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第一部 河東一乱

10 河越と河東と

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 もののふの やたけ心の 一すじに 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ

 仮名草子





「……というわけで、主膳どの、悪いがそれを決めるには、軍議が必要で、それは長引きそうじゃ。後日、追って知らせる故……」
「承知しました」
 扇谷おうぎがやつ上杉の重臣・難波田なばた善銀が汗顔しながら言い、北条の重臣・山中主膳は礼儀正しくうなずいた。
「では、城へ帰って、その旨伝えまする」
「よろしくお願いしたい」
 善銀は自ら主膳の馬を曳いて、城まで同行した。山内上杉をふくめ、他の関東諸侯がうかつをしないためでもあり、善銀なりのけじめでもある。

 ……そして城の前まで来て、城門が開いたとき、その珍事は起きた。

「わっ」
「こっ、こらっ、どこへ行く!」
「お、おら、こんなおっそろしいところ、厭だ! に、逃げる! 逃ぐるぞお!」
 開いた城門から、一騎、腹当はらあてだけ身につけた雑兵が、飛び出して来た。
 突如のこと、主膳は善銀の前に立ちはだかって、彼を守った。善銀は臆病者ではないが、しかし突然の事態に仰天し、その雑兵の姿をろくに見られず、最後に雑兵が駆け去って行ってしまう後ろ姿を見るのみに終わった。
 呆然としていた善銀だったが、主膳に声をかけられ、正気に戻ると、一礼して扇谷上杉の陣へ帰って行った。





 河越と河東と





 山内上杉の陣は、河越城からの脱走兵の出現に騒然となった。
「どうする?」
「捕まえるべきか?」
「城へ戻すか?」
「戻してどうする、城内の様子を聞くべき」
「いやあれは雑兵だろう。何も知るまい」
 誰も積極的に動こうとせず、そして指示すべき諸将も、軍議を終えての一服の最中で、雑兵ひとりの脱走に、わざわざ報告に行くのもためらわれた。

 その中で一騎、陣外から脱走兵に向かっていくものがいた。
「山内上杉の衆! 軍議にてお疲れであろうから、ここはわしがつらまえよう!」
 鬼美濃。あるいは夜叉美濃。そういわれる初老の男、原虎胤が、自称・物見から戻ったところだった。
「それっ、逃ぐるな!」
「わっ、わっ」
 脱走兵のあわてぶりに、山内上杉の兵たちは思わず笑ってしまい、ついには、やんややんやと鬼美濃を応援し始めた。
「それっ、あちらですぞ、美濃さま!」
「いやいや、こちらへ来るやも!」
 脱走兵も知ってか知らずか、あちらこちらへと馬首をめぐらせる。

 そして、気づいた時には、脱走兵は山内上杉の陣の外側へ出ていた。そこで、それっとばかりに駆け出す脱走兵だったが、その首をむんずと虎胤が引っ掴んだ。
「ゆ、ゆるしてくれ……おら、帰りたいだけだぁ……」
「貴様、見るところ足軽のようだが、城の中の様子は何か知っているか?」
「知らねぇだぁ……いきなり連れてかれて、何も分かんないまま、今の今まで……」
 そこまで言ったところで、虎胤は首を離した。そして山内上杉の陣に声をかける。
「山内上杉の衆! こやつはまことに知らないらしい! 帰してやることにする! ただ、間者やもしれぬので、ちゃんと帰るかどうか、拙者が送ってくるので、よしなに!」
 虎胤の申し出に、山内上杉の兵は手を振ってこたえた。本来なら判断すべき将に確認をすべきだが、あまりの事態のくだらなさに、誰もがそれを失念していた。

 ――そして、虎胤は、そのまま山内上杉の陣には帰ってこなかった。

 気づいたのは倉賀野三河守で、彼は翌日になって兵たちにその騒ぎを聞き、虎胤にどうだったかを問いただそうとした。しかし、虎胤の姿がどこにも見当たらず、虎胤の持ち物は乗馬と身につけた甲冑だけだったので、その時点で、虎胤の脱走が、ようやく発覚した。



「首尾よくいきましたな」
 脱走兵――真田幸綱は、腹当を取り、いつの間にか来ていた猿飛から着る物を受け取る。
「――わざわざ、軍使まで派遣してくれたのか、御大層なことだ」
 虎胤は逆に、着ていた甲冑を脱いだ。もう、甲冑を身につけていては、逆に怪しまれる領域まで、二人は来ていた。
「いや、軍使派遣は別の目的で綱成さまが決めまして……拙者はそれに便乗しただけでござる」
「ほう」
「綱成どのは聡いお方のようで……いくさの次は、まつりごとで関東諸侯を揺るがすおつもりだそうで……つまり、さあこれからというときに降伏を申し込んだらどうなるかとお考えのようで……しかも太原雪斎禅師のいないときに」
 その雪斎禅師がいない、というのはお前の推察と献言だろう、と虎胤は思ったが、黙っていた。それより、綱成の成長をまたひとつ知って、それが嬉しかった。あのとき、やはり殺さないで良かった。あの少年が、これほどまでに大きくなるとは……。
「虎胤どの、何か目に涙が……」
「う、うるさいのう。お前が戻ってきて嬉しいんじゃよ」
「はあ……」

「そ、それより」
 虎胤は照れを隠すために、敢えて話題を変える。
「……付いてくる気配。ひい、ふう……ここのつあるが、真田の里から連れてきたのは十人ではなかったのか?」
「正しく九とまで感づくのは、虎胤どのぐらいですよ。お察しのとおり、ひとり、今後の連絡つなぎを河越に残しました」
「ほう。何かあったら佐倉の千葉までひとっ走りしてくれるという寸法か」
「佐倉?」
 幸綱は着替え終わって、馬に乗る。虎胤も甲冑を脱ぎ終わり、愛馬にまたがる。
「千葉の居城は佐倉だぞ? 教えたはずだが?」
「……ああ、いえ、虎胤どの、われらず、江戸に行きます」
「江戸? なにゆえ……」
「ささ、参りまするぞ」
「あ、おい待て」
 幸綱と虎胤は馬を馳せ、そのあとを、猿飛をはじめ、九名の草の者がついて走っていく。



 とっぷりと、河越の日が暮れて、おりしも、季節は秋から冬へ向かっており、すっかり風が冷たくなっていて、そしてその分、月が冴え冴えとしていた。
 山中主膳が復命のため、城主の間へ行くと、そこには北条孫九郎綱成と大道寺盛昌、そして三人目の人物が座っていた。
「風魔、小太郎……」
「お久しゅうござる、山中どの」
 小太郎はさきほどの主膳が城門で出くわした(ことになっている)脱走兵の珍事の隙を突いて城内に入っていた。
「何と、それでは軍使をやったおかげで、一石二鳥、いや三鳥だったということかのう」
 主膳はひげをしごきながら座り、風魔小太郎と久闊きゅうかつじょす。

 綱成は主膳が風魔小太郎とのやり取りを終えるのを待ってから、話しかける。
「主膳どの。お役目ご苦労でございます……で、首尾は?」
「孫九郎どのの読みどおり。難波田どのは狼狽しておる様子。あれは、禅師がおらず、かつ、両上杉が揉めておるのでござろうよ」
「ふむ……真田どのの言うとおり、禅師は古河へ発たれたか。で、主膳どの、難波田どのは何と?」
「後日、と言うてきおった」
 綱成は微笑した。状況は最悪だが、先が読めないわけではない。
「……なら、二、三日待って、また軍使に行って下さるか、主膳どの」
「かまわんが、返事は来ないと見ておるのか、孫九郎どの」
「たとえ禅師がいたとしても、おいそれとは返事は無理でしょう。振り上げたこぶしの持っていきどころが無くなる。何しろ、ことの発端ほったんは、難波田善銀の、扇谷上杉朝定ともさだの居城であった河越の奪還にあります。それがかなってしまったら、八万の軍は、関東諸侯は、分け前にあずかることができない」
 関東諸侯八万の軍は、河越を陥落させ、余勢をって武蔵野を席巻し、できれば相模まで押し寄せ、その領土、田畑、財貨を食い尽くすことが目的である。その出鼻をくじいて、あっさりと河越を明け渡したら、八万の軍は食えないまま終わる。扇谷上杉朝定は河越を「回復した」と称して、誰にも譲らないだろうし、山内上杉憲政は「北条を下した」という名誉に満足して、上野こうずけに帰るだろう。

