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第一部 河東一乱

12 甲斐の虎、相模の獅子、そして海道一の弓取り

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 決断力のない君主は、多くの場合、当面の危険を回避しようとして中立を選ぶ。そしておおかたその君主は滅んでしまう。

 マキャベリ





「……予は、そなたの立場に立ってみて、考えてみた。しかし、河東はどう考えてもあきらめるしかない。そう至った。悪いことは言わない。予が仲立ちをする。河東はあきらめよ」
 武田晴信は、河越放棄による離間策、今川の天下取りのための河東奪還について氏康に話して聞かせた。
 北条新九郎氏康は黙って、晴信の話を聞いていた。そして話が終わると、言った。
「……分かった。あきらめよう」
「おお」
 晴信は少し嬉しかった。氏康が自分の考えに理解を示し、すぐに決断したことが。
 なみの男ではない。
 一代の梟雄きょうゆう、伊勢宗瑞の孫。
 一大英雄、北条氏綱の子。
 やはり、血は争えぬということか。
「なんとなく、考えていることは分かるぞ、晴信どの」
「……何か」
「言っておくが、じい様や父上なら、もっとましな状況になっていたろうよ」
「そうか?」
「ああ。そもそも、聖護院しょうごいん門跡もんぜきを通じて、河東を返せ、と言うてきたときに、即座に返すのはともかく、交渉はすべきだったな」
 今川義元はすぐに弓矢に訴えたわけではなく、事前に京の聖護院の門跡(住職)を通じて、話し合いによる解決を求めてきたのだ。
 しかし、氏康としては、そうおいそれと領土を、しかも祖父・伊勢宗瑞の創業の地・興国寺城をふくむ河東を譲るわけにはいかず、拒否した。

「……あれは今考えてみれば、失敗だった」
「そうやって失敗を認められるだけ、氏康どのは、なみの大名よりはましだと思うがの」
「そう言ってくれると嬉しいが」
「……で、確認するが」
 晴信は話題を戻す。
「河東はあきらめるのだな?」
 本物の山本勘助が、今ごろ、今川義元相手に頑張っている。勘助のあるじとしては、多少は頑張らねば、と晴信は、家来のことを考えていた。少しは。
「そうだな……」
 いつの間にか、年来の友と話すような口調で氏康は晴信と話していた。
「河東はあきらめる。だが、今川にすぐには渡さん」
「おい、今さら」
「そう……晴信どのに河東を預ける。今川に渡すも渡さないも、晴信どのに好きにしてくれい」





 甲斐の虎、相模の獅子、そして海道一の弓取り





「河東を、おれに?」
 晴信もまた、氏康と同じく、いつの間にか馴染なじみの友人と話すように話していた。
「そうだ」
「それはまた、なにゆえ……」
「甲斐には海が無い」
 氏康の直接的な台詞が、晴信の肺腑はいふをえぐった。

 海。
 豊富な魚介類だけではない。
 人が生きるのに必要なもの、塩。
 それが誰にも介さずに手に入れることができる。
 甲斐の国主として、それは逃れられない命題だった。

「それだけではない。河東を今川に譲るとしても、お父上と引き換えにできる」
「うっ……」

 なんてことを言ってくるんだ、こいつは。
 そんな。
 仏陀を惑わした悪魔のような、たわごとを。
 あの父を、あの男を、今度こそ、おれは……。

「河東を今川が『盗ろう』としてきたのなら、北条が援軍を送っても良いぞ」

 すり替えだ。
 『今川が』武田と河東を盗るところを、『武田が』北条と河東を盗ることになっている。
 晴信は、自分が今川と北条の仲立ちをして、双方に「貸し」を作り、今後の外交関係を有利に進めようと思っていた。
 それが、いつの間にか。
 北条が武田に「貸し」を作ろうとしている。
 いや、しかし……。

「くっくっくっ……」
 晴信の仏像のような顔が、いつの間にか笑みを浮かべていた。
「どうめされた、晴信どの」
「……いや、なかなかの妙案だが、詰めが甘いな」
「そうか?」
「とぼけおってからに……河越八万の軍が、信濃・甲斐へ動かんとも限らん」
「……まあ、そうだ。十中八九、無理と思うが」
「その十中の二と一をやりかねんのが、あの今川義元だ」
 ふうん、と何気なさそうにうなずく氏康に、晴信は追い打ちをかける。
「あとな」
「なんだ」
「武田が気に食わんと感じた瞬間に、奴はわが父を甲斐に送り込める。おれが甲斐に戻る前にだ……そうされたら、おれは駿河で孤立よ」
「よく気づいたな」
「…………」
 どこかでこんな白々しいやり取りをしたな、と晴信はひそかに思った。

