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急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

31 再会する人たち

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「ねね!」

 羽柴秀吉は、弟の秀長が止めるを聞かず、ざんぶと円明寺川へと入り、意外と浅いことを確認すると、腰までつかりながらも、ねねの乗る舟へと近づいてきた。

「おやじさま!」

 ここでねねも飛び込めば感動的なのだが、実際はねねの隣にいた福島正則が飛び込み、秀吉にむしゃぶりついた。
 秀吉もねねも、これにはあっけに取られたが、やがて二人とも大笑いした。

「市松(福島正則のこと)、久しぶりだでや」

「市松、おみゃあはどこまで行ってもわらしで……」

 そういう会話に微笑みながらも、藤堂高虎は舟を危なげなく漕ぎ、秀長の待つ対岸へとたどり着いた。

「高虎、神妙なり」

「御意を得て、恐縮でござる」

 君臣はにやりと笑い合い、そのまま秀吉、ねね、正則らの前と後ろにつく。
 そしてそのまま、一行は羽柴軍本陣へと向かった。

「……帰って来た」

 そのねねのつぶやきを拾い、「そうじゃ」と秀吉はねねの手を握った。



 山崎。
 宝積寺ほうしゃくじ
 ここに羽柴軍の本陣があった。
 時に、天正十年六月十二日夜。
 すでに摂津衆の中川清秀、高山右近らは先発して山崎の町を押さえ、さらに予定戦場の中央最前線へと進出した。
 黒田官兵衛と羽柴秀長は、左の「山」、つまり天王山に至った。その山裾にある西国街道沿いに兵を配置し、官兵衛いわく「明智に罠をかける」構えをとった。
 それをひとりだけ聞いていた秀吉は「どういうこときゃあ?」と問うた。官兵衛は「上様とねねさまの御為おんためでござる」と韜晦とうかいした。
 を理解した秀吉は。

「池田どの。われらも同道願えんかのう?」

 その時、池田恒興は、予定どおり戦場の右翼、円明寺川の川岸へと向かうところだった。向かったあとは、川をはさんで明智軍の左翼と対峙し、つまり「にらみ合い」を演じるつもりでいた。
 ところが。

「この秀吉、というか、妻女のねねがのう、考えがあるみたいでのう」

 秀吉が二言三言ふたことみこと、恒興の耳にささやくと、恒興は最初驚いた顔をして、次いで不敵な笑みを浮かべた。

「何と、それはまるで……桶狭間のようではないか」

 桶狭間。
 駿河から海道一の弓取り・今川義元が大軍を率いて尾張へ攻め入った時、寡兵をもって織田信長がそれを破った戦いのことである。
 織田家、それも信長と共に若き日を過ごし、戦って来た者──特に秀吉やねね、恒興──にとっては、それは特別な思い出だった。
 それを恒興が口にするということは。

「藤吉郎。やろう、それを。やるべし、やるべし」

 恒興はつい若い時の気分で秀吉を藤吉郎と呼んでしまったが、秀吉はそれをとがめなかった。
 元より、そういうつもりで──若い時のあの、野生味溢れる恒興に戻ってもらうつもりで、語りかけたからである。

「頼んだでや、池田どの」

 秀吉は恒興に二、三の頼みごとをして、その了承を得ると、満足げな笑みを浮かべた。



 明けて天正十年六月十三日。
 本能寺の変をめぐる一連の騒動からおよそ、十日。
 実にこの十日間という日数で、この国の歴史は次の局面を迎える。
 その幕開けにおける、天下分け目の戦いの名を、山崎の戦いという。

