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第一部 河東一乱
03 孫子四如
しおりを挟む其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山
孫子
「申し上げます! 吉原城が陥ちました」
「ご苦労」
北条新九郎氏康は、興国寺城を出陣して早々、敗報に接した。
なかなかきついはじまりだなと心中でぼやいた。
だが歎いている暇もなく、次なる知らせが届く。
宗哲の懐刀である、諏訪左馬助が馬を馳せてくる。
「伝令、伝令! 今川勢は長久保城を包囲しております」
「何!」
これは北条宗哲の声である。宗哲の居城が長久保城であるためだ。だがそれだけではない。
「新九郎、今川の勢い、尋常ではないぞ。なんというかのう……その、『早すぎる』」
「まあ、叔父上の言われるとおりでしょう。およそ十年前に父上に河東を奪われた時から、虎視眈々と狙っていたにせよ……勢いが有り過ぎる」
「殿……」
うしろから弁千代が心配そうな声を出す。氏康はその肩を軽くたたいた。
「そんな顔するな弁千代、おれの初陣はな、負け戦だった」
「え? たしか小澤原の戦いですよね? あれは扇谷上杉朝興を撃退した……」
怪訝な顔をする弁千代に、清水小太郎が声をかける。
「いンや、たしかに負けだぞ、弁千代。ただしその夜、夜襲をかけてさんざんやり返したがなぁ」
がははは、と清水小太郎は豪放に笑い声をあげる。つられて周りの白備えの将兵もつい笑ってしまう。
敗報に接した暗い雰囲気が晴れ、満足したように氏康は全軍に急ぎ駆けるよう命じた。
「駆けよ! 長久保城を包囲しているのなら、その背後から攻める」
「よし、わしが案内する! 者ども、つづけ!」
いち早く宗哲が馬に鞭をくれ、北条軍は一路、長久保城を目指した。
孫子四如
長久保城外。
赤鳥の馬印の軍勢が、長久保城を包囲していた。
旗印の下、豪奢な輿があり、輿の上には、きらびやかな鎧兜に身を固めた、魁偉なる容貌の武将が座していた。
その武将――今川義元は、全軍に休憩を命じた。
「……よろしいので? あとひと押しすれば、主なきあの城を陥としてみせましょうが……?」
「構わん。落城した城をかかえると、いろいろと面倒でな……そろそろ、三つ鱗が来る」
三つ鱗。
北条家の家紋で、三角形を組み合わせ、三つの鱗を表現している。
「……しかし、城が残っていては、これはこれで面倒……」
「ふむ。一理ある……が、そのときはそのとき、『後詰め』に任せればよい。では、下がってよいぞ」
今川の家臣はうやうやしく一礼して引き下がり、全軍休憩の命を伝えに言った。
輿の上、ひとり鎮座して義元は、頭の中にこのあたりの地図を思い浮かべた。
十年前から、河東を取り戻そうと考えてきた。
河東の地理は、すべて、頭に叩き込んである。
河東を取り戻し、北条に打撃を与える。
しかるのちに、胸に温めてきた野望をかなえるために邁進するのだ。
思考がそれた。
よし……合戦の場は、この場所だ。
「誰かある。『後詰め』の方に、今井狐橋を目指すよう、申し伝えよ」
*
「後詰め」と呼ばれた軍勢は、今川軍の後方にあり、常に一定の距離を保っていた。ひし形の旗印と、漢文を記した旗印がひときわ目立つ軍勢であった。
「……お屋形様」
「うん」
「今川の方より、今井狐橋にて合戦に及ぶとの由。地図でいうと……」
「ふむ」
「お屋形様、今川の使者にはどうお返事なさいますか」
「あい分かった……と、それのみ伝えよ」
「は」
家臣が去って行くのを見て、お屋形様と呼ばれた若者は腰を上げた。
「……さて、海道一の弓取りと相模の獅子の戦……とくと見させてもらおう」
*
「新九郎! 今川は長久保城の包囲を解き、こちらに向かっているとの由!」
敵軍接近の急報に、清水小太郎吉政は口調が乳兄弟と家臣のときが「ないまぜ」になってしまうほど驚愕していた。
聞いた氏康の方は、涼しい顔でこたえた。
「あわてるな、小太郎。敵がわざわざ城を見逃してくれたんだ、幸運と思わねば」
