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序の章 裏切られた明智光秀 ──本能寺の変──

06 瀬田の唐橋

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 京から出て、一路、北へ。近江へ。安土へ。
 そのためには、古来、京の町の北の玄関ともいうべき瀬田へと至らねばならない。
 瀬田には「瀬田の唐橋」という橋がある。
 かつては、舟と舟を、舟橋を作っていたという。
 からんだ橋から転じて、唐橋という。
 古来、壬申の乱や源平の戦い、そして南北朝の争いの舞台となった橋であり、織田信長が近江、京を制するにあたって、きちんとした橋が架けられたと伝えられる。
 つまり、京の北の玄関であり、瀬田それ自体は近江であるが、その瀬田の唐橋を渡らねば、近江に「入った」と言えない。
 今、ねねとまつは、忍びながらも瀬田に到達しつつある。
 だが、その瀬田に至って、唐橋を渡ったところで。
 近江の国は、少なくとも、南近江は、明智の縄張り。
 なぜなら、安土と双璧と謳われる、近江坂本城があるのだから。



「丹波は抑えとる。坂本はや」

 そううそぶくは、明智光秀である。
 あれから。
 妙覚寺から二条新御所へと移った織田信忠を討ち、光秀は快哉を叫んだ。

「やった。ついに。これで織田は終わりや」

 織田政権の屋台骨というべき、織田信長と帰蝶を本能寺にて焼き討ちにし、そしてそのふたりから受け継ぐ相手であった、信忠を討った。
 光秀は、己の仕事の余念の無さに、快哉を叫んだ。
 これで。
 これで、織田は終わった。
 次男の信雄、三男の信孝など、相手にならん。
 彼らは信忠のように、自分で考えて戦うことなど、できやしない。
 あるのはただ、反射するように攻められたら攻めるという、そこらの餓鬼大将のような対応のみ。
 そして、並み居る諸将はどうか。
 これもまた、結局は、ことになるだろう。
 大体、そういう風に、せめぎ合うように。
 信長は諸将を扱い、あるいはそうなるように、仕向けてきた。
 諸将がどんぐりの背比べとなるように。
 さすれば、誰かが一頭地を抜く、ということが無いように。

「それが過ぎると、佐久間や林のように、お役御免やで」

 佐久間信盛。
 林秀貞。
 いずれも信長の覇業の草創期からの功臣である。
 であるところが、働きの良くないことや、かなり昔の背信を理由に、致仕させられた。
 これで、信長の、否、織田の政権は安定を見た。
 そう思われた。
 ところが。

「織田家一の将、明智光秀わいの現れ」

 明智光秀。
 この、足利幕府からの転身により、ある意味、信長の家臣というよりは同盟者的立ち位置の男が、躍進を遂げ、図抜けた存在となった。
 何しろ、佐久間信盛や林秀貞のように、織田家生え抜きの将ではない。
 さりとて、羽柴秀吉のように、身分の低いところから取り立てられたという経緯もない。

やなあ。目の上か下か、知らんけど」

 ははっ、と笑う光秀だが、こうして笑えるのも、その迅速にして大胆な攻めにより、信忠と信長をほぼ同時に討つという離れ業を成し遂げたからこそだ。

「さて、や」

 光秀は馬上、重臣である斎藤利三を呼んだ。

「お召しで」

「おう。利三ゥ、例のふみ、書いてくれたかあ?」

「お指図のとおりに」

 利三がおごそかに懐中から書状を取り出す。
 光秀はそれを「ふむ」と言って広げ、眺めた。

「……重畳重畳ちょうじょうちょうじょう。これでええ、これでええ。ほしたら、早速、出したれや……お前のに」

 光秀が渡して返してきた書状を押しいただき、利三は「ですな」とうなずいた。
 斎藤利三は、徳川家光の乳母・春日局の父として知られるが、一方で、長宗我部元親の妻の兄としても知られる。