 氏康はまた片手であごを持ち、黙然として、晴信を見ている。語るべきは語った、というべきか。
 晴信は、そのふてぶてしい態度が、逆に気に入った。
「……やはり、大名同士の『やり合い』は、こうでなくてはな」
「それはどうも」
「だがその法螺ほらで、あの海道一の弓取りに、ひと泡吹かせてやれそうだ」
「……いや、冷や汗がせいぜいだろう」
「かもな」
 氏康と晴信は互いの面識がなかった。しかし、それぞれが、義元に会ったことはある。二人とも、あの、黒く染めた歯で食いちぎられそうな、危ない男という印象では一致している。
「……ふう」
 晴信のため息に、わざとらしく氏康はねぎらいの言葉をかける。
「つかれたな」
 お前のせいだろう、と晴信は思ったが、さすがにこれ以上時間をかけられないと判断したため、言わなかった。
「……まあ、良い。とりあえず、河東は預かった……たしかに、な」
「ああ、せいぜい今川に高く売りつけてくれ」
「分かった」
 武田晴信は、北条氏康という稀有な男との出会いを奇貨として、この場は去ることにした。

 武田晴信。
 やがて武田信玄と呼ばれるようになり、後年。
 今川義元が十中八九のうち、二と一を取られる破目になった、桶狭間のその後。
 海が欲しい、と。
 武田家は南進した。
 ……あのとき、海のことを言わなければ良かったな、と北条氏康はその時後悔しながらも、防衛すべく兵を向けるのであった。



「……それで、その話はいつまでつづくのじゃ?」
「しばらく」
「…………」
 今川義元は、山本勘助の話に飽き飽きとしていた。
 もう最後であれば、どうか聞いて下されと言われ、さすがに無下にするのも無体かと思い、義元はつい「分かった」と言ってしまった。
 それが、これだ。
 勘助は己の前半生について語り出し、そしてようやくのこと、武田晴信との邂逅の幕となった。
「それがし、甲斐守護となるお方とも知らず、ついつい、喧嘩を売って……『はあ?』と……」
「もう、良い!」
 堪忍袋の緒が切れた。
 ここまで付き合えば、もう、いいだろう。
 武田晴信が実は、この陣に戻ってきているのは知っている。

「晴信どの、どこぞにひそんで聞いておるのじゃろう! 今川はもう長久保を攻める! 武田の手は借りん! せいぜい、甲斐をお父上に奪われないよう……」
「……努力するとしよう」
 背後から声をかけられ、義元は瞬時にして怒りを収め、冷静となる。
 ぬるりと、首だけ後方へと回す。
 蛇のように。
「……なんじゃ、そこにったのか」
 これだから、こいつは怖いのだ。
 そう思いながら晴信は目を細めた。
「今、戻ったところよ」
「今、か……まことかのう?」
「まことよ。今、長久保の北条のところから、の」
「……何い?」
 義元の仰天した表情を見て、これだけでも北条氏康に会った価値はあるな、と晴信は笑った。
「……何が可笑しい」
「失敬、義元どのでも、そういう顔をなさるかと思うて」
「……ふん」
 義元は晴信の方に躰《からだ》ごと向き直った。
「聞こうではないか」
「…………」
 何を、とは晴信は言わなかった。
 北条氏康と何を話したのか。
 それを聞こうと言っているのだ。
 この、目の前の大蛇は。



「河東を、譲る?」
「……正確には、予が預かった。この意味、分かるか?」
「む」
 義元の頭に、瞬時に思考が、めぐる。
 河東は今、武田が預かっている。
 下手な真似をすれば、預けた北条と共に、今川に歯向かうということか。
「……面白い。だが、無駄じゃ」
「原虎胤は追い出した。知っておろう」
「…………」
「父上が甲斐に戻っても、果たして、誰が従うと思う?」
「…………」
 晴信の、虎胤「追放」のねらいは、ここにあった。父・武田信虎の股肱ここうの臣たる、原虎胤を甲斐から追い出してしまう。
 そうしてしまえば、甲斐において信虎に従う者はいるだろうか。
 少なくとも、この瞬間、義元にはそう思えた。
 そう思ってしまった。
 ……実は、信虎の威光は、まだ生きている。晴信の小姓ですら、今でも「怖い」と言ってくるぐらいだから。
 晴信一流の、兵法であった。

「……孫子曰く、兵は詭道きどうなり」
「何か言ったか?」
「いや別に」
「…………」
 義元は胡散くさそうに晴信を見つめていたが、やがて、大きく息を吐くと、言った。
「……何が望みだ?」
 かかった、と晴信はほくそ笑むのをこらえ、重々しく答える。
「今川義元どの、北条氏康どの、そして、この武田晴信の三者による鼎談」
「ほう。三人で話をする、というわけか」
「応。事ここに至っては、三人が直に会って話すほかあるまい。何しろ、北条は河東を出す、と言っているのだ。言い分を聞くくらいは、聞いてやってもいいだろう」
「ふうむ……」
「言っておくが、時と場所は義元どのに任せる。こちらは鼎談を持ちかけた立場であるし、北条もそのあたりは、わきまえている」
「左様か……」
 義元はあごを撫でながら、頭をめぐらせる。