「……まぁだ明智は動かんのきゃあ?」

 天王山から円明寺川にかけてのを形成した秀吉は、これまでの「前進」の姿勢をかなぐり捨てたかのように「停止」し、守勢に入った。

「明智の望みは、わが方がこの狭い山崎をかんと、小出しに兵を繰り出したところを、それを順繰りに順繰りに、つぶすことにある」

 そう黒田官兵衛は述べていた。
 であるなら、敢えて攻めてかからずにいよう、というのが秀吉の作戦である。

「明智が怖いのは、じゃ。が一番、怖い」

 明智光秀は、時が経てば経つほど、織田家の有力家臣らが連合しないにしても、そのそれぞれがそれぞれで、波状攻撃して来るのを警戒している。
 その最も警戒している、北の柴田勝家への守り──近江の斎藤利三をこの場に連れて来ているので、光秀の緊張感は、さぞかしものになっているだろう。

「だぁから、羽柴ウチは待つんじゃ。敢えて待つんじゃ。明智がれて出て来るを待つ。わざわざ、食われるために攻める必要は無いわ」

 そして明智が攻めて来て、それを受けてこそ、前夜、池田恒興にささやいた、ねねの策が光る。

「……この辺でええか」

 秀吉は右翼の円明寺川に出張った恒興の後詰めのようなかたちで、「待ち」に入った。
 むろん、そのかたわらには、武者姿のねねがいる。

「明智は来るのか、来ないのか」

 そのねねのつぶやきを拾った秀吉は、「来るでや」と答えた。

「……そういうけど、明智に動きがない」

 ねねは円明寺川の対岸を見やる。
 明智軍は毛ほども動こうとしない。

「来るでや」

 秀吉はもう一度、答えた。
 光秀は本音としては、攻めかかりたい。
 攻めて、秀吉を討ち、西への通り道をものにして、平島公方を迎え入れたい。細川家を味方にしたい。
 されど、今は秀吉より兵が少ない。それゆえ、この狭い山崎戦場で待ちかまえているのだ。

「…………」

「光秀は理にかなっている。そんなら、来ないのでは……と思うとるな、ねね」

 それは秀吉も思っている。
 だがあの用兵巧者いくさじょうずの光秀が網を張っているとわかっていて、攻めるわけにはいかない。
 それは賢い者のすることではない。

「では、どうするか」

「簡単なことよ」

 秀吉は笑った。
 待つのだ、と。

「……は?」

「根比べじゃ、ねね」

 秀吉とて、気がいている。
 早く信長のかたきを討ちたい。
 ひとりで光秀の首を上げたい。
 天下を盗りたい。
 それでも。

「わしゃあ、我慢する。その欲のままに攻め入ったら、光秀の思うつぼじゃ。そして逆に、光秀が攻めて来るンを待つ……この秀吉の、思うつぼにするためにのう」

「…………」

 それはねねから見ても、驚くべき耐久力だった。
 この男秀吉は、欲しいものは手に入れてきた。
 けれども、より欲しいものがある時は、我慢ができた。
 だからこそ、ここまで成り上がれたのだ。
 しかしそれは光秀も同様である。
 光秀もまた、我慢ができた。
 だからこそ、織田家一の将にまで登りつめ……。

「あっ」

 ねねは思わず手で口をおおった。
 そして夫・秀吉の読みというか、光秀に対する洞察力に舌を巻いた。

「そうじゃ、ねね」

 だからこそ、この男秀吉は、ここまで持って来たのか。このかたちに。
 中国大返しなどという、驚天動地の行軍までして。

「光秀はなぁ……。じゃから、やったんだろう? を」

 ……天正十年六月十三日、申の刻(午後四時)。
 明智光秀はなかなか攻め入らぬ羽柴秀吉に、とうとう痺れを切らした。
 切らしてしまった。

「……上等やないかい、木藤きとうゥ(吉郎の略称、つまり秀吉のこと)」

 光秀は軍配を掲げ、自身の腹心である斎藤利三、伊勢貞興に突撃を命じた。

「そンならそれで、この明十あけじゅう兵衛光秀の略称)が攻め、見せたろやないかいィ」

 痺れを切らしたが、夕刻を狙うことを忘れない。
 しかもこの日は雨。
 いかに「待ち」に徹したとはいえ、そろそろ秀吉とその軍に、疲れが見えてくる頃合い。

けやあ、利三、貞興ィ!」
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