31 / 46
第三部 河越夜戦
28 弁千代決死行 上
しおりを挟む人間の偉大さは恐怖に耐える誇り高き姿にある
プルタルコス
「弁千代に……死ね、だあ?」
北条綱高は、北条新九郎氏康の襟をつかんで、凄む。
当の弁千代は訳が分からないという表情をして、固まっている。
「待て綱高」
多目元忠はその綱高の手をつかむ。
「殿の発言は終わってないぞ」
綱高は元忠を見て、そして氏康の襟から手を離した。
「……失礼つかまつった」
「……いや」
氏康は襟を正し、改めて説明する。
「話を飛躍し過ぎた。おれが悪い。順を追って話そう」
古河公方、関東管領、扇谷上杉は、今、北条をだまし討ちにしたことにより、北条に対する警戒心をほぼ無くすだろうということ。元々、八万の大軍を繰り出していて、それで城兵三千の河越城を囲んでいるのだ。士気はがた落ちであり、ゆるみ切っている。
「……おそらく、諏訪左馬助の狙いは、この油断が最高潮になった今こそ、逆襲の時ではないか、ということだ」
「左様ですか……」
実際に左馬助の最期の言葉を聞いた風魔小太郎は、顎に片手をつけて、そのときのことに思いをはせていた。
一方で、綱高はまだ納得がいかなかった。
「いや、それは分かったが、なんでそれが弁千代に死ねと言う流れになるんだよ?」
「……油断しているとはいえ、相手の軍勢は八万。これを、今、おれたちが率いる北条勢八千でやるんだぞ」
氏康は目を閉じる。
左馬助が殺された今、和睦への道は途絶えた。
少なくとも、和睦して、相手を四分五裂させて各個撃破するという手は、使えなくなった。
……なら今、戦うしかない。
そして、戦うとなった以上、使える手は使いたい。
「……そのため、河越城兵三千にも出撃してもらう。むろん、こちらの八千に呼応して、同時にだ。そして、それまでは自滅覚悟の突撃は控えてもらう」
「理にかなっておりますが……河越の、綱成さまへはどう連絡を……」
元忠はそこまで言って、氏康の言わんとするところを理解した。
それは綱高も同様だった。
「おい、その連絡をまさか弁千代に」
「そのまさかだ」
氏康は重々しくうなずく。
弁千代は驚愕したまま硬直している。
「いえ……」
ここで風魔小太郎が発言を求めた。
「ここは私、あるいは風魔衆が連絡をすればよいのでは?」
「駄目だ」
氏康はにべもなくこたえる。
「この河越への決死行はな、『表』の人間がやってこそ、意味がある。『裏』の人間では駄目だ」
河越の城兵は今、大きな不安の下、籠城している。そこへ、城外の援軍と呼応して攻めろ、という作戦を伝える人間が裏の人間なら、どうなるか。
「北条孫九郎綱成や大道寺盛昌、山中主膳なら、たしかに風魔小太郎あるいは風魔衆が来れば、納得しよう。しかし、他の将兵はどうか?」
「…………」
風魔小太郎は、その職務ゆえ、裏で動くことになっている人間である。北条家では、幹部級の人間なら認識されているが、それ以外の将兵には、あまり認知されていない。
「ことは、その将兵の命を賭ける戦いだ。そこまで知られている人間が行って伝えねば、納得するまい」
綱高は氏康の話を理解したが、それでも弁千代を河越に行かせることには反対だった。
「だったら、おれが行く」
「駄目だ」
これは元忠の発言である。
「おい元忠、何を忠臣面してるんだ、ふざけるなよ」
「ふざけてなど、おらん。今、赤備えの将がいなくなったらどうなる? お前こそ、ふざけるな」
元忠の発言は正鵠を射ていた。
今、北条綱高と多目元忠は、逆襲のための準備をしなくてはならない。
風魔小太郎は今回の連絡には不向きだ。
清水小太郎吉政と北条宗哲は、駿河にいて、ここにはいない。
青備えの富永直勝、重臣の遠山綱景は、江戸から離れられない。
消去法で……というか、北条孫九郎綱成の実弟である弁千代こそ、連絡役にふさわしい。
「……そうか」
綱高も、元忠と同じく、氏康の話を理解した。
氏康は綱高と元忠につづいて、小太郎の目にも理解の色が浮かんだのを見て、言った。
「弁千代」
「……はい」
伝承によると、少女のように美しかったと称えられる弁千代が、伏し目がちにうなずく。
「分かったか?」
「はい……」
「河越を囲む、古河公方や関東管領の兵は気が緩んでいると聞くが、油断はできん。その中をくぐり抜けて、河越の城に、あの初雁の城に行くのは、死の危険が伴う。だから、死んでくれと言った」
「…………」
「左馬助にも、ちゃんと『死んでくれ』と言うべきだったんだ、おれは。それをつい……うまくいくものだと思ってしまって」
