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破の章 覇者の胸中を知る者は誰(た)ぞ ──中国大返し──
26 京から
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明智光秀が羽柴秀吉のねらいを「姫路で自立」と決めつけたその直後、京にはある挿話と共に、「秀吉が来る」という噂が、まことしやかに語られていた。
「……何でも、戦の占いをするお坊さんだか何だかが、出陣するのは良くない、二度と城に戻れない悪日だと言うただと」
「それで?」
「秀吉は、光秀を討てば京に城をかまえるから戻らん、悪日とは何じゃ、吉日ではないかとどやしつけたと」
「ほーう」
……この噂、京の長谷川宗仁の隠れ家から広まっていったことは言うまでもない。
噂を流した当人は「ま、これぐらいはしてあげないと」と言って、澄まして茶を飲んだという。
*
「何やというんや!」
京の自邸で光秀は、出された膳を蹴り上げた。
秀吉は姫路にとどまるという自らの「決めつけ」をあざわらうごとく、変な噂が京の市中を飛び交っている。
さすがにこのままではまずいと思い、すぐに調べさせたが、どうやら秀吉が姫路城に「休んで」いたのは一日だけで、すぐに向かったらしい。
噂でささやかれているとおり、「光秀」のいる「京」へ。
「そないに阿呆な行軍をしてみぃ、兵が疲れて使いもんにならなく……」
そこまで言って、光秀ははっとした。
まさか。
兵は京畿で調達するつもりか。
すると。
「お、大坂はどうなっとる? 摂津は? あと……丹後の細川藤孝はどないや? や、大和の筒井順慶もや!」
近侍たちが急ぎ出ていったため、蹴り飛ばされた膳を片付ける者がおらず、光秀は「くそがっ」と怒鳴りながら、もう一度膳を蹴った。
しばらくして、大坂方面に出張っていた伊勢貞興が姿をあらわす。
「上様、いかがされました」
「いかもたこもあるかいぃ。こりゃ、どういうこっちゃ。気がついたら筑前の奴(羽柴秀吉のこと)、もう姫路を発っとるいう話やないけ」
「……それは正気ではありませんな」
さしもの伊勢貞興も、この秀吉の「速さ」には目を剥いた。
彼もまた、秀吉は急いで姫路に逃げ帰ったと判じていたからである。
しかし、次の瞬間には光秀の動揺を理解した。
「……このままでは、秀吉めが、疲弊した自軍の代わりとして、摂津をはじめとする京畿の諸将を取り込みましょう」
「せや。ほンで大坂、摂津はどうなっとる?」
「……丹羽長秀は見に徹している様子。あれでは、三七(神戸信孝のこと)どのも、うかうかと動けぬかと」
「……さよか」
大坂の四国征伐軍は、総帥たる神戸信孝が、副将の津田信澄(光秀の娘婿)を「謀叛の疑いあり」で討ったものの、もともと急ごしらえの征伐軍は動揺激しく、兵数を大きく減らしていた。
結果、もうひとりの副将の丹羽長秀が大坂に籠もり、外には出ないという戦略を採った。
光秀と貞興としては、それを無力化と見なし、もって長宗我部からの平島公方を迎える用意ができた、と思っていた。
それを。
「もし秀吉めが摂津に至れば、息を吹き返すんやないか? ……それに信孝は織田家の公子。御輿にされると、厄介やで」
「御意」
織田家の遺児を前面に出されると、旧織田家の家臣を糾合される恐れがある。
貞興はここが思案のしどころと腕を組む。
「……殿、やはりここは」
「みなまでいうな、わかっとる。出陣や」
光秀は立ち上がった。
「秀吉に押さえられる前に、京畿の将、特に丹後の細川藤孝と大和の筒井順慶を押さえる。同時に、西に向かって平島公方を押さえて、そのまま、へばっとる羽柴の兵を討つ」
こうなれば、平島公方より先に、細川と筒井の首根っこをつかむか。
いや、いっそのこと、長宗我部に軍勢を出してもらって、それに平島公方を連れて来てもらうか。
「……どちらにせよ、とにかく出陣や」
光秀は貞興に出陣の準備を整えさせる間に、自身で各方面へ働きかけた。
