上 下
26 / 46
第二部 関東争乱

23 風は武蔵野へ 下

しおりを挟む





「現在、河越の黄備えは動かせぬ。これは確認の意味で申し上げた……で、今、小田原にいる綱高どのの赤備え、元忠どのの黒備えは動かせまする」
「ちょっと待ってくれ、金石斎」
 氏尭が発言を求めた。
「今、赤備えに征かれてしまっては、小田原は空っぽになるぞ。いくら何でもそれは……」
「氏尭、それも考えてある」
 氏康は金石斎に断りを入れ、発言した。
「先の舟戦で舟を失った水主たち、これを城に入れて、城兵としてくれ……舟ができるまでの間は」
「え……」
「それで給金を払ってやってくれ。さっきの水主たちの『扱い』とやらは……そういうことなのだろう?」
「そ……そうです! 舟が無いと暮らしが成り立たないと苦情が来ていて……ありがとうございます、兄上」

「うほん」
 氏尭のとなりで、金石斎は咳払いをし、場の様子を見て、また説明をつづける。
「……それでは、赤備えと黒備えはこれでよし。で、白備え、清水小太郎吉政どのは、先の話のとおり、駿河へ行っているため、これは殿が直々に率いておる。ゆえに動かせまする」
 おれが率いるのは小太郎が戻るまでの間だ、と氏康は付け加える。
「そして、青備えじゃが……これは動かせぬ。理由はいくつかあるが……まずは里見家。これは鎌倉と佐倉で退けられたものの、まだ何か企んでおるやもしれぬ」
 さもありなん、と風魔小太郎がうなずく。

「あとは……北条の領内の兵を、すべて河越に持っていくというのも考え物じゃ、ということ。里見家以外の大名が何かしでかすかわからんし、それは関東の外からかもしれぬ。また、武田と今川とは同盟和睦しているとはいえ、油断はならん」
 ほかに、治安維持の問題や、予備兵力として、最後の最後まで取っておいた方が良いと金石斎は述べて……終わりに、こう言った。
「……そういうわけで、あとは宗哲どのが帰ってくるとして、その兵も入れて、動かせる兵は、しめて八千」

「八千……」
 関東管領、いや、今となっては古河公方が率いるとされている、河越城包囲軍は、号して八万。
 対するや、北条方は八千。実に、十倍近くの兵を相手しなければならない。
「……きついな、おい」
 綱高はこぼしたが、彼とて赤備えを率いる第一線かつ第一級の将帥である。北条家の現状からして、八千が限界だということは理解していた。

「……そうすると」
 左馬助が発言を求めた。
「仮に、このままいくさということになれば、河越城兵三千にも動いてもらわねばなりません」
「左馬助の言うとおりだ。何とか河越城内と連絡つなぎを取る方法を考えねば」
 氏尭が風魔小太郎の方を見る。
 しかし、氏康が風魔小太郎を制した。
「待て。今はそもそも、和睦後をどうするかという話をしておる。河越城内への連絡つなぎは、また別の機会に話そうぞ」
「そうです。河越城については、のちほどに致しましょう」
 ほかならぬ、河越にいる北条綱成の実弟である弁千代がそう言うのなら、誰も何も言えない。

 元忠が、話題を元に戻すため、謹直に言った。
「……して、殿。八千の兵をもっていかがなさるおつもりで?」
「うむ。ねらいは、古河公方と和睦後の、扇谷おうぎがやつ上杉との戦」
「おお……」
「先にも言ったとおり、こたびのこと、扇谷上杉が起点だ。今川は望みの河東を手に入れたから、これ以上は何も言うまい。しかし、扇谷上杉はちがう。河越を差し出したら、江戸を。江戸を差し出したら、相模を、と言うてくるに相違ない」
「夢よもう一度、といったところですかな。御大層なことで」
 綱高が皮肉たっぷりに言い、元忠も珍しくとがめもせず、むしろうなずいて同意した。