「おやめください、新九郎さま」
弁千代は決然として面を上げた。
「もとより、河越に誰か行くか、という話で、私が行くと申し上げました。今でも、その決意に変わりはありません」
「弁千代……」
氏康はつい、弁千代の肩を抱く。
「すまない、それと、まだ言ってないことがあるんだ、弁千代。お前なら、死んでも北条軍に大きな影響はないからだ。すまない……」
綱高に元忠、そして風魔小太郎は今度は抗議しなかった。
氏康が、泣いていたからである。
「じい様や父上に比べれば、おれはへぼ大名よ。左馬助を犠牲にしたばかりなのに、こうして今、弁千代を犠牲にする策しか思いつかないとは……」
「おやめください、と申し上げました。新九郎さま」
弁千代もまた泣いて、氏康の肩を抱いた。
「私とて、亡き友、左馬助の最期の策、成し遂げたいと思います。そしてそれが、私が尽力することでかなうのであるというのなら、これほど嬉しいことはございません」
「弁千代……」
……こうして、福島弁千代は、兄・綱成が籠る河越城への伝令役に決まった。
弁千代決死行
武蔵。
江戸城。
北条新九郎氏康率いる八千の本隊が、夜襲により府中まで撤退したという報が入り、江戸城中は騒然とした。
「もはや……あの八万の軍と戦わざるを得ないのか」
城将・遠山綱景は頭をかかえた。彼としては、和睦か、あるいは和睦後の各個撃破に大いに期待を寄せていたのだが、それが裏切られることになったからである。
綱景の悩みをよそに、江戸城常駐の青備え、富永直勝は鎧兜を身につけていた。
「おい、直勝。何をやっている」
「見てのとおりだ、綱景。出陣のしたくだ」
「……何を言っている! もしや、河越にでも行くつもりか!」
「……だったら悪いか」
「阿呆。里見が来たら、どうなる。下総の千葉と武蔵の千葉では防げんぞ」
綱景は、直立する直勝の巨躯を、その胴を拳でたたいた。
「くだらん。新九郎さまか、あるいは小田原の氏尭さまの指示を待て。軽挙妄動は、このおれが許さん」
「何を……いくら綱景といえど……」
直勝が色めき立つ。
綱景も負けじと睨む。
「あの……」
直勝と綱景のけんかの最中に、口をはさむ者がいた。
「何だ!」
「今忙しい!」
二人がともに、声のした方を向く。
「お久しゅうござる」
真田幸綱が立っていた。
さすがに同盟国・甲斐の武田からの寄騎である幸綱を前にしては、二人は矛を収めるほかなく、互いにそっぽを向きながら座った。
「……いかが致したので?」
「…………」
「…………」
同盟国相手と言えど、主の敗北を伝えてよいものかどうか、綱景と直勝は考えあぐねた。
そうこうしているうちに、原虎胤があらわれた。
「おい、幸綱。お前が出たあとに、お屋形様から使いの忍びが来てな」
「え、そうなんですか」
「お前が先に行っちまうから、わしが相手したんだ」
まったく、賢いんだか抜けてるんだか……と虎胤が愚痴りながら、何気なく、言った。
「新九郎氏康さまが、敗けて、府中まで退いたそうだ」
「それは一大事ですな。あ、だから直勝さまは甲冑をつけていたのですな」
「あ、いや……」
「いやでも、こういう時に青備えここにありと知らしめるために、武備を示すのは有効ですしなぁ」
割とあっさりと敗報が知られて、綱景と直勝は何も言えなくなってしまった。
*
「……左様でござるか、千葉利胤どのが、もうそこまで矢止め(不戦)の密約を取り付けたのでござるか」
平服に着替えた直勝は、幸綱が持参した書状を眺める。
「滝山の大石、忍の成田、天神山の藤田、秩父の上田……」
横から見ていた綱景が指折り数える。
「結構な数になる。これだけ揃えるのに、たいへんな量の文を書いたのであろう」
「利胤どののご尽力でござる」
幸綱は頭を下げ、虎胤は黙ってうなずく。
「しかし……肝心の扇谷上杉が和睦の話をたたき壊して、攻めてきたということだから、これらの書状も……」
直勝が歎息する。当初の計画では、矢止め(不戦)する大名小名を増やし、それを和睦への圧力とすることになっていた。ところが、扇谷上杉家が先手を打って、北条軍に襲いかかり、すべてご破算にしてしまった。
「それでは、千葉介どのの努力は、無駄ということか?」
虎胤は凄んだ。
なお、千葉利胤の父・昌胤はついこの間亡くなり、利胤は千葉家の当主となった。
「あいや、お待ちを」
幸綱はとなりの虎胤をおさえる。
「おそらく、新九郎どのの次なる一手は、河越」