「……それゆえ、新九郎さまは河越を譲るということを口にされたのでしょうな」
 風魔小太郎があとを引き取る。
「新九郎さまがそのようなことを」
 綱成と盛昌はさきほど聞いたところだが、主膳は初耳である。しかし、話の流れでむべなるかな、と納得した。
「……では、河越を譲るということで手打ちにする、というのは有効でござる。話が成り立てば、犠牲を最小限にできるやもしれません。ぜひ、難波田どのの間で詰めていただきたい」
「かまわないが、よいのか? 孫九郎どのは、それで……」
 主膳は、綱成の将としての誇りをかんがみた。ある意味、無条件降伏をする、と言っているようなものだからだ。
「……かまいません。では、拙者はこれで」
 綱成は短く一礼すると、城主の間を辞し、与えられた居室へ向かっていった。

 しばらくすると、綱成の居室から、笛の音が聞こえてきた。
「……いい調べだ」
 風魔小太郎は目を閉じて、しばし耳を傾けた。
「河越へ来てからこっち、夜はいつもああして無聊ぶりょうを慰めておるらしい」
 盛昌が小太郎に解説する。
 主膳が付け加える。
「何でも、実父の形見の笛で、吹き方も、お父上譲りらしい」
 風魔小太郎はその職務上、綱成の前半生を知っていた。
「もの悲しい音色なのは、そのためなのでしょうな……」
「……いや」
 主膳は声を落として、言った。
「おそらく、孫九郎どのは、城を明け渡したら、責任を取って自害するつもりなのじゃ」
「なんと」
 これは盛昌である。
 風魔小太郎は黙ってうなずく。なるべく音を立てない、忍びの習性によるものだ。
「そこで、盛昌どのに頼みがある」
 主膳の真剣なまなざしに、盛昌も真顔でこたえる。
 主膳は盛昌に頭を下げた。
「……そのときは、このしわ首を差し出す。難波田どのと独断で交渉した、として、城将として、わしを裁いて欲しい」
「…………」
 盛昌の驚愕に、主膳は笑顔でこたえる。
「ええんじゃ、ああいう若い生きのいいのは、これからがある。未来ある者が生きていかんでどうする? それがわし一人の犠牲でかなうというのなら、本望じゃ」
 盛昌は、黙って頭を下げた。そして、そのときは、主膳ひとりを逝かせはしない、とひそかに心誓うのであった。

 ……三日後、山中主膳はふたたび、難波田善銀の元へ向かったが、特に実のある返事をもたらされることはなかった。
 むなしく帰っていく主膳の随従が、ひとり減っていることなど、誰にも気づかれることは無かった。



 河越にて、山中主膳が難波田善銀から空しく返事をもらうことなく、数日後。

 ぬばたまの夜。
 駿河、長久保城内。
 城主の間で、立って、窓からのぞく月を見ている男がいた――北条新九郎氏康である。
「――殿」
「風魔、小太郎か」
 窓の外。
 何故か、上方から響く声に、氏康は自然にこたえた。
 風魔小太郎は、河越で見聞きしたことを氏康に報告する。
 六連銭の男、真田幸綱のこと。
 太原雪斎が古河へ向かったこと。
 河越城明け渡しの交渉のこと。
 そして……北条綱成の思いと、山中主膳の覚悟のこと。
「……そうか」
「……いかが致しますか?」
「だからこちらから河越を捨てる、と申したのにのう……」
 主君である氏康からの申し出であれば、家臣である綱成や主膳はそれに従っただけ、ということになると思っていた。しかし、武人は武人。誇り、あるいは矜持きょうじというものがあるらしい。
「叔父上と、小太郎……清水小太郎、元忠は宿直とのいだから無理か……あ、あと弁千代を呼んでくれないか」
「御意」

 いち早く弁千代が来て、真っ暗な部屋に燈明を灯す。
「誰も入れるなと言われましたが、それなら明かりくらいは自分で点けてください」
「すまんすまん」
 小姓の言うことにも、鷹揚おうようにこたえる。
 良かった、いつもの新九郎さまだ。
 でも……何かちがう。
 何か……心に秘めている。
 弁千代の思いをよそに、どたどたという足音がして、清水小太郎がやって来た。
「おう」
「おう」
 短い受けこたえだが、清水小太郎には感ずるものがあったらしく、それ以上は何も言わなかった。
 最後に、北条宗哲がのそりと入って来た。
「どうした新九郎。終日ひねもす考えたいといって、引きこもって。それで何ぞ思いつい……た、ようだな」
「……うむ」
 氏康は腕組みをしたまま座り、自然と、弁千代、清水小太郎、宗哲、風魔小太郎も輪のかたちで座り、全員で車座となった。
「まず、風魔小太郎どのにはすまないことをした」
 氏康は頭を下げる。
「両上杉を前に、城を明け渡すなどという、約定をたがえるようなことを言って、申し訳ない」
 風魔小太郎は恐縮して、自分も頭を下げる。
「……いえ。やむを得ないことは承知」
 忍びは現実を見ないといけませんからな、と風魔小太郎は付け加えて、微笑んだ。
 弁千代はどういう意味かわからないといった顔をしているが、清水小太郎にあとで教えるとささやかれたため、黙っていた。