まず、近江を守らせていた斎藤利三に、近江の兵を率いて上洛し、光秀と合流することを命じた。
次いで、細川藤孝と筒井順慶に改めて光秀に従うよう、使いを出した。
「……ことここに至っては、仔細を省くが、平島公方に出てもらうつもりである、と言えい」
他への秘匿のため、におわせるにとどめていた話だが、もうはっきりした方がいいだろう。
その上で、「新たなる」足利幕府の枢要を占めようではないか、と述べさせた。
「これなら、ええやろ」
だがその使いが色よい返事を持って帰ることは、なかった。
*
京。
長谷川宗仁の隠れ家で、福島正則はどたどたと足音を立てながら、ねねのいる茶室へと這入って来た。
「おふくろさまっ、おふくろさまっ」
正則はその手に書状を持っている。
宗仁は、その商いの網を使って、堺や海路を経由して、羽柴軍との間での書状のやり取りをしていた。
そしてその書状の束の中から、正則あての私信があって。
「虎(加藤清正)からじゃ!」
幼馴染みにして朋友からの文に小躍りして喜ぶ正則だが、その内容を見て仰天した。
「信長さまが、生きてる!?」
正確には、そういうことにして、秀吉は京畿の諸将を説得している、という話である。
なぜそんなことをするのか、よくわからない。
わからないなら、わかる人に聞いてみようと言うのが、今の正則である。
「それでわたしに? やれやれ、まあ、その虎の書状も、秀吉が手を回しているんでしょうから、間違っては、いないけど」
ねねもまた、初耳であった。
だが、何となく秀吉の考えていることは読める。
「つまり、信長さまが生きているという、ある意味、死者を冒瀆するような策を使っているのを、わたしに直に伝えるのが、憚られるのでしょう」
秀吉もねねも敬愛する主君であり、恩人でもある、織田信長。
その死を無かったものとして利用するなど、外道。
ましてや、本能寺というその場にいたねねなら、なおさらそう思うのでは。
「……でも、伝えないのもどうかと思って、虎にそれ書かせたのでしょう。浅ましい」
「…………」
それなら秀吉は、かなりの気遣いをねねにしていることになるので、浅ましいと断じるのもどうかと思う正則である。
こういう時は、話題を変えるに限る。
長年、羽柴家で過ごした経験が、正則にそう教えた。
「あの、で、信長さまが生きてるっていうのは」
「それですか」
ねねはふうっと息を吐いてから告げる。
「『信長さまが実は生きている』となれば、織田家傘下の諸将はどう思う、否、どう振る舞うようになる?」
「どうって、そりゃあ……」
そこで正則は絶句した。
「信長が生きている」となれば、諸将は明智にはつけない。なぜなら、他ならぬ主たる、信長の下に集まるのが筋だからだ。
主のかたきである明智につくなど、もってのほか。
「となると、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の中川清秀、高山右近あたりは……」
「明智につかない理由を手に入れた、というところでしょう」
これで、諸将は秀吉に味方しなくとも、少なくとも、明智には味方すまい。
つまり、秀吉と光秀を両天秤にかけてもかまわない名分を持つことができたのだ。
「摂津の高山右近はキリシタン。おそらく、キリシタンへ関心のある黒田官兵衛どのあたりが、キリシタンの伴天連に手を回して、『そういう話』を耳に入れているやもしれぬ」
これはこの時茶室に這入ってきた藤堂高虎の発言である。
「うまい手を考えましたな、これで光秀は、たしかに信長さまを討ったと言い張っても、その首を示すわけにもいかない」
今さら焼け落ちた本能寺を探したところで、焼け焦げた髑髏を手に入れるのが関の山。
つまり、証明不可能の証明をしろ、と言われているに等しい。
いや、誰もが信長が死んだのはわかっている。
もし生きていれば、早速に反撃に出ているはずであるが、それが無い。
だからみんな、「織田信長は死んだ」と知っている。
けれど。
「首が無ければ、『まだ生きている』と言い張り、明智光秀の下につかない言い訳ができるから」