幸綱は語る。
和睦が成らなかった以上、河越を包囲する八万を打倒するほか、道はない。むしろ、勝ちに驕る今こそ、勝機を見出すことができる。
「その戦いにおいて、これらの矢止めがものを言います」
「そうか」
虎胤は膝を打った。
「仮に、北条があの八万に挑んだとき、矢止めした大名小名は戦うふりなどしてくれる、ということか」
「左様」
幸綱は両の手をこすり合わせてうなずく。
「ふっふ……」
「おや直勝さま、どうなされた」
直勝は笑いがこみ上げてきた。
「いやおぬしらがこの江戸に来てくれて、本当に良かったわ。おかげで、あわてて河越に行って、恥をかかずに済んだわい」
「恥で済めば良い……殿の戦いを邪魔するところだったぞ」
綱景は冷然と言った。しかし、今度は直勝は怒らず、黙って頭を下げた。
……そうこうしているうちに、若党が氏康からの火急の使いが来たことを告げた。
(つづく)
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
花浮舟 ―祷―
那須たつみ
歴史・時代
本物の『主人公が悪役』作品、ここに。
架空の京・沖去(おきざり)が舞台の戦国物語。
京の統治者、十四代御門は若くして病で亡くなり、即位したのはまだ幼い公主。そのため、御門の親類である幻驢芭(まほろば)家当主・宵君(よいのきみ)が摂政となり、京を統治・守護していた。
ところが御門の髪上げを目前に、宵君は自らの腹心とともに不穏な動きを見せ始める。
◆当作品は戦国時代をベースとしておりますが、地名、人物名等は全て架空のものです
◆中盤以降、暴力的な描写があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
花倉の乱 ~今川義元はいかにして、四男であり、出家させられた身から、海道一の弓取りに至ったか~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
今川義元は、駿河守護・今川氏親の四男として生まれ、幼くして仏門に入れられていた。
しかし、十代後半となった義元に転機が訪れる。
天文5年(1536年)3月17日、長兄と次兄が同日に亡くなってしまったのだ。
かくして、義元は、兄弟のうち残された三兄・玄広恵探と、今川家の家督をめぐって争うことになった。
――これは、海道一の弓取り、今川義元の国盗り物語である。
【表紙画像】
Utagawa Kuniyoshi, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
戦国異聞序章 鎌倉幕府の支配体制確立と崩壊
Ittoh
歴史・時代
戦国異聞
鎌倉時代は、非常に面白い時代です。複数の権威権力が、既存勢力として複数存在し、錯綜した政治体制を築いていました。
その鎌倉時代が源平合戦異聞によって、源氏三代、頼朝、頼家、実朝で終焉を迎えるのではなく、源氏を武家の統領とする、支配体制が全国へと浸透展開する時代であったとしたらというif歴史物語です。
信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』でも同時掲載しています◇
時ノ糸~絆~
汐野悠翔
歴史・時代
「俺はお前に見合う男になって必ず帰ってくる。それまで待っていてくれ」
身分という壁に阻まれながらも自らその壁を越えようと抗う。
たとえ一緒にいられる“時間”を犠牲にしたとしても――
「いつまでも傍で、従者として貴方を見守っていく事を約束します」
ただ傍にいられる事を願う。たとえそれが“気持ち”を犠牲にする事になるとしても――
時は今から1000年前の平安時代。
ある貴族の姫に恋をした二人の義兄弟がいた。
姫を思う気持ちは同じ。
ただ、愛し方が違うだけ。
ただ、それだけだったのに……
「どうして……どうしてお主達が争わねばならぬのだ?」
最初はただ純粋に、守りたいものの為、己が信じ選んだ道を真っ直ぐに進んでいた3人だったが、彼等に定められた運命の糸は複雑に絡み合い、いつしか抗えない歴史の渦へと飲み込まれて行く事に。
互いの信じた道の先に待ち受けるのは――?
これは後に「平将門の乱」と呼ばれる歴史的事件を題材に、その裏に隠された男女3人の恋と友情、そして絆を描く物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる