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第三部 河越夜戦
33 出陣
しおりを挟む危険を伴わずに、偉大なことは何も成し遂げられなかった。
マキャベリ
武蔵。
府中。
北条新九郎氏康は、まだこの場所にとどまり、鎌倉街道を用いて小田原、そして領内各地と連絡を取り合い、来たるべき合戦にそなえていた。
また、戦時中のため、内政上の課題が山積みとなっており、氏康は精力的にそれに取り組んでいた。
「…………」
氏康はまたひとつ書状をしたためると、北条家の公印である、虎の印判を押すべく、言った。
「弁千代、虎の印判を取ってくれんか」
だがそれにこたえる者はなく、少しして氏康は、今この部屋に誰もいないことに気づくのであった。
「あ、そうか……弁千代は岩付か」
それは氏康が望んでそうしたことであった。弁千代はきっと、合戦に参加したいと言ってくるはず。今回の合戦は、氏康自身も刀を取って戦うことになるであろうから、弁千代の身の安全を確保する余裕が無い。
これは、氏康のわがままであることは百も承知だが、弁千代には後方にいて、控えていて欲しかった。そこへ、静養した方が良いという話があって、これ幸いと、氏康は弁千代を岩付に留め置いてしまった。
「……ふう」
氏康は自分で虎の印判を取り、書状に押すと、それを早馬に託するべく、外に出た。
籠っていたせいか、太陽がまぶしい。しかし、空気が旨い。
緑さわやかな、武蔵野の光景が、そこにはあった。
氏康はふと、鎌倉街道の東の方を見ると、ひとりの男が馬に乗ってやってきていた。
男は大きく、その背中には、金棒を背負っていた。
男が氏康の姿を認めると、その金棒を手に持ち、大きく振った。
「新九郎、息災か」
「小太郎か」
氏康の乳兄弟、清水小太郎吉政が、ついに駿河から離れ、ここ、府中にやって来たのであった。
出陣
「……遅かったじゃないか」
「すまねえ。だが、あの、うわばみみたいな今川の大将とやり合ってたんだぜ? 大目に見ろよ」
「うわばみ」
氏康は、今川義元の姿を想起し、たしかにそのとおりだな、と思わずうなずいていた。
「……まあ、さすがに、八万の相手をすると聞いたら、譲歩してくれたがな」
「でも、条件付きなんだろう?」
「ああ、まあな……それに対して、こっちも条件を付けてやったがな」
「そりゃどうも」
くっくっと、氏康と小太郎は笑い合う。幼い頃、こうやって悪戯の相談をしたものだ。
「……叔父上は?」
「宗哲のとっつぁんかい? もうすぐ来るんじゃないか? 氏尭がかき集められるだけかき集めた兵を率いてくるらしい」
そうこうするうちに、東の方、街道の向こうに土煙が上がるのが見えた。
土煙はぐんぐんと近づいてきて、そして軍勢としての姿を現す。
軍勢の旗印は三つ鱗。
氏康の叔父にして、伊勢宗瑞(北条早雲)の末子、北条宗哲(北条幻庵)が、北条方の最後の予備兵力を率い、府中へと参陣してきたのだ。
「遅いぞ、宗哲のとっつぁん!」
「誰がとっつぁんだ、馬鹿弟子が!」
清水小太郎が、開口一番に憎まれ口をたたき、宗哲もまた、罵って返す。
良かった、いつもの二人だ、と氏康はひとりだけ、ほっとしていた。
「……大体じゃな小太郎、お前は身一つでいいが、わしは兵を連れてきておるのじゃから……」
「愚痴が過ぎるのは、年取った証拠だぜ、とっつぁん」
「うるさいわ!」
おお怖、と清水小太郎は、さっさと自らが将を務める白備えの陣へ向かった。
宗哲はその後ろ姿を睨んで息巻いていたが、やがて氏康の方へ向き直った。
「……左馬助が死んだそうじゃな」
「おれの力不足です、叔父上」
氏康は悼むように目を閉じて答えた。宗哲はそんな氏康の肩を抱き、気にするな、と言った。
「こたびの戦に勝ち、泉下の左馬助に報告しようぞ。それが何よりの手向けじゃ」
「……ええ、左馬助の最期の献策ですからね」
そこで氏康は、周囲に誰もいないかどうか確認してから、宗哲に聞いた。
「叔父上」
「なんじゃ」
「おれはこたびの戦で、じい様の『夢』を果たそうと思っている」
「…………」