さすがに羽柴秀吉はひと味ちがう。
そしておそらくは。
「……一方でかたき討ちと称して、兵を糾合するつもりでしょう。猿どころか、狸ですね」
「……何でも、戦の占いをするお坊さんだか何だかが、出陣するのは良くない、二度と城に戻れない悪日だと言うただと」
「それで?」
「秀吉は、光秀を討てば京に城をかまえるから戻らん、悪日とは何じゃ、吉日ではないかとどやしつけたと」
「ほーう」
……この噂、京の長谷川宗仁の隠れ家から広まっていったことは言うまでもない。
噂を流した当人は「ま、これぐらいはしてあげないと」と言って、澄まして茶を飲んだという。
*
「何やというんや!」
京の自邸で光秀は、出された膳を蹴り上げた。
秀吉は姫路にとどまるという自らの「決めつけ」をあざわらうごとく、変な噂が京の市中を飛び交っている。
さすがにこのままではまずいと思い、すぐに調べさせたが、どうやら秀吉が姫路城に「休んで」いたのは一日だけで、すぐに向かったらしい。
噂でささやかれているとおり、「光秀」のいる「京」へ。
「そないに阿呆な行軍をしてみぃ、兵が疲れて使いもんにならなく……」
そこまで言って、光秀ははっとした。
まさか。
兵は京畿で調達するつもりか。
すると。
「お、大坂はどうなっとる? 摂津は? あと……丹後の細川藤孝はどないや? や、大和の筒井順慶もや!」
近侍たちが急ぎ出ていったため、蹴り飛ばされた膳を片付ける者がおらず、光秀は「くそがっ」と怒鳴りながら、もう一度膳を蹴った。
しばらくして、大坂方面に出張っていた伊勢貞興が姿をあらわす。
「上様、いかがされました」
「いかもたこもあるかいぃ。こりゃ、どういうこっちゃ。気がついたら筑前の奴(羽柴秀吉のこと)、もう姫路を発っとるいう話やないけ」
「……それは正気ではありませんな」
さしもの伊勢貞興も、この秀吉の「速さ」には目を剥いた。
彼もまた、秀吉は急いで姫路に逃げ帰ったと判じていたからである。
しかし、次の瞬間には光秀の動揺を理解した。
「……このままでは、秀吉めが、疲弊した自軍の代わりとして、摂津をはじめとする京畿の諸将を取り込みましょう」
「せや。ほンで大坂、摂津はどうなっとる?」
「……丹羽長秀は見に徹している様子。あれでは、三七(神戸信孝のこと)どのも、うかうかと動けぬかと」
「……さよか」
大坂の四国征伐軍は、総帥たる神戸信孝が、副将の津田信澄(光秀の娘婿)を「謀叛の疑いあり」で討ったものの、もともと急ごしらえの征伐軍は動揺激しく、兵数を大きく減らしていた。
結果、もうひとりの副将の丹羽長秀が大坂に籠もり、外には出ないという戦略を採った。
光秀と貞興としては、それを無力化と見なし、もって長宗我部からの平島公方を迎える用意ができた、と思っていた。
それを。
「もし秀吉めが摂津に至れば、息を吹き返すんやないか? ……それに信孝は織田家の公子。御輿にされると、厄介やで」
「御意」
織田家の遺児を前面に出されると、旧織田家の家臣を糾合される恐れがある。
貞興はここが思案のしどころと腕を組む。
「……殿、やはりここは」
「みなまでいうな、わかっとる。出陣や」
光秀は立ち上がった。
「秀吉に押さえられる前に、京畿の将、特に丹後の細川藤孝と大和の筒井順慶を押さえる。同時に、西に向かって平島公方を押さえて、そのまま、へばっとる羽柴の兵を討つ」
こうなれば、平島公方より先に、細川と筒井の首根っこをつかむか。
いや、いっそのこと、長宗我部に軍勢を出してもらって、それに平島公方を連れて来てもらうか。
「……どちらにせよ、とにかく出陣や」
光秀は貞興に出陣の準備を整えさせる間に、自身で各方面へ働きかけた。
まず、近江を守らせていた斎藤利三に、近江の兵を率いて上洛し、光秀と合流することを命じた。
次いで、細川藤孝と筒井順慶に改めて光秀に従うよう、使いを出した。
「……ことここに至っては、仔細を省くが、平島公方に出てもらうつもりである、と言えい」
