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第二部 関東争乱

16 いざ鎌倉 下

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 一方の海上の里見義堯よしたかは、太原雪斎からの書状をためつすがめつ眺めていたが、そのうち飽きたのか、投げ捨ててしまった。
 船底で、かさこそと揺れる書状にもはや関心はなく、舳先へと向かい、大音声で命令した。
「よいか! われら、これより鎌倉へ入る! 内海のぬるい北条水軍など、蹴散らしてやれ!」
 おお、と、それぞれの舟の水主かこが、腕を振るってこたえた。
 満足した義堯は、そのまま進軍を命じた。

 義堯の父・実堯さねたかは、従兄である当主の義豊の命令に従い、部将として、かつてこの鎌倉へ攻め入ったことがある。それが大永鎌倉合戦だが、その合戦で、鶴岡八幡宮を焼失してしまい、里見家の権威は落ちた。
 結果、義豊の権力は低下し、実堯の発言権が増す。事態を憂えた義豊は、実堯を暗殺してしまう。義堯にもまた、義豊の手が伸びてきたところを、北条氏綱からの援軍を得て退け、そして里見家の家督を手中にする。しかしその直後、義堯は氏綱と手を切り、里見家は北条家と敵対することとなった。

「……あれから、里見は房総の覇者となった。今こそ、あの鎌倉を奪取して、雪辱を果たす時、か」
 義堯は、船底に落ちている雪斎の書状を横目で見て、そして失笑した。
「ばかが。鎌倉で失敗したのは、義豊よ。父・実堯さねたかや、おれではない」

 利用されてたまるか。
 長広舌おしゃべりやからが、いきがるな。

 戦国という荒波を泳ぎ、一雄として名乗りを上げた男にとって、雪斎はただのおしゃべりがうまい禅僧であり、それが関東管領だの扇谷おうぎがやつ上杉だのという旧勢力の都合に乗っかっただけに過ぎないのである。
「……だが、いつまでも里見が鶴岡八幡宮を焼いた、と言われるのはしゃくだ。この際、その口車に乗ってやるが……里見を甘く見るなよ、雪斎坊主」

 内海(江戸湾=東京湾)は里見がもらう。
 だが、それだけでは済まない。

「殿、北条水軍が来ます!」
「結構。北条を蹴散らしたのちは、そのまま陸に上がるぞ。ぬかるなよ!」
「応!」
 力強い返事に満足し、義堯は来たるべき海戦に意識を集中させた。



 北条綱高は、北条氏康の指示により、稲村ヶ崎の周辺にて、赤備えの軍勢を右へ左へと、あちらこちらへと動かしていた。
「綱高さま」
「なんだい」
「このような……うろちょろとした行軍、みっともないのでは?」
「だからいいのよ」
 赤備えの猛将と聞こえの高い綱高だったが、実際の彼はざっくばらんとしており、結構くだけた感じで人と接していた。このあたり、同門であり同朋である多目元忠とはちがっていて、普段の平服である綱高を、知らずに出会った人は、町人かと思うことが多い。
「あの、里見の義堯の旦那が陸に上がったところを、赤備えウチがやっと見つけましたっていう感じでいきたいんだよ。いいか、右往左往っぷりを見せつけるぜ」
「はあ……」
 その武将はしぶしぶという感じで引き下がった。綱高が赤備え全体を見回すと、全員、そういう感じだった。

 いいぞ、と綱高は思った。
 このやる気のなさが、新九郎の打つ大芝居の役に立つ。
 あいかわらず、面白いことを考える奴だ。

 綱高は北条の名乗りを許されたとき、同時に氏綱の子という扱いを受けることになった。そのため、氏康や綱成、小太郎、氏尭うじたかの兄貴分という存在となり、よく小田原の町や鎌倉の古刹に、遊びに行った仲である。
「……綱高さま、里見水軍、陸を目指して進み出しました」
「やっこさん、ついにお出ましかい? で、氏尭の奴……じゃない、氏尭どのは?」
「横合いから、来ます!」
「よし、者ども、つづけ! へっぴり腰でな!」
「はあ……」
 綱高は猛将という枠に収まらない、柔軟さをあわせもっていた。竹馬の友の元忠に言わせれば、柳のようであり、しなった柳の反動が恐ろしい、という感じであった。