「むろん、扇谷上杉がこれ以上は求めない、というか扇谷上杉にわがままを言って進撃する余力が無い場合、関東諸侯への調略を試みる。調略に応じなければ、八千の兵をもって攻略する」
 氏康は扇谷上杉家を含め、関東諸侯を各個撃破するという方針を示した。
 たしかにこれなら、八千の兵でも足りる。
 足りるどころか優勢に持ち込むことができる。
 場に居る家臣一同、氏康の方針に賛同の意を示した。
「……では改めて、命を下す。北条綱高の赤備え、多目元忠の黒備えは進発する。これに、おれの直属の兵と、おれが清水小太郎吉政より託された白備えを合流させ、その上で出陣する」
「御意……腕が鳴るねぇ」
「しかと、承りました」
 綱高と元忠は、連れ立って退出していった。竹馬の友らしく肩を並べ、そして堂々と歩いていく。

「つづいて、氏尭と根来金石斎、申し訳ないが、また小田原で留守居を頼む。これは、先ほどの水主たちとのからみもあるので、二人に頼みたい」
「承知いたしました。でも、次は連れてってくださいよ」
「かしこまってござる」
 氏尭と金石斎は、早速、水主たちのところへと、むしろ速足で去って行った。

「弁千代は、おれについてくるように。今まで通り、そばにいて働いてくれ」
「承知仕りました」
 弁千代は礼儀正しく一礼する。
「左馬助」
「は」
「では、改めて小田家中、菅谷貞次どのへ、古河公方への和睦の取り成しを頼む。おれの書状が必要と言うことなら、どういう文面が良いか教えてくれ。すぐに書く」
「了解いたしました。では、下書きを書いて、改めて参ります」
 左馬助は鋭く一礼して、退出した。

 後に残った風魔小太郎は、氏康の前で黙然と座っていた。
「……風魔小太郎よ」
「は」
「じい様からつづく、あの『約定』、おれは忘れていない。今回、果たせないにしても、必ず果たす。おれがだめでも、おれの子が果たす」
「……別に言葉にせずとも、分かっておりますゆえ、お気になさらず」
「感謝する。では、出陣後、北条勢の所在は、古河公方や両上杉に気取られぬようにしたい。頼めるか」
「安んじてお任せあれ」
 返事をした瞬間、風魔小太郎は煙と消えた。
「……忍法と申すのでしょうか。いつ見ても不思議ですね」
 弁千代が歎息たんそくした。
「忍法、照れ隠しだな」
「え?」
「あの小太郎は、褒められたり頼りにされたりすると、いつもああ消えるからな」
「そうなんですか?」
「まあな」
 氏康はそこで伸びをひとつする。

 季節は秋から冬へ移り、厳しい寒さが関東全域を襲っていたが、相模の野山にも、木々が芽吹き、獣たちも、ちらほらと見えてきている。
 厳しく、長い冬も終わりつつある。
 だが、だからこそ河越の古河公方や関東管領、関東諸侯の動きも鈍っていよう。
「孫九郎……」
 氏康は、年来の兄弟であり、親友であり、そして戦友である北条孫九郎綱成のことに思いをせるのであった。



 同じ頃。
 北武蔵。
 河越城外。

「なぜじゃ……なぜ、誰も軍議に来ぬのじゃ」
 古河公方・足利晴氏は荒れていた。
 古河公方着陣の報に湧いた関東諸侯であったが、今ではすっかり自陣にこもり、何かと理由をつけては晴氏に会うのを避けていた。

 理由は、晴氏が着陣早々「総攻めである」と号令を下したからである。
 山内上杉憲政、扇谷上杉朝定ともさだは乗り気であったが、その他の関東諸侯、藤田、大石、成田、上田らは消極的で、総攻撃には賛同できない意向を示した。
 泡を食ったのは太原雪斎で、彼は諸侯の陣へ足を運んだが、その諸侯自身が単身、正月に領国へ帰ってしまい、まだ帰陣していないと言われてしまった。
 晴氏は怒気を発し、こうなれば山内上杉、扇谷上杉だけでも攻撃すべしと息巻いた。そしてその軍議を開催したにもかかわらず、誰も来ないという憂き目を味わっていた。