他への秘匿のため、におわせるにとどめていた話だが、もうはっきりした方がいいだろう。
その上で、「新たなる」足利幕府の枢要を占めようではないか、と述べさせた。
「これなら、ええやろ」
だがその使いが色よい返事を持って帰ることは、なかった。
*
京。
長谷川宗仁の隠れ家で、福島正則はどたどたと足音を立てながら、ねねのいる茶室へと這入って来た。
「おふくろさまっ、おふくろさまっ」
正則はその手に書状を持っている。
宗仁は、その商いの網を使って、堺や海路を経由して、羽柴軍との間での書状のやり取りをしていた。
そしてその書状の束の中から、正則あての私信があって。
「虎(加藤清正)からじゃ!」
幼馴染みにして朋友からの文に小躍りして喜ぶ正則だが、その内容を見て仰天した。
「信長さまが、生きてる!?」
正確には、そういうことにして、秀吉は京畿の諸将を説得している、という話である。
なぜそんなことをするのか、よくわからない。
わからないなら、わかる人に聞いてみようと言うのが、今の正則である。
「それでわたしに? やれやれ、まあ、その虎の書状も、秀吉が手を回しているんでしょうから、間違っては、いないけど」
ねねもまた、初耳であった。
だが、何となく秀吉の考えていることは読める。
「つまり、信長さまが生きているという、ある意味、死者を冒瀆するような策を使っているのを、わたしに直に伝えるのが、憚られるのでしょう」
秀吉もねねも敬愛する主君であり、恩人でもある、織田信長。
その死を無かったものとして利用するなど、外道。
ましてや、本能寺というその場にいたねねなら、なおさらそう思うのでは。
「……でも、伝えないのもどうかと思って、虎にそれ書かせたのでしょう。浅ましい」
「…………」
それなら秀吉は、かなりの気遣いをねねにしていることになるので、浅ましいと断じるのもどうかと思う正則である。
こういう時は、話題を変えるに限る。
長年、羽柴家で過ごした経験が、正則にそう教えた。
「あの、で、信長さまが生きてるっていうのは」
「それですか」
ねねはふうっと息を吐いてから告げる。
「『信長さまが実は生きている』となれば、織田家傘下の諸将はどう思う、否、どう振る舞うようになる?」
「どうって、そりゃあ……」
そこで正則は絶句した。
「信長が生きている」となれば、諸将は明智にはつけない。なぜなら、他ならぬ主たる、信長の下に集まるのが筋だからだ。
主のかたきである明智につくなど、もってのほか。
「となると、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の中川清秀、高山右近あたりは……」
「明智につかない理由を手に入れた、というところでしょう」
これで、諸将は秀吉に味方しなくとも、少なくとも、明智には味方すまい。
つまり、秀吉と光秀を両天秤にかけてもかまわない名分を持つことができたのだ。
「摂津の高山右近はキリシタン。おそらく、キリシタンへ関心のある黒田官兵衛どのあたりが、キリシタンの伴天連に手を回して、『そういう話』を耳に入れているやもしれぬ」
これはこの時茶室に這入ってきた藤堂高虎の発言である。
「うまい手を考えましたな、これで光秀は、たしかに信長さまを討ったと言い張っても、その首を示すわけにもいかない」
今さら焼け落ちた本能寺を探したところで、焼け焦げた髑髏を手に入れるのが関の山。
つまり、証明不可能の証明をしろ、と言われているに等しい。
いや、誰もが信長が死んだのはわかっている。
もし生きていれば、早速に反撃に出ているはずであるが、それが無い。
だからみんな、「織田信長は死んだ」と知っている。
けれど。
「首が無ければ、『まだ生きている』と言い張り、明智光秀の下につかない言い訳ができるから」
さすがに羽柴秀吉はひと味ちがう。
そしておそらくは。
「……一方でかたき討ちと称して、兵を糾合するつもりでしょう。猿どころか、狸ですね」
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