
「まあ、そうなんですけどね……」
小六は頭を掻いた。
訳が分からないという表情をする帰蝶を前に、ごにょごにょと、斯波家の人は気位が高くて、しかも細かいから、少しでもその目につかないようにとか言い出した。
「……納得いかない」
「そう言うな、濃姫よ」
その甲高い声は、突如、帰蝶の目の前に躍り出た馬上の男――先ほど帰蝶が見ていた浅葱色の羽織の男、というか帰蝶と同じくらいの年頃の少年から響いてきた。
少年は、帰蝶の「?」という表情を見て、「おれが信長じゃ」と言い放った。
「見知り置け。以後よろしゅう、濃姫」
「……その濃姫って何です?」
帰蝶の凝視。
信長は笑った。
「美濃から来たから、濃姫。単純明快じゃろ?」
「…………」
サンスケと名乗るその「美意識」を自分に発揮されなくて良かったというべきか。
しかし姫とは。
いちおう、後家(未亡人)なんだけどなと思っていると、突然、抱きかかえられた。
いつの間にか下馬していた信長が、手を伸ばしていたのだ。
「なっ、何を」
「気に食わんのだろう? 斯波家がどうとか、輿がどうとか。その気持ち、よう分かる。分かるから、駆けるぞ!」
「……はっ!?」
信長は帰蝶を片腕で肩の上に乗せ、そのまま騎乗した。
これではまるで、山賊にかどわかされた村娘ではないか。
「ちょっ……待っ……サンスケ、じゃない、三郎さま!」
「おうっ! 三郎と呼ばれるのはかえって新鮮じゃな! 良いぞ! で、何じゃ!」
「こっ、この体勢! ちょっと! やめて下さい!」
「む? そうか? これでも……気を遣っているんだがな」
その時、帰蝶さま帰蝶さまと小六がひそひそと話す。
「輿を降りたくない。尾張の輿の決まりなど……と言うておられるから、無理矢理降ろされた……ということにしてくれてるのでござりましょう」
「聞こえておるぞ、小六。ま、そういうことじゃ。濃よ、お前の心中だけでなく、何で美濃の姫がという……舅どのの、道三どのの手前もあろう。こうしておれがかっさらったことにすれば、万事解決。誰にも角が立たずに済む!」
得意げに言い切る信長。
帰蝶としては、理屈は分かるが、とにかくこの体勢はやめろと言いたい。
だがそんな帰蝶の心の声など、まるで気にしない信長は、「ハイヤ!」と叫んで、馬に鞭をくれた。
「小六! 姫御前、いや、花嫁御寮人の送り届け、ご苦労! ではの!」
「はい、また何かございましたら、よろしゅう」
うやうやしく頭を下げる小六に、帰蝶が待ってと言う暇もなく、信長は、信長の馬は駆け出した。
そして信長(と帰蝶)が見えなくなるまで、小六はずっと頭を下げていた。
「……行ったか」
その小六の後ろに立つ影。
斎藤道三である。
「これは大殿」
「驚いたふりなどやめよ」
道三はにやりと笑うと、小六の手に銀子を握らせた。
すると小六も人の悪い笑顔を浮かべて、銀子を懐にしまった。
小六は道三がつけているのを知っていた。
それは、素波乱波(忍び)の技を身に付けている小六にとって、造作もないことであった。
「こたびの帰蝶の輿入れの件、大儀」
「……恐悦至極」
「なかなか頼りになる婿ではないか」
道三は片手をひさしにする。
すでに信長と帰蝶はいないが、彼にとってはどうでもいいことだった。
「……尾張の織田信長、これからの男。しかも、見る目がある」
斯波家のみ輿が許される地で、信長自身が強引にというかたたちで(実際に強引だったが)、帰蝶を輿から下ろした。
こうすることにより、帰蝶はあくまでも輿に乗ることにこだわっていた、父である道三も娘が輿に乗る――斯波家などに屈したわけではない、と考えられるようにした。
「――そして、姫とな。先夫がいることなど気にしない、という心意気の表れか」
これなら、帰蝶を任せても大丈夫そうだ。
道三はうんうんと満足そうにうなずいて、待たせていた愛馬の方へ向かった。
「達者でな、帰蝶。その男なら、お前を任せても良かろうよ」
斎藤道三。
これより、嫡男である義龍との暗闘、謀略、そして血みどろの闘争に身を投じることになる運命にある。
そうなる前に――ひと目、娘の晴れ姿を見ておきたかったのかもしれない。
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