宗哲は片方の眉だけ上げて、氏康を見た。
「そこで、戦うにあたって、叔父上に聞きたい……父上の時は叔父上だったと聞くが、おれの時は、孫九郎綱成ということで、合っているか?」
「何の話だ? ……と言いたいところじゃが」
宗哲はそこで深く息を吸った。彼なりに神妙になっているのである。
「そのとおりじゃ。お前の父・北条氏綱の時は、弟であるわしが『あの夢の真実を知るもう一人』じゃった……そしてお前、北条氏康が家督を継いだとき、『わしはそれを北条綱成に伝えた』」
「……ありがとう、叔父上」
「……何で今、そのようなことを聞く」
「叔父上、おれは戦う前に、その夢の真実を、全軍に告げる気でいる」
「なんと」
鼠が双つの巨木、杉を齧り倒し、虎となる。
……その、伊勢宗瑞(北条早雲)が見たという霊夢。そして、両上杉を伊勢が打倒するのだ、と宗瑞は家臣や兵たちを鼓舞したという。
「この戦、命懸けとなる。兵のひとりひとりに、それを知っておいてもらった方が良い。河越も含めて……でなければ、知らずして死んだのでは、浮かばれない……左馬助のように」
「……そうか」
そこでふと気づくと、宗哲のうしろに、清水小太郎をはじめとする、この場の北条軍の将帥たちが、集まってきていた。
黒備え・多目元忠。
「宗哲さま、お待ちしておりました」
「うむ」
赤備え・北条綱高。
「焦らして参上ってわけですかい、憎いねぇ」
「うるさいわ」
白備え・清水小太郎吉政。
「お久しゅうござる……ってか」
「さっき会ったばかりじゃろうが」
風魔衆・風魔小太郎。
「あい変らず壮健そうで何よりです」
「おぬしもな」
几帳面な挨拶を述べたり、憎まれ口をたたいたり、皆それぞれだが、共通する思いは、また会えて嬉しい、それに尽きる。
氏康は満面の笑みで皆を見守り、言った。
「さあ、それじゃ軍議を開こう……皆に言うことがあるんだ」
*
河越城外。
足利・両上杉・関東諸侯同盟軍の陣営。
扇谷上杉朝定は、まさかの太田全鑑脱落に怒りを禁じえなかった。このことは早速に軍議の話題となり、古河公方・足利晴氏のとりなしがなければ、朝定は、宿敵ともいえた関東管領・山内上杉憲政に対して、軍議の席上で、皆の前で詫びを述べることになるところだった。
「ほうほう……それでは、太田全鑑は、病を得て……」
「は……夜間にどうやら、川に飛び込んだ模様」
「川にのう……」
憲政はわざとらしく「川に」と言う。朝定は歯噛《はが》みして悔しがったが、詫びはともかく、扇谷上杉家の有力家臣である太田全鑑の動向について、説明しておかないわけにはいかない。未確認であるが、北条綱成との揉め事が起きたという噂も持ち上がっているので、ここで「病により一時帰国」と公式に決着をつけておかないことには、痛くもない腹を探られる。
「殿、もう……良うござる」
ここで助け舟を出したのは、意外にも山内上杉家家宰・長野業正である。業正自身は、太田全鑑の裏切りとまではいかないまでも、不参加の目論見があると踏んでいるが、総攻めが間近に迫る今、それはどうでも良いという判断であった。
それよりも、嫡男の吉業をはじめとする、弱った獲物を狩るという総攻めをやってしまいたいという気持ちが勝ったのである。
「雪斎禅師も、それでよろしいか」
「…………うむ」
太原雪斎は、眠っているのかと思うくらい静かであったが、聞いてはいたらしく、業正のわざとらしい話の振りに、相槌は打った。
「では、公方さまにおかれましては、総攻めをすることに変わりなく、ということでよろしいか」
「……躬《み》は、それでかまわん」
こういう時に限って、都合よく自分を使いおって、と古河公方・足利晴氏は冷たい目で業正を見つめたが、業正はどこ吹く風であった。
このとき、忍の成田や羽生の広田など、場に居る関東諸侯は、もはやどうでも良いという風に、あくびをしたり、隣の諸侯とこのあと宴をとやり取りしたり、好き勝手にふるまっていた。
そういう状況の中で、その声は上がった。
「しばらく!」
扇谷上杉家家宰・難波田善銀である。
「しばらく! わが扇谷上杉は、明日の総攻めにて、先陣を切る! それゆえ……」