「雪斎禅師、こはいかなることぞ? たれに会おうとしない。関東諸侯はまだいい。しかし、山内上杉と扇谷上杉が来ないのは、なぜじゃ?」
 雪斎はがらんとした晴氏の陣内を見て、歎息たんそくした。
「山内の方は、国元の上野こうずけより、家宰の長野業正なりまさどの嫡男・吉業よしなりどのと共に着陣し、陣中を切り盛りし始めましてな」
「なんと。あの上州の黄斑とらと名高い」
「左様。その業正どのが、包囲のみで勝てるのなら、このままで良し、と言われましてな」
 それは雪斎が開戦当初から述べてきた策であるため、雪斎はそれ以上、何も言えなくなってしまった。

「……それなら、扇谷上杉はどうなのだ」
「扇谷上杉は……」
 家宰である難波田なばた善銀もまた、長野業正と同じく包囲維持で良いと考えていたため、やはり総攻撃には積極的ではなかった。当主の扇谷上杉朝定や馬廻りの曽我神四郎は攻撃への意欲を示したが、扇谷上杉軍で最も経験豊富な太田全鑑が、主戦論を愚として断じ、朝定の怒りを買ったため、「病気」と称して自陣にこもってしまった。
「……つまり、混乱しており、とても軍議には来られない、と」
「いかさま左様」
 晴氏はうなだれる。

 せっかく、自分が出てきたのに。
 このまま、河越をとし、そのまま南下すれば、関東は手に入るのに。
 そうすれば、関東は思いのまま。
 恩賞など、好きなだけ与えよう。
 そして、関東を制したら、次は西。
 京に上り、天下に覇を唱えるのだ。

「……だというのに、なぜ、誰も来ぬのじゃ。今、すぐそこに栄耀栄華の入り口があるというのに」
 そういうことを言っている折に、小田政治が菅谷貞次を伴ってやって来た。
「失礼いたす」
「……ご苦労」
「公方さま、本日、小田政治儀、まかり越しましたのはほかでもござりません」
「なんじゃ」
「こちら小田家の臣、菅谷貞次でござりまするが、こたびの戦を終わらせる妙手を示さんと申し、ぜひ公方さまにお聞きいただきたいと」
「……そうか」

 足利晴氏と小田政治の関係は微妙だった。互いに足利の血筋ではあるが、お互いは疎遠であり、一方は「古河公方」であるが、一方は「将軍の叔父」である。どちらがえらいということを揉めることは無かったが、晴氏の野望は天下であるため、政治は潜在的な敵と言えた。
 政治の側からすると、今回の戦いは小田家の勢力伸長のための戦いであり、彼としては河越をとせれば良く、それにより北条家の勢いをぐことができれば満足であった。それも、兵を損なうことがなければ、言うまでもない。

 ――だから、北条家の使者・諏訪左馬助による河越開城の提案は、渡りに船であった。






風は武蔵野へ 了
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

【短編】輿上(よじょう)の敵 ~ 私本 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今川義元の大軍が尾張に迫る中、織田信長の家臣、簗田政綱は、輿(こし)が来るのを待ち構えていた。幕府により、尾張において輿に乗れるは斯波家の斯波義銀。かつて、信長が傀儡の国主として推戴していた男である。義元は、義銀を御輿にして、尾張の支配を目論んでいた。義銀を討ち、義元を止めるよう策す信長。が、義元が落馬し、義銀の輿に乗って進軍。それを知った信長は、義銀ではなく、輿上の敵・義元を討つべく出陣する。 【表紙画像】 English: Kano Soshu (1551-1601)日本語: 狩野元秀(1551〜1601年), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

