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第二部 関東争乱

22 風は武蔵野へ 上

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 むさし野と いづくをさして 分け入らん 行くも帰るも はてしなければ

 北条新九郎氏康






 小田原城内。
 城主の間。
 現在、城主たる北条新九郎氏康が一時帰国したため、入城するにはしたが、彼は休憩のいとまもなく、ここ、城主の間に入り、主だった家臣を招集した。
 来城した家臣は、実弟の北条氏尭うじたか、根来金石斎、北条綱高、多目元忠、風魔小太郎、そして諏訪左馬助さまのすけである。

 氏康は、乳兄弟の清水小太郎吉政と、叔父の北条宗哲(北条幻庵)、そして義兄弟の北条孫九郎綱成がいないことを寂しく思ったが、それを振り切るように、言った。
「皆の者、大儀」
 家臣の足労をねぎらうと、早速、小姓の弁千代に地図を用意させ、自らも含めて、全員でその地図を囲んだ。
「元忠、状況の説明を頼む」
 北条五色備えのうち、黒備えを率いる多目元忠が、一礼してから発言する。
「現在、当家は河東(駿河東部)を今川に割譲し、その代わりに今川と和睦。この和睦は武田の肝煎りのため、武田との甲相同盟は維持されているとみなしてよかろうかと」

 氏康がうなずくのを見てから、元忠は話をつづける。
「この和睦を元に、氏康さまは河東より戻り、河越へ向けて北上するつもりであったが、里見の横槍が入った」
 横「槍」と「槍」大膳をひっかけたわい、と金石斎は笑う。元忠は別に受けを狙ったわけではないので、こほん、と咳払いをしてからつづけた。
「……海を越えて、鎌倉へ寄せてきた里見義堯。これは、殿の指示により、氏尭さまの水軍を犠牲にして、里見水軍を撃破」
 撃破は良いが、水主かことかの扱いがなぁ……と氏尭はこぼした。新九郎が目配せしたため、何か考えてくれてる合図と思い、氏尭は黙った。

「一方で、陸に上がった義堯と兵を、赤備えが翻弄し、これを生け捕りにした」
 逃げるふりはきつかったなぁ、と赤備えを率いる綱高は、わざとらしく手で顔をあおぐ。元忠はじろりと睨んだだけで、特に何も言わなかった。
「……生け捕りにした義堯については、これを放逐。これは、白備えの清水小太郎が連れて来た、今川義元公の肝煎りによるもので、向こう一年間は舟戦ふないくさは無いと思われる」
 でも小太郎さまは義元公と一緒に行っちゃったんですよね……と弁千代は寂しそうに言った。
 元忠は、これには反応を示した。
「弁千代、仕方のないことだ。そのうち戻る」
 内海(江戸湾=東京湾)における治安維持を担っていた北条水軍と里見水軍が壊滅状態になったため、北条家は今川水軍を招き入れた。その具体的な打ち合わせにおいて、北条水軍伊豆衆の代表として、清水小太郎吉政は駿河へと向かっていったのである。

「…………」
 綱高の視線を感じ、元忠はまた説明に戻る。
「……で、江戸から、青備えの富永直勝から書状が届いた。まず……下総千葉家の佐倉城を、里見家の槍大膳が攻めかかったとのこと」
 やはりな、と氏康は歎息した。里見家もまた二手に分かれ、常山の蛇を体現してみたのだろうが、少なくとも青備えが江戸にいる限りは、何とかなるだろう……と思ったが、直勝の書状は意想外の内容がつづいた。
「ここで、武田家より遣わされた原虎胤どの、そして真田幸綱なる者両名が、河越の綱成どのの依頼によるとして江戸に参上。そして幸綱どのは武蔵千葉家の石浜城を調略、つづいて虎胤どのは槍大膳を一騎打ちにて退しりぞけた、とのよし
 おお、と一同から感歎の声がもれた。

「あの、江戸の目の上のたんこぶだった石浜城を調略するとは、やるじゃないか」
 綱高は素直に感心して、しきりにうなずく。
「原美濃守虎胤……鬼美濃どの、さすがの強さでござりまするな」
 風魔小太郎は、是非拝見したかった、と呟いた。
「しかし」
 ここで弁千代が言う。
「鬼美濃……虎胤どのは、父を討ったと聞いていますが、それが――兄上の、依頼を」
「弁千代」
 氏康は弁千代の動揺を思い、優しく語った。
「孫九郎はな、父・福島正成を討った相手を今は恨んでいない。むしろ、父の好敵手として、正々堂々と戦ってくれたと言っていた。だから弁千代も気にするな。大体、会ってもいない相手を恨んでどうする?」
「それは……」
「まあ、弁千代も会ってみたらどうだ? 鬼美濃に。今は無理だが、いろいろと片を付けたら。そしたら、孫九郎の言わんとするところが分かるんじゃないか?」
「……はい」
 弁千代がうなずいたのを見て、氏康だけでなく一同、ほっとしたような表情をした。
 それだけ、周囲に、気にかけるようにさせてしまう少年である。