扇谷上杉朝定は、何ごとかと善銀の様子を見守っている。馬廻り・曽我神四郎は呆気に取られている。
「それゆえ……攻撃の刻限を決めさせてもらいたい」
「ああ……よかろう」
晴氏は、善銀が先陣の中で一番槍を務めることになったのを知っていた。しかも、このたびの河越城を八万の軍で包囲するという作戦の仕掛け役であることも。その善銀が、敢えて発言を求めてきた。
それも、攻撃の刻限を決めたいという必要に迫られてのことであり、これは認めるしかないと、業正をはじめ、並みいる諸将も、そう思った。
「……では、お許しを得たので、不肖・難波田善銀が決め申す。刻限は払暁。夜明け前といたしたい」
「夜明け前」
山内上杉家中、馬廻りの倉賀野三河守は、その発言を肯うように、復唱した。たしかに河越城内の将兵は疲れ切っており、夜は深く寝入っていよう。そして、寝るぐらいしか楽しみが無い。明け方など、もっとも眠くて動きづらいにちがいない。
戦理にかなった刻限だ、と業正も認めた。
「諸将もご納得いただけたと見えるので、明朝、夜明け前、日の出をもって総攻めを始めたい。そして……」
常陸の小田政治の代理として参加している菅谷貞次も、これには逆らえない雰囲気があると感じた。
「……よろしいか、皆の衆。今夜はさすがに乱痴気騒ぎはやめていただく。河越の城からあの笛の音が聞こえる頃には寝て、明日朝の攻撃に備えてもらう」
善銀は、連夜の乱痴気騒ぎに嫌気が差しており、業正を睨みつけた。
さすがの業正も、今回の八万の軍を集めた立役者である善銀に凄まれると、何も言えなかった。
払暁に攻撃を仕掛ける。それに備えて、酒や女も控えて早く寝る。それは兵法にかなった行動だった。
だが惜しむらくは、あるいは偶然か、その前夜こそ、北条軍の夜襲が行われるのであった……。
*
北条新九郎氏康率いる八千の軍は、府中から鎌倉街道を北上し、河越に向かっていた。
「……このあたりは、どこか」
氏康は日の傾きを見て、いったん軍を止めた。
「和田と申すそうです」
風魔小太郎がこたえる。彼は、府中から河越へのさまざまな路を下調べしていた。
「……そうか」
現在では所沢市といわれる土地にて、北条軍は休息をとることにした。
兵糧を食べ、水を飲み、全軍がひと息ついたところで、黒備えの将・多目元忠が全軍に対して、氏康から話があると告げた。
「静粛に!」
元忠が大喝する。
北条軍の前には、いつの間にか、北条宗哲、清水小太郎吉政、北条綱高、風魔小太郎がたたずんでいた。
「……殿」
そこに多目元忠にならび、やがて北条新九郎氏康があらわれた。
「……皆、大儀」
氏康はいつもの感じで、皆に語りかける。
「本日、皆に聞いてもらいたいのは、ほかでもない。われら、初代の伊勢宗瑞の頃より、他国の逆徒と罵られ、今日まで至った……だが、それはちがう、ちがうのだ」
氏康は全員に、宗瑞の見たという夢を思い出すように言った。
双つの大きな杉を齧り倒し、虎と化す鼠の夢のことを。
「あの夢の真実を今こそ話そう……今ここにいる皆は、おれと命運を共にしてくれる者たちだ。知る必要があると判断した。聞いてくれ、祖父・宗瑞が堀越公方を討ち、父・氏綱が小弓公方を斃し、それでもなお……伊勢が、北条が、『こうしてあることができるのか』を」
……そして氏康は、北条家――伊勢家の秘奥を皆に語った。
同時刻、河越においても、北条孫九郎綱成が、城将・大道寺盛昌、寄騎・山中主膳をはじめとする将兵に、その秘奥を語っていた。
氏康は話を終え、最後に、こう締めくくった。
「……以上だ。ゆえに、これからの戦いは、河越における戦いは、『私戦にあらず』。古河公方、関東管領山内上杉、扇谷上杉……奴らこそが逆徒だ」
北条全軍は興奮に包まれ、歓声が上がった。
「……よし、では、全軍、進め! 今こそ河越を救い、双つの杉を倒す時!」
空が暗くなり、北天には妙見(北斗七星)が輝きはじめた。
……戦国の関東の最も長い夜――河越夜戦が、今、始まる。
出陣 了
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