 北条新九郎氏康は、海に北条氏尭、陸に北条綱高を配し、自身は小田原よりの荷駄を率いて、鎌倉へと迫っていた。
「奥方さまには会わなくてよろしいので?」
「……河東に行った兵たちが戻ったのなら、会うさ」
 弁千代の心配に、氏康は正論でこたえた。そして氏康は、何か思うところがあるのか、常の彼らしくなく、ため息をついて馬を走らせていた。
 弁千代は、これからの作戦について不安があるのかと思い、それ以上何も言わなかった。
 しばらく馬を走らせていくと、横合いに青く輝く海が広がってきた。潮のかおりもかすかににおう。
 まぶしさに目をしばたたかせながらも、弁千代の目には、数百もの舟の集団を捉えた。
 舟の集団はふたつ。
 すなわち、北条・里見双方の水軍である。
 両水軍は次第に次第に接近し、そして戦いの火ぶたを切る光景が、弁千代の目に映ってきた。



「義堯さま! 北条が仕掛けてきました!」
「あわてるな! 上陸のふりに騙されて、いきがって突っ込んできただけだ。いなしてやれ。そして里見の水軍には二度と逆らえぬ、と思い知らせてやれ!」
 鎌倉近海では、ついに北条氏尭率いる水軍が、里見水軍の上陸の様子に誘われて、攻撃に入った。
 しかし、外海(太平洋)において鍛え上げられた里見水軍には及ばず、次第に打ち払われ、徐々に撤退に入った。
 うのていの北条水軍に、里見義堯は半ば呆れた。これほどまでに情けない戦いぶりをするとは思っていなかった。義堯は、これなら里見水軍全軍で来ることもなかったかと後悔して、思わずつぶやく。
「今は亡き北条為昌が見たら、なげき悲しむぞ」
 北条為昌とは、氏康、綱成の弟であり、氏尭の兄である人物で、かつて北条水軍を率いて、里見水軍に勝ったことのある男である。しかし、現在は鬼籍に入っており、為昌の陸の戦力は綱成が、海の戦力は氏尭が引き継いだ。
「これなら大膳がいなくとも、問題はなかったな」
 里見家重臣であり、正木水軍を率いる正木大膳は、今は別行動のため、いない。鎌倉は「先代」義豊の失敗であるため、今代の義堯が出る必要があると考えたため、義堯が直に水軍を統率して、来ていた。
「……まあ、いい。北条水軍はあらかた追っ払ったか?」
「はい、見てください。もうあんなところまで逃げましたよ」
「そうか」
 義堯の目に、焦って大将である氏尭まで舟を漕いでいる姿が見え、もうあれは駄目だな、と感じられた。
「……よし、当初の目論見どおり、鎌倉へ入る。わかっていると思うが、火付けや略奪は禁ずる」
「は。以前の二の舞は御免ですからね」
「そういうことだ」

 里見水軍、いや今は里見軍は、稲村ヶ崎への上陸を終え、これから鎌倉市街突入に取りかかる段階にあった。
 そこへ……のこのこと……北条綱高が赤備えを率いてやってきたのである。
 里見軍は、義堯自ら弓を引き、赤備えへの初撃を打ち込む。
 対する赤備えも矢を放ち、矢合わせの、ようなものが始まった。
 そうこうするうちに、綱高の眼前の砂地に、義堯の矢が刺さるという瞬間があった。
「うわっ」
 綱高のわざとらしい叫び声が合図となって、北条赤備えは一目散に逃げ出した。
「なんだ、あれは」
「あれでも赤備えか」
「あれか……北条の一門ということで」
「ああ……縁故ってやつか」
 里見の兵たちは、どっと笑い出した。
  里見の者たちにとって、北条は領土である三浦半島をろくに守れない、惰弱な大名という認識がある。水軍で勝る自分たちこそが、内海の覇者であり、北条は港となる土地をたまたま占有しているに過ぎない。強いのは自分たちだ……と。
 だが、里見義堯はちがった。
「面妖だぞ。あれは何か……誘っているのではないか」
「と、申しますと」
「そうだな……伏兵とか」
「おお……では、いかがいたしますか」
 義堯は考える。