百代の夢幻

蒼月さわ
歴史・時代
源九郎義経は軍勢に囲まれて今まさに短い生涯を終えようとしていた。 その間際に昔の記憶が甦っては消えてゆく。 自害しようとする義経の前に現れたのは、怪異だった…… 夢と現が重なりあう。 誰が見ているのだろう。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

戦国ニート~さくは弥三郎の天下一統の志を信じるか~

ちんぽまんこのお年頃
歴史・時代
戦国時代にもニートがいた!駄目人間・甲斐性無しの若殿・弥三郎の教育係に抜擢されたさく。ところが弥三郎は性的な欲求をさくにぶつけ・・・・。叱咤激励しながら弥三郎を鍛え上げるさく。廃嫡の話が持ち上がる中、迎える初陣。敵はこちらの2倍の大軍勢。絶体絶命の危機をさくと弥三郎は如何に乗り越えるのか。実在した戦国ニートのサクセスストーリー開幕。

画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ
歴史・時代
 米村誠三郎は鳥取藩お抱え絵師、小畑稲升の弟子である。  文久三年(一八六三年)八月に京で起きて鳥取の地に激震が走った本圀寺事件の後、御用絵師を目指す誠三郎は画技が伸び悩んだままで心を乱していた。大事件を起こした尊攘派の一人で、藩屈指の剣士である詫間樊六は竹馬の友であり、その処遇が気掛かりでもあった。  幕末における鳥取藩政下、水戸出身の藩主の下で若手尊皇派が庇護される形となっていた。また鳥取では、家筋を限定せず実力のある優れた画工が御用絵師として藩に召しだされる伝統があった…… ーーその因幡の地で激動する時勢のうねりに翻弄されながら、歩むべき新たな道を模索して生きる若者たちの魂の交流を描いた幕末時代小説であります!  作中に出てくる因幡二十士事件周辺の出来事、また鳥取藩御用絵師については史実に基づいております。 1人でも多くの読者に、幕末の鳥取藩の有志の躍動を知っていただきたいです!

北海帝国の秘密

尾瀬 有得
歴史・時代
 十一世紀初頭。  幼い頃の記憶を失っているデンマークの農場の女ヴァナは、突如としてやってきた身体が動かないほどに年老いた戦士、トルケルの側仕えとなった。  ある日の朝、ヴァナは暇つぶしにと彼の考えたという話を聞かされることになる。  それは現イングランド・デンマークの王クヌートは偽物で、本当は彼の息子であるという話だった。  本物のクヌートはどうしたのか?  なぜトルケルの子が身代わりとなったのか?  そして、引退したトルケルはなぜ農場へやってきたのか?  トルケルが与太話と嘯きつつ語る自分の半生と、クヌートの秘密。  それは決して他言のできない歴史の裏側。

満月に飛んだ曾お祖父ちゃんの零式艦上戦闘機 ~時を越えて~

星野 未来
歴史・時代
 曾お祖父ちゃんの祖国、日本へやってきた「サクラ」だったが、日常に疲れビルの屋上から飛び降りて自殺しようとしていた。ふと、見上げると綺麗な満月が見える。  そして、父と祖父から伝え聞いた、あの曽祖父の『零戦』の話。太平洋戦争時に起きた奇跡の物語が今、始まる。  あの満月の夜にブーゲンビルで「タマラ」が見た曽祖父の『零式艦上戦闘機』。それは、「タマラ」と「サクラ」を、国と時代を超えて結びつけた。  「サクラ」はそのまま、ビルから飛び降りて、曽祖父の元へ旅立つのか?  「自殺と戦争」、「日本とブーゲンビル」、「満月と零戦」……。  時間、場所、人種、国籍、歴史、時代が遠く離れた点と点が繋がる時、 一つの命が救われる…。あなたの手で…。  国と時代を超えた、切なくも希望に満ちた歴史ファンタジー。  あの曽祖父の操縦する『零戦(ゼロ戦)』が、ひ孫「サクラ」の人生を救う……。

処理中です...