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急の章 天下一の女房、これにあり ──山崎の戦い──

27 光秀の出陣、秀吉の接近

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 明智光秀は出陣した。
 出陣せざるを得なかった。
 西へ。

「……チッ」

 露骨に舌打ちした光秀。
 その脳裏に浮かぶは、顔も知らぬ平島公方ではない。
 細川藤孝である。

「……こうなりゃ、ともの足利義昭でも、かまわんか」

 捨てた相手だし、もれなく毛利のづきであるが、無いよりましだろう。
 そんな考えが、光秀の脳内に浮かぶ。

「うむ。うまくすると毛利と、羽柴をはさみ撃ちができるやもしれんのう」

 実際、足利義昭は(光秀と手を組んだかどうかは不明だが)毛利家に羽柴秀吉を討て、東上せよと要請している。
 が、すげなく断られている。
 毛利家としては、和睦を結んだ相手の羽柴秀吉に「賭けた」かたちになっており、それをにしたくないのだろう。
 いずれにせよ、光秀は西進して、大和の筒井順慶に圧をかけることにした。

「そんなら、細川は」

 光秀は再び、いや、もう数回にわたる書状をまたしたためようとした。
 だが、書いている途中でそれをやめざるを得なくなった。

「羽柴がそこまで来ているだと?」

 中国大返し。
 その大詰めともいうべき、羽柴秀吉の摂津入りが確認されたからである。



 中国大返し。
 その姫路までの過程は、神速とでも称すべき速度であった。
 だが、姫路からのそれは、それまでとはちがって、実に慎重な進み具合だった。

「信長さま、生存」

 とは、先に述べた秀吉の策であるが、それを各所に伝えた。
 特に、摂津の諸侯には。

「まあ実際はうなっておられる。そのかたき討ちのためじゃ、信長さまも泉下あのよで苦笑いしておられるじゃろ」

 秀吉は誰ともなくそう言っていたが、本当にそれを伝えたい相手は、今はそばにいない。
 おそらく、京にいる。

「……したが、大坂は別じゃ。三七さんしちどの(織田信孝のこと)には、かたき討ちじゃとハッキリ言うておかんと」

「その点、抜かりはございません」

 馬上、ブツブツとつぶやいていた秀吉の背後から、語りかける影があった。
 影は陽光の下、なお一層その陰影を濃くしながら、秀吉に近づいた。
 
官兵衛くわんぴょうえ

「はい。御前に」

 黒田官兵衛その人である。
 官兵衛は姫路出立前にふらりと「出る」と言い置いて行ってしまったが、いつの間にやらこうして秀吉のそばにしている。
 どこで、何をしていたか。
 そう秀吉が問う前に、官兵衛はふところから十字架クルスをまさぐり出した。

「大坂には、弟御の秀長さまが向かわれた。かの者は実直で鳴らしておられる。おそらく、大丈夫でしょう」

 主君の弟を、それもその主君の面前でえらそうな評価を下す。
 だが、それでこそ官兵衛。
 そう言わせるだけの迫力の男である。
 そしてそんな男が、おそらく銀製の十字架クルスを、まるで童女が人形をかわいがるように、でている。

「……高山右近にでも、もらったのきゃあ? 十字架それ

「ぜひにもお話をおうかがいしたい、と申し入れましてな」



 摂津の有力国人・高山右近は、若年の時にキリシタンになったと、に知られている。
 右近はこの動乱から距離を置いておこうと思っていたが、そこを官兵衛が「ぜひにも入信したい」と訪問した次第である。
 これがただの勧誘なり調略であれば、右近も追い返すところであるが、なにぶん、入信といわれては無下にもできない。

「……本当に入信しに来たのでござるか?」

「さよう」

 官兵衛の凄まじいところは、先に入信してしまったところにある。
 むろん、正式な入信は「すべて片付いたあと」と断りを入れたが、十字架を押しいただく官兵衛の姿は真剣だった。
 そこまでやるか、と右近は思ったが、もうここまで来たら、断ることはできない。
 ……官兵衛の語りを。



「……ま、こうなったらと、同輩の中川清秀も誘ってくださるとのこと」

 十字架クルスに口づけしかねない勢いの官兵衛に、若干気味の秀吉。
 それでも「ようやった」と肩をたたくことは忘れなかった。

「これで大坂の三七織田信孝どのの四国征伐軍も、結構な兵数になる。でかした。あとは……」

「あとは……光秀めを、うまく釣り出すことができれば、ですな」

 水魚の交わりとはこのことだろう。
 官兵衛は、わがことながら思った。
 秀吉は口ひげを引っ張りながら、思案する。

「……もう淡路の洲本をとしている頃じゃろ」

「淡路。平島公方ひらじまくぼうと、それに伴う長宗我部の援軍の道を断った……しかし」

「そう。しかし、逆に光秀に逃げられたら、困るのう。ことが面倒になる」

 大きく出たな、と官兵衛は思ったが、聞こえないふりをしている近侍や将兵が聞き耳を立てている。
 ここは「最もわかりやすい理由を」喧伝すべきだろうと判じた。
 ……「微妙な案件」は置いておいて。

「上様」

「何じゃ」

「光秀めは朝廷より、京を安んじよ、との勅をたまわったとのこと」

 これは光秀が安土城を押さえた時のことである。
 京の動静が落ち着かないことを憂慮した誠仁親王さねひとしんのうは、光秀に京の治安維持を任じた。
 これを「京の差配を認めてくれた」と受け止め、光秀は朝廷に銀五百枚を献じて報いたという。
 ねねと長谷川宗仁はせがわそうにんの書状からそれを知った秀吉は「ふうん」と言って、鼻をほじり出した。
 いわば朝廷の自衛的な活動であり、光秀に襲われないための担保だろうと、軽く流していた。

「さればでござる」

 官兵衛は大上段に両手を振り上げる。
 十字架クルスも上がる。

「一挙に京まで攻め上られませ。さすれば元幕臣で、さような勅命を受けた光秀のこと、必死になって京を守りましょう」

 そんな確信はない。
 五分五分といったところだろう。
 だが、とりあえずの説得力があればいい。
 周りの将兵たちが納得すればいい。

官兵衛くわんぴょうえ

「はい」

「……ワレは、悪人じゃの」

 これには笑いが起きた。
 そこで秀吉はわざとらしく、何だおみゃあら聞いてたんかいと、おどけた。
 一方で官兵衛は、こういう勝ちに行く雰囲気をうまく作っていく秀吉の恐ろしさに、冷や汗をかいた。
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