「さて」
 元忠が仕切り直す。
「河越についてだが、これは、綱成どの、大道寺盛昌どの、山中主膳どのの籠城がつづいておる。城兵は、しめて三千。これに対するや、関東管領・山内上杉ならびに扇谷おうぎがやつ上杉、そして関東諸侯連合軍八万である」
 元忠をふくめ、全員が悔しそうに顔をゆがめる。
「……そして、かねてから危惧されていた、古河公方の出陣。これが実現してしまい、われら北条は、関東において、公方さまに逆らう逆徒という立場に……あい成った」
「…………」
 古河公方、あるいは関東公方は、京の室町の公方・征夷大将軍が日本全国を一人で治めるのは困難、ということで設置された、いわば関東地方における征夷大将軍である。これに逆らうということは、形式上、幕府に逆らう逆徒という扱いとなる。

「ふむ」
 氏康は、静まり返った一同を見て、雰囲気を変える必要を感じた。
「では……左馬助、おぬしの出番じゃ」
「は」
 左馬助以外の者たちの視線を浴びて、若い左馬助はしかし、臆することなく言上した。
「拙者、諏訪左馬助……こたび、長久保にて今川、武田との『詰め』により来られない北条宗哲さまに代わって、この場に参上つかまつった。よろしゅう」
「その古河公方が出てきたことが、むしろ吉と出るかもしれん。のう、左馬助」





 風は武蔵野へ





「こたびの戦、今川義元公の発案によるところが大きいが、発端は扇谷おうぎがやつ上杉にある」
 氏康は、地図上の伊豆・相模にあたる部分に指を置く。

「扇谷上杉は、じい様(伊勢宗瑞=北条早雲)の頃より、伊豆・相模の南から北へと押しやられてきた。父上(北条氏綱)は江戸、河越と攻め、とうとう扇谷上杉は、武蔵松山城を残すのみ、しかもその松山も危うい、という具合だ」
 氏康の指は、地図の上の方へと滑り、北武蔵の松山のあたりの上に置かれた。

「つまり、扇谷上杉には後がない。それゆえの、こたびの戦。山内上杉には、まだ上野こうずけがあるから、実はやる気がないと見た。他の関東諸侯に至っては、なおさらだ」
 松山から河越へと氏康の指が動く。
「逆に言えば、扇谷上杉は、ほぼ和睦に応じることが無いだろう。孫九郎は山中主膳を介して、扇谷上杉の家宰・難波田なばた善銀と交渉しているようだが……」
 まあ、応じるのであればそれに越したことはない、と氏康は歎じた。

「最初は関東管領である山内上杉との和睦を考えたが……山内上杉と反目している扇谷上杉が、その和睦に従うというのは考えがたい」
「実は宗哲さまも、当初は山内上杉との交渉を考えておられたのです」
 ここで左馬助が発言する。彼はつづける。北条宗哲は、自身が駿河にいて動けないため、懐刀である左馬助に、山内上杉との交渉の実務を命じた。
 左馬助は、手探りで山内上杉との交渉の糸口を見つけようと努力し、その末に常陸ひたち小田家の家臣・菅谷貞次との接触に成功する。
 常陸小田家当主・小田政治は、かつての堀越公方・足利政知の子であり、現将軍・足利義晴からすると、叔父にあたる。

「おい。すると……小田との伝手ができたってことは、征夷大将軍の叔父との伝手ができたってことか」
 綱高は膝を打つ。
「つまり、古河公方・『足利』晴氏に対する、うってつけの口利きということか」
 元忠もうなずく。
 金石斎はにこにことして、話題に聞き入っている風だった。
 その横で、氏尭が、左馬助の奴、やるなぁと感心していた。氏尭と左馬助、そして弁千代は、ほぼ同世代ということもあって仲が良かった。

「ふむ」
 氏康がひとつうなずくと、皆、静かになった。このあたり、さすがに当主としての貫禄、そして彼の戦績がものを言った。
「で、扇谷上杉と関東管領・山内上杉ではなく、一足飛びに、直に古河公方に和睦の交渉をする。これを左馬助に任せたい」
「承知つかまつりました」
 左馬助はうやうやしく一礼した。
「けれど」
 そこへ弁千代が口をはさんだ。
「なんだ、弁千代。不服か? 安心しろ、おれがお前の兄上の助命をもぎ取って見せる」
 左馬助は、若者らしく、気概に満ち、拳で胸を叩く。
「いや、そういうことではなくて、私が気にしているのは、和睦が成り立った後……河越を開城した後をどうするかを決めておいた方が良いかと」
 今度は氏尭が膝を打った。
「これは一本取られたな、左馬助。弁千代の言うとおりだ。左馬助が成功した後、どうするかは考えておかないと」
「そうか……取次をどうしてもらうかばかりで……そこまでは至らなかった。やるな、弁千代」
 氏康や綱高、元忠、金石斎は微笑してうなずき合った。
弁千代、氏尭、左馬助……この三人の若者は、氏康をはじめとする現役の将たちからは、北条家の将来を背負って立つ若者たちと期待されていた。

 氏康は金石斎をちらと見ると、金石斎は得たりかしこしと笑った。
「……よし、弁千代の発言、至極もっともである。では、金石斎、今と、そして今後を見据えての兵をどうするかを説明してくれ」
「は」
 金石斎は地図に目を向けるよう一同に促し、説明に入った。





(つづく)
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