 たしかに、力攻めにして兵を損なうより、このまま無血で河東をもらえるのなら、言うことは無い。
 晴信と氏康が何ごとか企んでいるにしても、どう転んでも有利なのはこちらだ。
 話し合ってみる価値はあるか。

「よかろう」
「おお」
 晴信はようやくのこと、緊張を解いた。
 義元はその様子に気付くことなく、時と場所について考えていた。
「かようなことは時を開けると良くないが、予も一晩、頭を冷やしたい。ゆえに、時は明日、正午。場所は……」
 義元はいつの間にか取り出した扇子をひらひらとさせる。
 彼が上機嫌の証拠である。
 こういった催しは、実は好きな方である。

「……そうよの、田子の浦がよかろう」
「田子の浦」
 新古今和歌集、ならびに百人一首。
 その中で、燦然と輝く名歌。
 山部赤人によるその和歌を、晴信は心の中でそらんじた。
「……われらの鼎談。富士の高嶺に証人となってもらうとするかの」
 義元は口元を扇子で覆い、ほっほっほ……と低く笑った。
 勘助はそれを、何か奇異な者を見る目で見ていた。
 義元はやがて笑い飽きたのか、扇子を閉じ、立ち上がった。

「では明日正午、田子の浦にて……晴信どのの陰に隠れている者にも、しかと申し伝えたぞ。あるじにもよろしゅう、の」
 勘助はぎょっとして、晴信の背後を見ると、そこからぼんやりとした黒い影がわき上がり、影は片膝をついて、義元に頭を下げた。
「恐れ入りまする。たしかに、主に伝えましょう」
「うむ。大儀」
 義元は、今度は高笑いを上げて、去っていった。
 唖然としている様子の勘助だったが、影に対して尋問するのは忘れなかった。
曲者くせもの、名を名乗れい」
「……久しいの、山本の」
「なっ、その声……風魔か?」
「応」
 影――風魔小太郎は今やしっかりとした容貌を現していた。山本勘助は、牢人として全国を流浪しているときに、凄腕の草の者とめぐり合ったことがある。

「しかし、あやつは、たしか飛び加藤と……」
「あちらもまあ、生きてござろうよ」
 大したことではない、という風に風魔小太郎は表情も変えずにつぶやく。
 さてどうしたものかと悩んでいる勘助に、晴信が声をかけた。
「積もる話もあろうが、勘助、今はこの者を帰してやれ」
「は、しかし……」
「風魔は、氏康どのが予の護衛に付けてくれたのだ。かつ、鼎談の場と時を伝える命も負っておる。帰してやれ」
「しからば、御免」
「あっ、おい待て」
 勘助が止める間もなく、風魔小太郎は、また影と一体化し、そしていつの間にか、気配を消した。
「……むかしとちっとも変わっとらん。人の話を聞かん。あの時も、助けてやろうと思ったのに」
 勘助はもじゃもじゃの蓬髪を掻きながら、ため息をついた。
 晴信は、それを見て、先刻、氏康に勘助との髪形のちがいを指摘されたことを思い出し、少し笑った。



 同日。
 下総しもうさ国。
 古河こが
 古河御陣こがごじん、あるいは古河御所こがごしょという、古河公方・足利晴氏の本拠地の城。
 太原雪斎は本庄藤三郎を伴い、とうとうここへたどり着き、関東管領・山内上杉憲政と扇谷おうぎがやつ上杉朝定ともさだ連名の紹介状を差し出し、目通りを待っていた。
「なあ、雪斎どの雪斎どの」
「何じゃ、ひとのことを犬か猫みたいにくり返し呼ぶでない、藤三郎」
「あのよ、おれは外で待っていていいか」
「ひとの話を聞けというに……あと、駄目じゃ。ちゃんと古河公方の御前まで、供をせい」
「ええ……」
 藤三郎は、一族の長である本庄実忠さねただはともかく、それ以外の武将、彼に言わせると「何かえらい人」は苦手であった。
 山内上杉憲政はまあ、歯牙にもかけないでくれるから、まだ良い。しかし、倉賀野三河守のように血筋だの、位だのをいちいち主張してくるやからは毛嫌いに値する。
 藤三郎が隙を見て逃げ出そうとしていると、古河公方の近侍とおぼしき侍が現れた。
「公方さまがお会いになるそうです」
「おお。では参るぞ、藤三郎」
「……くっ」
 藤三郎は、ある意味、合戦よりも大きな覚悟を決めて、慣れぬ正装の襟を正して、雪斎のうしろを、そろりそろりと歩き始めた。





甲斐の虎、相模の獅子、そして海道一の弓取り 了
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