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序の章 裏切られた明智光秀 ──本能寺の変──

09 蒲生賢秀(がもうかたひで)

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 蒲生賢秀がもうかたひでは、後世、名将・蒲生氏郷の父親として知られる男である。
 だが当時は、賢秀の方が著名であり、主家・六角家の敗北後も、その居城・日野城にこもって織田信長に抵抗の意を示したことで知られている。
 そして信長に降伏したあとには、その忠節を尽くす姿勢を愛され、信長の居城・安土城の留守居役を任されるまでになる。
 この配置はいたことが証明され、結果、賢秀は「日野の頑愚どの」と呼ばれることになるのだが……。



「羽柴秀吉の妻女?」

 安土城。
 二の丸を己の居所と定め、主・信長の城主の間には入らなかった賢秀が、その知らせを聞いたのは、やはり二の丸だった。

「ははっ、ならびに前田利家どのの妻女、と名乗る方も、馬にて参った次第」

「…………」

 賢秀はあごに手をやって考える。
 京に上った信長から連絡が途絶えて久しい。
 そのまま中国征伐に向かったと思いきや、子の信忠と合流し、何事かを話していたそうだが、そこから先、明智光秀へ上洛命令が下ったあたりから、連絡が来なくなった。

「あの話……もしや、な」

 後世のわれわれからすると周知の出来事だが、当時の織田家の家臣たちとしては、「一の将たる光秀が、信長さまに叛するわけがない」というのが、当たり前だった。
 そして光秀もそれを知っており、だからこその速攻による近江制圧作戦だったのだが、何者かの意図により、まずその端緒である瀬田の唐橋の時点で停滞を余儀なくされていた……。

「会おう」

 まずは何より、情報が欲しい。
 たしかに、羽柴秀吉の妻女が京に向かったという話は聞いている。
 前田利家の妻女まで一緒だったかどうかはわからないが、いずれにせよ、「安土城留守居役、蒲生賢秀どのにお会いしたい」と堂々と言い放つ女性なら、会っておいて損はない。

「よし」

 賢秀は日野城にいる息子、氏郷(この頃は賦秀やすひであるいは教秀のりひでと言われています、わかりやすさのため、氏郷にします)に向けて使いを出すと、二の丸へねねとまつを通した。
 通された女二人を見て、たしかに武家の女房の顔をしていると賢秀が感心していると、ねねがまず口を開いた。

「蒲生どの」

「何でござるか」

「お逃げなされ」

「……は?」

 また始まったと、まつは天を仰いだ。
 あのあと。
 瀬田城をあとにして、ねねはひとりでぶつぶつと呟いては、ぶんぶんと頭を振って、それからため息をつく……という流れを何回か繰り返していた。
 まつは、とうとう本能寺の「落城」からの衝撃で、ねねの心がたなくなったのかと思ったが、そんなことはなかった。

 、わからない。

 最後にそう零して、まつは無表情になった。
 そうこうするうちに安土城が見えて来て、どうするかとまつに問われると、ねねは「逃げろと言う」と答え、そのまま城門へまっしぐらだった。

「……逃げなされとは異なおおせ」

 蒲生賢秀は、敗北後の六角家の臣としての意地を張って籠城し、そこを説得されて、ようやくにして織田家の家臣となった人間である。
 それほどの人間を前に、「逃げろ」とは。
 賢秀が血気盛んな、たとえば息子の氏郷のような激情家だったら、即刻、刀を抜かれてもおかしくはない発言である。

「何か理由があるのかな?」

 でも賢秀は、この時晩年の賢秀は、特に激昂することもなく、落ち着いてねねの説明を待った。

「明智どのが謀叛を起こしました」

 それは特に声を強めたわけではないが、安土の城内によく、響いた。
 ついに、言った。
 賢秀も無策ではなく、甲賀の忍びなどの伝手をたどって、京の情報を集めていた。
 にわかには信じがたいとして、光秀謀叛の情報を入手したものの、それについての判断を保留しておいた。
 それを。