「せや、にも伝えたれや」

「承知」

 光秀は満足そうに微笑むと、馬首をひるがえす。
 その向かう先は、北。
 織田家の本拠である安土を抑える。近江を抑える。

「……さーて、安土に貯め込んだ金銀財宝、まとめていただこうかい。それに、羽柴や柴田にも牽制や」

 光秀はそつがない。
 彼は、この近江攻めの一石をもって、二鳥を獲得しようとしていた。
 つまり、安土を得るだけでなく、近江長浜もそのまま陥とすつもりである。
 近江長浜は、羽柴秀吉の最初の城。
 それを占拠して、さらに北にいる、柴田勝家の軍団への牽制とする。
 今やでなく、としての、光秀の第一歩だった。。



 瀬田。
 ねねとまつは、明智兵や、褒賞ねらいのに警戒しつつ、とうとうこの橋にまで到達した。
 京の北の玄関であり、実際に、この近くの瀬田城には、山岡景隆という信長の直臣が配置されていた。

「この山岡どのが問題」

 ねねは橋を渡りながら、隣のまつにささやいた。

「何が問題?」

 まつの返しに、ねねは、山岡景隆の弟、景猶かげなおは、明智光秀の寄騎よりきであり、「近江衆」と呼ばれる軍団の一員であった。

「ま、そこら辺期待して、光秀は背いたのでしょうけど」

 近江大溝城の津田信澄や、娘・玉の嫁ぎ先である丹後の細川忠興、それに大和における寄騎・筒井順慶など、京畿に光秀の係累は尽きない。
 ただし、例外はある。
 その例外が、近江長浜の羽柴秀吉。
 つまり、ねねの夫である。

「あ、ねね、山岡の兵がいますよ」

「……まつは山岡景隆と面識が?」

 ねねがそう聞いてくると、まつはうなずいた。
 まつは前田利家の妻である。
 元々は信長の赤母衣衆として名をはせた利家であるため、信長の直臣たちに対する伝手は豊富だ。
 当然ながら、まつもそれを把握していた。

「ふうん……」

 その時、ねねには閃くものがあった。
 思わず立ち止まって、それについて考えているところに、くだんの山岡の番兵が近づいて来た。
 まつがあわあわとして、ねね早くとうながしていたが、遅かった。

「そなたら、何故にこの橋の上で立ち止まっているのか。それに、女人にょにんふたりで、そんな薄汚れた格好でいかなるねらいで、この橋を渡るのか」

 何度も言うが、瀬田は京の北の玄関である。
 その瀬田を任された山岡景隆としては、何か怪しい動きがないか、警戒するのが仕事である。
 であれば、その番兵としては、女ふたりだけで、それも、薄汚れた格好で(本能寺から逃げて来たから当然の格好であるが)、橋を渡ろうとするのはいかにも怪しい。
 しかも、京方面で変事ありとの未確認情報もある。

「何か、申し開きがあるか。なければ、足労だが、瀬田の城まで来てもらおうか」

 山岡景隆というのは、かなりできた男だ。
 その番兵が、よく目が届いており、そして謹直であることからわかる。
 まつがそう感心している間にも、ねねはさっさとその兵の前に出て行き、こう言った。

「申し開きではありませんが、瀬田の城に連れて行ってください」

「は?」

 これはまつの言葉である。
 何を言っているのだ、この女は。
 そんなことより、何か言い訳を考えて、さっさと近江に入ろう。
 そんな目をしたが、ねねはどこ吹く風だ。

「これなるは羽柴秀吉の妻女、ねねと申します。こちらは前田利家の妻女、まつ。ぜひぜひ、このふたりでうち揃って、山岡景隆どのにお会いいたしたい……この意味、おわかりですね?」

 番兵は面食らったように、目をしぱしぱとさせた。
 そして、次なるねねの台詞に、度肝を抜いた。

「山岡どのにこの瀬田の唐橋、焼き落としていただくよう、このこと、わが夫、秀吉どのの命として、お伝えするためです」
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