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序 小手指原の戦い

04 いざ鎌倉

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いくさを、矢合わせ無しにだと?」
 驚いたのは桜田貞国である。彼は北条一門としていくさの作法に忠実たらんとした。
 それが仇となった。
 幕府軍、新田軍双方ともに布陣をしないまま、互いにとして衝突した。
「こんなのは……いくさではない!」
 貞国は悲鳴を上げた。
 渡河中の新田軍を襲えば、大軍である幕府軍の勝利は確実。
 それを、作法を重んじて矢合わせをするという慈悲を――時間を与えた結果が、これだ。
「これでは……楠木なる悪党と同じではないか! これではいくさにならん!」
 一方の新田義貞からすれば、を合わせては、敗北は必定であり、今こうしてやり合っている今でさえ、ちょっとでも気を抜けば負けるという緊迫感を感じていた。
 が――悪くはなかった。
「者共! 死ねや!」
 義貞はおめく。
 どうせ上野こうずけに居たところで、幕府に莫大な金銭を納めて枯死する運命だった。それならばと、かねてからの足利家の策に乗った。乗ったが、このままでは、足利家の膝下しっかに枯死することになるだろう。
 それならば。
「死ねや! 死んで、幕府を倒せ! 富貴ふうきはわれら新田に!」
 おお、と新田軍の将兵は叫ぶ。
 ここで幕府軍を撃破せねば、幕府を倒さねば、新田は滅ぶ。
 滅ぶくらいなら、ここで死ぬ。
 死ぬ思いで勝てば、富貴はわが手に。
 それはいわば狂った論理であるが、それでも新田軍の将兵はそれを共有した。
「かかれ!」
 義貞が自ら刀を振るって、敵将・桜田貞国の本陣を目指す。
「くっ、迎え撃て!」
 貞国からすると、もはや新田軍は狂った獣である。
 作法も何も無いを、まともに相手できるか。
 しかし幕府執権・北条家の一門として、ここを守らねばという思いで、貞国は必死に防戦の指揮に努めた。
「守り切れ! 数は此方こちらが上ぞ!」
 貞国の督戦の声は、だが虚しく響く。
 幕府軍の将兵からすると、を相手にして、怪我だの敗死だのさせられてはかなわない。
 ここは一旦、南の久米川にでも退いて、体勢を立て直すべきではないか。
「最悪――鎌倉に返してこもることも」
 そういう退嬰的な思いが、幕府軍の将兵を支配し始めていた。

 ……そして三十有余にわたる突撃を繰り返した義貞は、最後の最後に奥の手を使った。
「足利が来るぞ!」
 むろん、足利軍は来ない。大軍を編成するのに躍起になっており、そんな暇はない。虚言である。
 だが、幕府軍を動揺させるには充分だった。
 義貞がえる。
「今ぞ!」
 新田軍が、これが最後とばかりに吶喊とっかんする。
 その勢いに、幕府軍は、誰からともなく後ずさる。
「これは」
 さすがに貞国も、これ以上の消耗を重ねるのはまずいと感じ、撤退を命じた。
退け、退くのじゃ! 久米川へ!」



 戦死者、新田軍三百、幕府軍五百。
 新田軍もこれ以上の攻勢は無理と、矛を収めた。
 脇屋義助わきやよしすけは兵らに慰労の声をかけつつ、兄の義貞が一人立つ川原に向かった。
 義貞は南を見すえていた。
「……兄者」
「義助か」
「何だ、南の方を見て。明日も戦うやる気か?」
「……ああ」
 兄の何気ない返答に、義助は呆れた。
「今日の惨状ざまを見たのか? 勝てたからいいものの……」
「義助」
 義貞は視線を南に向けながら、言った。
「この勢いに乗らねば、幕府に勝てんぞ。今しかない」
 そこで義貞は初めて義助の方を振り向いた。
「それにだ。この勢いなら、鎌倉をおとせるぞ」
 難攻不落といわれる、鎌倉。
 その鎌倉を、この兄はおとすというのか。
 義貞は笑った。
おとせるぞ、義助」
 そう――言いながら。

 ――後世、「新田義貞の鎌倉攻め」と伝えられる快進撃が、今、ここに始まる。
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