「わたしとまつは、信長さまのいた、本能寺に招かれておりました」

「……本能寺、とな?」

 その寺の名に、ある種の違和感を覚えた賢秀は聞き直した。
 同時にねねもまた、その賢秀の反応に、何かの引っかかりを感じた。

「……ええ、本能寺です」

「そうでござるか。妙覚寺ではなく、本能寺……か」

「妙覚寺」

 織田信長の京における常宿は、たしかに妙覚寺である。
 信長の正室、帰蝶。
 その父、斎藤道三は、若い頃、妙覚寺において修業していたと聞く。
 その縁もあってか、信長は、上洛した時は大体において妙覚寺を宿としていた。
 しかし、本能寺の変における当時、妙覚寺は、信長の息子、織田信忠が宿所としていた。

「…………」

 ねねが黙り込んだので、今度はまつが代わって説明をした。
 帰蝶に招かれて、本能寺にて歓談し、そのまま泊まったこと。
 泊まった翌朝、明智光秀の軍勢によって、本能寺が炎上したこと。
 その炎の中、帰蝶と信長は、おそらく……ということ。

「……さようでござったか」

 賢秀は瞑目した。
 まつの語り口は誠実であり、それゆえにこその真実味があった。
 試みに賢秀が、二、三、質問すると、まつはそれによどみなく答えた。
 これは、ほんとうか。
 賢秀は腕を組む。
 おそらく、ほんとうであろうが、それはそれで事態は最悪だ。
 明智光秀は、少なくとも京畿で最大兵力を誇っている。
 それが、それに対抗できる信長を屠り、今、狙うは近江、しかもこの安土であろうということだ。

「賢秀さま」

 近習から、京から使いがという知らせがあった。
 誰、と問うまでもなく、明智からですと近習は言った。

「別室に通しておけ。今、接客中だ」



 賢秀の「別室」という言葉に、近習は察するものがあり、明智からの使いを、遠い客殿へと通した。
 近習が去ろうとすると、使いは「これだけでも」と言って、書状を渡して寄越した。
 ……今、賢秀はその書状を手渡され、開けたものか、置いておくべきかともてあそんでいる最中である。

「蒲生どの」

 ねねはその書状に目もくれず、何事かを考えていたが、ついに、何かを思いついたようだった。

「何か」

「もはや、織田はほろびました。あとは、ご自身の思うままに。時間は稼いでおきました」

 賢秀は息を呑んだ。
 いきなり、何を言うんだ、この女は。
 

「ほ、亡びとは」

 ねねの隣、まつが、乾いた声で聞いてくる。

「当然のこと。本能寺の信長さまだけでなく、妙覚寺の信忠さまも討たれた。これをもって、織田の亡びと断じて、何がおかしい?」

「お、おかしいって……」

 伊勢の織田信雄、大坂の織田信孝が、いるではないかと思ったが、そこでまつは絶句した。
 信雄では、光秀に対抗できない。
 他の重臣や大名の勢力を糾合しようにも、凡将である信雄には、荷が重すぎる。
 信孝ならあるいはと思われるが、彼の今の本拠地としている大阪は、他ならぬ津田信澄が元々の支配者だ。
 明智光秀の女婿である、信澄の。
 信澄が光秀と繋がっていないにしても、大坂の信孝の兵は、急ごしらえで集めた兵。
 百戦錬磨の明智勢には、かなうまい。

「…………」

 賢秀は何も語らなかった。
 だが、今、まつの思いついたことを考えていたに相違ないと思わせる沈黙であった。

「……時間を稼いだ、とは?」

 沈黙の末に、賢秀はそれだけ口にした。
 そしてその答えを、賢秀は新たな闖入者の口から知ることになる。

「……親父どの、親父どの!」

 近江日野城より、蒲生氏郷どのご到来、という近習のかけ声よりも早く、この若武者は安土城の二の丸に駆けつけ、そして叫んだ。

「瀬田の唐橋が焼け落ちたぞ! 瀬田城もだ! それも、何者かの指示によると……」

「その『何者』です」

 ねねが振り返り、氏郷に一礼した。
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