「まさか、狙いどおり、と言うまいな」
「言わんよ……万一そうだったら良いな、と思っただけだ」
「変わらんな、おぬしは……初陣の頃から」
清水小太郎はあきれたが、おかげで力みが消え、いつもの調子に戻り、やがて金棒を振り回して、周囲を景気づけた。
「よしっ、一番槍はおれがもらうぞ! 者ども、つづけよ!」
「小太郎」
「何だ新九郎、いいところで」
「一番槍なら、叔父上がそのまま突っ込んでいるから、急がんと取られるぞ」
氏康が指さす先に、北条宗哲が、諏訪左馬助を従え、まっしぐらに馬を馳せている姿が見えた。
「あれは、案内するとか言ってた時から、狙ってたな、一番槍」
「なっ、なんだとあのじじい! ふざけるな! おまえら、急げ!」
白備えと共に駆けだしていく清水小太郎を見送りながら、弁千代は氏康に話しかける。
「案内するときから狙っていたというなら、そのとき小太郎さまに教えてあげればよかったのでは」
氏康は弁千代の方を向く。
「囲まれていたのは叔父上の城だ。叔父上が真っ先に駆け付けられないと、叔父上がやる気をなくす……かつ、そうしないと城の兵の士気が落ちる」
「左様ですか……」
弁千代は感心したようにうなずく。
聡い子だな、と氏康は思ったが、そういうことを軽々と口に出さないでくれ、と綱成に釘を打たれていたので、黙っていることにした。
*
今井狐橋では、北条宗哲の手勢と、一歩遅れてきた清水小太郎吉政の手勢が、早速、今川勢に躍りかかっていた。
「やあやあ、われこそは伊勢宗瑞が末子、北条宗哲なり!」
「冷や水はよしな、じいさん。ここはこの白備え、清水小太郎吉政の出番だ!」
「やかましい!」
「うるせえな!」
憎まれ口をたたき合いながらも、二人は連携して今川軍を翻弄していく。
「すごいですね、あの二人。息がぴったり」
さりげなく二人の軍勢に、北条軍本隊を追いつかせていた氏康に、弁千代は思わず声をかけた。彼は戦場が初めてである。
「……まあ、おれと小太郎、それと孫九郎……お前の兄は、叔父上に兵法を習ったからな」
「え、先代、氏綱さまではないんですか?」
「父上は忙しかったからな……座学は叔父上だった。ただ……初陣のあとから、実戦を父上について教わるという感じだった……三人ともな」
「ははあ……」
「ま、いずれにしろ、元は伊勢宗瑞、じい様の兵法よ……どれ、そろそろおれも行くか」
氏康は手綱を振るって馬を走らせる。連動して、北条全軍も動き出した。
*
宗哲、清水小太郎を両翼として、中央から氏康の本隊が突入してくる光景を見て、義元は両翼の散開を命じ、本隊の前へ北条本隊を誘うよう命じた。
北条本隊が今川本隊の前に出て、その左右から今川の両翼が挟み撃ちを受ける寸前、氏康は「かかれ!」と一声上げて、眼前の今川本隊に突撃した。その速さに、今川両翼はついていけず、激突する今川、北条の本隊は拮抗し、そのまま乱戦に突入した。
「さすがは音に聞こえた相模の獅子。見事な采配よ」
輿の上から戦場を見ていた今川義元は、感歎の声を上げた。
近くに控えた今川家の武将は思わず反論する。
「いや……伊勢の鼠賊など、しかも先代・氏綱ではない、今の北条など……」
「あなどるでない」
義元はぴしりと扇子で輿を打つ。
「かの北条新九郎氏康は、初陣にて扇谷を撃退し、さきの国府台の戦では、小弓公方を討ち取ったと聞くぞ。努々、油断すまいぞ」
小弓公方とは、古河公方から分派した足利公方のひとり・足利義明で、剛勇無双で知られていたが、北条氏康と綱成の手で討ち取られている。
「こんな時に禅師がいれば……」
そこまで言って、家臣はしまったとばかりに口を閉じた。
義元の采配では不安であり、軍師である太原雪斎がいれば……という意味に捉えられるからだ。
だが義元は気にせず、今度は鷹揚に扇子を振った。
「そちの言うとおりぞ。師がいれば……と予も思う。率直な物言い、苦しゅうない」
「は」