「ありがたい。では、ここにいる皆に話したいことがある。実はな、河東と河越、放棄することにした」
 衝撃的な内容を、こともなげに言い放つ。それが北条新九郎氏康という人物の持ち味のひとつであるが、それにしたところで、場にいる面々は、言葉を失ってしまった。
「すまんな、風魔の。言ったばかりで、もうこれだ」
「い、いや……よろしいので? この際、われらとの約定はようございます。それにしたところで……」
 さすがの風魔小太郎も目を白黒させており、その台詞を、何とか衝撃から立ち直った宗哲が引き継ぐ。
「思い切り過ぎじゃろう。戦は始まったばかりじゃぞ。そう早くに逃げを打って、良いのか?」
「始まったばかりで、早くだからこそ、良いのです……叔父上」

 傷が浅いうちに退陣し、余力を残す。だからこそ、敵の余勢を駆った攻撃を未然に防ぐことができる。
「それに、河越の孫九郎の考えのとおり、河越を差し出してしまえば、関東諸侯同盟軍は、名目を失う。名目を無くしたところで、とどまることはないかもしれんが、両上杉の動きは鈍るのではないか。河越を回復したらしたで、それを治める必要がある」
「おい待て新九郎」
「なんだ」
 清水小太郎が氏康に詰め寄る。
「さっきの風魔の報告だと、孫九郎や主膳のおっさんは死ぬつもりじゃねえか。お前……それを知って、河越を明け渡す気か?」
 返答次第ではただではすまんという剣幕で、清水小太郎は氏康をねめつける。
「だからお前たちを呼んだんだ、清水小太郎吉政。そして弁千代」

「……どういうことですか?」
 清水小太郎は苦虫を噛み潰したような顔をして黙っているので、弁千代が聞いた。
「……北条全軍で、北条孫九郎綱成に勝てる男といえば、清水小太郎吉政、あとはおれだけだ。だから小太郎、そのときは、風魔小太郎の案内あないで、河越へ行ってくれ、弁千代と」
「……たしかに武芸じゃ、おれか新九郎だけだな、孫九郎に勝てるのは。つまり……奴が粋がって切腹とかしようもののなら……」
「取り押さえろ。主命だ。場合によっては弁千代を人質としろ」
「……おい、えぐくないか、それ?」
 清水小太郎は思わず緊張を解いて、いつもの調子で氏康に聞いた。
「弁千代はあいつの人質ということで、預かっている……むろん、北条の将として育てるという大前提の上でだが」
「いや、そういうことは分かってるが、それ使うか、普通?」
「兄上を止める、ということなら私は構いませぬが……」
 弁千代は意を決したような表情をしていた。
「でも、河越へ行くのは私だけでいいです。清水小太郎さまは……新九郎さまのそばにいて、支えてこそ。私が必ず、兄上を説得してみせます。だから風魔小太郎どの、私だけをどうか、河越へ……」
 そこまで弁千代が言ったところで、走ってくる足音が聞こえた。

 足音の主は、すぐに息せき切って城主の間に現れた。
「元忠?」
「多目どの?」
 今夜は宿直で、この場にいなかった、北条軍の重鎮・多目元忠である。常に冷静沈着な彼らしくなく、ひどく慌てた様子で、片膝をつき、氏康に頭を下げる。
「何ごとか、元忠」
「殿、一大事にございまする」
「何だ、今川義元どのが、ついにお歯黒をやめたのか」
 思わず場の全員が失笑してしまう。元忠も数瞬遅れて破顔したが、すぐにまじめな表情に戻って「そのようなことではございませぬ」と返した。
「すまん」
 全員の緊張がほぐれたことを確認して、氏康は元忠に報告をうながした。
「聞こう」
「は、武田から使者が来ております。山本勘助と名乗っておりますが……」
「ほう」

 武田晴信の軍師として名高い、山本勘助。
 その名を名乗る男が、長久保の城門の前に、端然と佇《たたず》んでいた。




 河越と河東と 了
 
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