 このまま進軍するのはうまくない。
 さりとて、ここまで来た以上、鎌倉に進まないことには、太原雪斎に対して言い訳ができない。

 そこまで考えたところで、今度は義堯の目の前の砂地に、矢が刺さった。
「何?」
「おうい、里見の衆!」
 何と、赤備えの北条綱高が、おっとり刀でこの場に戻ってきていた。
 綱高は大音声で義堯に言う。
「どうしたどうした、伏兵が怖いのか? ならそれでいい。鎌倉に入られて、『また』鶴岡八幡宮を焼かれたら、困るからな!」
「……放っておけ。どうせ言われると分かっていたことだ」
 義堯は家臣や兵たちに自重を求めた。
 だが、次の綱高の台詞が、義堯自身の自重を粉砕した。
「……まあ、先代の義豊公はまだ、市中に攻め入るだけ器量があったが、今の義堯の旦那は度胸が無くて、それもできない腰抜けみたいだがな!」
「…………」
 里見軍の者たちは、義堯が沈黙しているのを見て、さすがわが殿だ、罵詈雑言など相手にしないと感歎かんたんしていた。
「……かかれ」
「は?」
「義堯さま?」
「かかれと言うとるのじゃ! かかれ! あのふざけた赤備えを討ち取れい!」
「は……ははっ」
 下剋上により、里見義豊を殺害して、里見家を乗っ取った義堯には、それゆえの泣き所がある。それは、義豊より劣る、と見られる点だった。
 先代・義豊より優れているからこそ、義堯の下剋上は正当化できる。
 義堯はそう信じ、実際、そのように振る舞い、実績を上げてきた。
 それが、軍兵の耳目が集まる中で、こうまで悪しざまに器量が無い、度胸が無いと言われては、立つ瀬がなかった。
 何より、義堯は義豊のことを生前から軽蔑し、嫌悪していたが、それに劣ると言われることは、かなりの屈辱であった。

 義堯は自ら太刀を取り、綱高に向かって吶喊とっかんした。
「死ねい!」
「うわ、わ、とっと」
 綱高も刀を抜いたものの、かろうじて義堯の斬撃をかわし、もたもたと、自陣の方へと後ずさっていく。
「見よ! この口だけの腰抜け侍が! かような者が赤備えとは、北条の威勢も落ちたものよ!」
「……いやいや、お前らを鎌倉に入れさせないだけ、威勢は上がっているのでは?」
「減らず口を!」
 義堯は全軍に突撃を命じた。里見軍の兵とて、主君をばかにされ、鶴岡八幡宮焼失のことを持ち出され、怒り心頭だったため、否やは無かった。
「殿につづけ!」
「あの赤い奴をぶった切ってやる!」
「そのまま鎌倉に入るぞ!」
 綱高は義堯の剣先を逃れるふりをしてかがんだ時、思わずほくそ笑んだ。

 かかった。
 新九郎の言ったとおりだ。
 義堯こいつは、先代を出されると、弱い。

「うわあああ! 助けてくれえ!」
 綱高は義堯にうしろを見せて走り出す。
「あっ、こら待て! 逃げるか! 敵にうしろを見せるな!」
 義堯は太刀を片手に駆け出す。里見軍もつづく。

 彼らは熱中していた。
 綱高を討つことに。
 鎌倉に入ることに。
 汚名を雪ぐことに。

 ……だから、洋上から近づく炎には、気づけなかった。





いざ鎌倉 了
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