太原雪斎は、今川義元が出家させられていた時の師である。かつて長男であり当主である今川氏輝と跡継ぎの彦五郎が死去したとき、義元は師と二人で、残った兄弟である玄広恵探(今川良真)を打倒して、今川の当主になった。以来、義元は師である雪斎に政治・軍事の補佐を頼んでいる。禅の師として尊敬するだけでなく、その智恵を畏敬しているのだ。
「だが、師はこの場に居らぬ。代わりに頼むとしようかの……『後詰め』に」
*
「お屋形様、今川よりまた使者が参りまして、前へ出るよう、申しております」
「うむ」
「それと……これ以上韜晦するようなら、『お父上に頼む』、とも申しつかっているようで」
「ほう」
お屋形様と呼ばれた若者は、やれやれとばかりに腰を上げた。
「ならば致し方なし。勘助、出陣じゃ。ただし、旗印も馬印も伏せよ。できれば、今川の手勢と思わせておきたい」
「ははっ」
勘助は全軍へ通達に走り、若者はゆっくりと乗馬した。
「今少し……海道一の弓取りと相模の獅子の戦を見物したかったな」
若者は、自分と自分の軍勢の出現が、合戦を終わらせることを知っていた。
*
「殿、殿! 今川の後方に新たな敵が出たとの知らせにございまする!」
北条軍の重鎮、多目元忠が自ら馬を飛ばして、氏康へ注進に来た。ちなみに、元忠は、北条五色備でいうと、黒備えを率いている。
氏康は眼前に迫る今川兵を槍で突き飛ばしながら、元忠に問いただす。
「たしかか?」
「風魔衆の草の者が知らせました。たしかかと」
風魔小太郎を頭領とする風魔衆は、北条家において、草の者、すなわち忍者を統括する部隊である。
「ただし旗指物を伏せていて、どこのものかは不明との由!」
「ふうむ」
そうこうするうちに、今川の本隊が巧みに左右に移動し、何と北条軍の前に、その謎の軍勢との間に空き地を、つまり道を作った。
否応なしに向かい合う北条軍と謎の軍勢。
乱戦の中、しばしの沈黙が生じる。
「味な真似を……」
謎の軍勢の主である若者は苦笑した。
今川義元め、どうあっても、自分たちと北条軍を戦わせるつもりか。
是非もなし。
ならば戦うか。
そう思った矢先に、氏康の声が聞こえた。
「全軍、退け! 今こそ長久保城へ向かうとき!」
*
謎の軍勢と向かい合わせになったとき、その軍勢が停止し、図ったように今川軍も動きを止めた。
氏康はその一瞬の隙を見逃さなかった。
「全軍、退け! 今こそ長久保城へ向かうとき!」
「かしこまって候」
多目元忠は退き鉦を鳴らし、全軍に合図した。
「退却! 退却! 長久保城へ退け!」
氏康は敵軍が呆気に取られているところに、弁千代に命令を下した。
「弁千代」
「は」
「物見を命ず。今のうちに、あの軍勢、何者か見て参れ」
「え……いや、しょ、承知つかまつりました」
弁千代が前方に向かって馬を飛ばしたところに、清水小太郎が怒鳴り込んできた。
「新九郎! なぜ退く? あのような奴らなんぞ、このまま叩き潰してしまえばよいではないか!」
「小太郎、殿の下知であるぞ! 控えよ!」
元忠が清水小太郎を抑え込もうとするが、氏康はそれを止めた。
「小太郎、あの分からない敵は止まっているし、そして今川はさっきのあの変な動きで『開いた』せいで、すぐには動けん。今が好機。もともと、長久保城への救援が狙い。それを忘れるな」
「……あい分かった」
清水小太郎は引き下がり、自軍をまとめに戻った。
元忠はやれやれと、清水小太郎に掴まれて痛んだ手を振った。
「血気盛んな奴よ……頼もしいのだが」
「いや……兵たちの気持ちを代弁してくれただけだ。分かってるさ、小太郎も」
「左様ですか」
「そうさ……さて、弁千代が戻ったら、そのまま殿軍をするぞ、元忠、覚悟は良いか?」
「委細承知」
元忠は、一騎で走る弁千代の後ろ姿を見守りながらこたえた。
*
弁千代は胸の動悸が高鳴るのを感じた。
弓兵の矢がぎりぎり躱せるところまで近づく。
よく見えない。
せめて、馬印なり旗印なり掲げてくれれば、正体が分かるのに。
その弁千代の接近を知り、勘助が主に問うた。
「お屋形様、物見らしゅうございますが、いかがなさいますか」
「ふむ」
「射殺してしまえ、という声も聞こえますが」
「見たところ、顔紅き小姓ではないか。左様な者を射たら、武士の名折れぞ。御旗楯無が照覧していることを忘れるなと伝えよ」
「承知つかまつりました。それで、あの小姓はいかがなさいます?」
「ふむ……その勇気に免じて、手柄を立てさせてやろう……わが旗を掲げよ」
「……よろしいので?」
「かまわん。そろそろ、援軍らしい真似をせんと、今川がうるさいでな」
「旗を掲げるだけで援軍らしいとは……」
「どうせ北条は退く。さっき聞いたとおりだ。わが旗に恐れをなした、とでも言っておけば良い」
「は」
弁千代の目の前で、軍勢がその旗印を掲げた。
「た、武田菱……」
弁千代と兄の綱成が、落ち延びる原因となった負け戦の相手。
父である武田信虎を駿河に追放し、新たな当主となった武田晴信(のちの武田信玄)の軍勢が、今川との同盟に基づいて、この駿河に援軍としてやってきていたのだ。今川軍の勢いが短兵急であったのは、武田軍が後詰めを務めてくれたおかげで、前進のみに集中できたからである。
ちなみに、御旗楯無とは、武田家重代の家宝、日の丸の旗と、新羅三郎義光の楯無の鎧のことである。
弁千代の目に、もうひとつの旗が見えた。
「あの漢語は……」
「孫子四如だ」
いつの間にか隣に来ていた氏康が、朗々と読み上げる。
「それ疾きこと風の如く、それ徐かなること林の如く、それ侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
「よ、よくご存じで」
「……まあ、いちおう、同盟相手だからな」
実は、昨年の天文十三年(一五四四年)に、武田と北条は甲相同盟を締結していた。しかし、そういう状況にもかかわらず、武田は今川の後詰をしている。
「ならば、あの武田軍は味方で?」
「……いや、それはない」
甲相同盟を破ってでも、武田が今川に従う理由。氏康の脳裏にある情報が浮かび出す。
「……そうか、信虎どのの件で、逆らえぬのか」
「新九郎さま、武田がお味方でないのなら、危のうございます」
「そうだな……ここは、三十六計逃げるに如かず」
氏康は弁千代の馬の手綱を握ると、一目散に元忠の待つ自軍へと去って行った。
*
整然と退却していく北条軍を見送り、武田晴信は感心したようにうなずく。
「退却も見事。そしてそれがそのまま、長久保の城への助けと守りになっておる」
「感心している場合ではないぞ、晴信どの」
しずしずと、輿に乗って今川義元が武田の陣中にやって来た。
「かような戦い方をされては、こちらの骨が折れる。いや、そもそも戦ってはいな……」
「われらの旗に恐れをなした。これも立派な戦いでござる」
ぬけぬけと言ってのけた晴信に、義元は露骨に不愉快な表情を浮かべた。
「……左様なことを申されるのなら、駿府にて『匿っている』お父上に、ご出馬願おうかの」
「…………」
うまく晴信をやり込めた義元は、愉快そうな表情をして輿から降りる。
数年前、太原雪斎の助言を容れて、甲斐の武田家の父子の争いを加速しておいて正解だった。うまく子の晴信の勢力が勝つように仕向け、そして父の信虎の駿河訪問(信虎の娘、つまり晴信の姉が義元の正室のため、会いに来た)を機に、国盗りをそそのかしたのだ。晴信は甲斐の国主となり、義元はその晴信に対する切り札――信虎を得た。晴信が義元の意向に沿わない時は、信虎を甲斐に戻すと脅せば良い。
――おかげで、積年の謀を実行に移すことができた。
義元は、ほくそ笑んだ。
「…………」
晴信はその義元を横目で睨んでいた。
こやつの謀は、たしかに見事。
だが、武田としては、いつまでも今川の後塵を拝するわけにはいかない。
何とかして、こやつを出し抜かねば。
今川が勝ちすぎてはいけない。
北条にも、ある程度の余地を残しておかなければ、次に狙われるのは武田やもしれぬ。
今川と北条が拮抗し、武田が動けるようにする、何か良い策は……。
――戦国に冠絶する名将・武田信玄の策動がはじまる。
孫子四如 了
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