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序の章 裏切られた明智光秀 ──本能寺の変──

02 その日、本能寺

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 においがした。
 何のにおいかと言われても、よくわからない。
 とにかく、においがした。
 ふと気がつくと、隣のまつもぱちりと目を覚まし、こちらを見た。

「ねね」

「まつ」

 ふたりはうなずくと、即座に夜着から、動きやすい服装へと着替える。
 ふたりとも、戦国の女であり、武将の妻である。
 何事かあった時のと、は、一流である。
 着替えながらも、ねねは本能寺の宿坊の障子越しに外の様子を見る。
 風が吹いているようだ。
 明るめになりつつあり、夜明けだと知れる。
 そして音。
 風に乗った、音。

「馬のいななき」

「結構な数」

 これが尾張時代の信長と帰蝶なら、それ織田の朝駆けだと思うところだが、今は京、本能寺の信長と帰蝶だ。

「帰蝶さまのところへ」

「急ぎましょう」

 ねねとまつが、障子を開けた時。

「敵は本能寺にあり!」

 その大声たいせいが響いた。



「……!」

 その声の主を、ねねは知っている。
 まつも知っている。
 織田家に生きる者なら、誰もが知っている。
 織田家一の将であり、羽柴秀吉も前田利家も、追いつけ追い越せと必死になっている相手。
 それは。

「われこそは惟任日向守これとうひゅうがのかみ! 十兵衛光秀じゃ!」

 明智光秀。
 信長が朝廷に手を回して、惟任という姓を賜わっていたため、任官した日向守とあわせ、今この時は惟任日向守十兵衛光秀と名乗っていた。

「……出て来んかい! この十兵衛を、いや、面白おもろい真似しよって!」

 光秀は織田家一の将だ。
 このの中でも、何かを策し、何かを動かしている。
 そう悟ったねねの鼻に、においが。
 そういえば、風が吹いていた。
 その風に、においが。

「これは……火?」

「……や! そっちがなら、こっちもやったる! 焼き討ちにしたる!」

 ぼう、という音と共に、何本かの火矢が飛んできた。
 火矢が刺さった箇所から、炎が上がる。
 寺が燃える。
 下手に寺に乱入せず、火によって、敵を燻り出し、そこを討ち取るという策だ。
 さすがに明智光秀、こうと決めたら、相手をとことんまでに追い詰める。

「急ぎましょう」

 ねねは廊下に出た。
 周囲を窺う。
 逃げ惑う人はいるが、敵兵はいなさそうだ。
 まだ。

「行こう、まつ」

「ええ」

 ふたりは走り出す。
 光秀が何を考えてあんなことを言ったのかは、今はわからない。
 ただ、今はただ、主・信長と帰蝶を救うために走るのみ。
 こうしている間にも、二の矢、三の矢と、火矢が降り注いでいる。



 気がつくと、本能寺の堂宇の各所から火が吹き上がっている。
 ある程度、集中して火矢を射ているのだろう。
 そして、その集中部分は的確で、寺の建物の主要な出入り口を確実に燃やしに来ている。
 すでに、寺の『表』、すなわち山門をやくしている明智勢は、寺からまろび出でた者を、火縄にて仕留めていた。

「表は、やはり駄目ですね、まつ」

「であれば、裏から行きますか、ねね」

「いえ‥…」

 おそらく光秀はそこまで計算して、派手に山門で大音声で呼ばわったり、火矢を飛ばしたりしているのだろう。
 そこで『裏』から逃げたところで、腹心の斎藤利三か伊勢貞興あたりが手ぐすね引いて待ちかまえているだろう。
 むろん、『表』の攻めも、抜かりなく執行し、寺、否、城の陥落を期す。
 派手さは無いが、堅実な、兵書どおりの用兵。
 それが、明智十兵衛光秀の身上。
 光秀自身の派手な身ぶり口ぶりに騙されて、に足元をすくわれた敵の、何と多いことか。
 ねねはそのあたりを夫・秀吉から聞いている。

「……これはいけません、まつ。光秀どの、いや、光秀は、攻めた時点で、もう、を作り終えている」

 まつは口を袖でおおいながらうなずいた。

「ねねも早く口をおおって。かくなる上は、信長さまと帰蝶さまを」

 死んでも、脱出させてあげねば。
 まつがそう言わずとも、ねねにはわかった。
 ふたりとも、ふたりの『今』が、ふたりの夫、秀吉と利家の『今』が、信長と帰蝶のおかげであることを知っている。
 だからこそ、命を張るのは『今』だと知っていた。



 一方の光秀。

「まだ……まだ見つからんかい?」

 かたわらに控えた弱冠二十歳の青年──伊勢貞興は、、と答えた。
 貞興は幕府名門・伊勢家のすえである。
 かつて、足利義昭が京を追われた時、貞興はそれに付き従わず、京に残った。
 そして織田家の近畿管領ともいうべき光秀に仕え、その緻密な行政手腕と、何より勇武を買われ、今では斎藤利三とならぶ、明智家の重臣である。
 光秀はその貞興の答えに、何ら反応せず、火縄銃に火をつけた。

「そうか」

 よわい六十を越える老人とは思えないほど、光秀は機敏な動作で火縄をかまえ、そして撃った。
 山門をくぐって出てきた侍がひとり、倒れた。

「たしかに妙覚寺かもしれへん。本能寺ここの連中、歯ごたえが無い……そも、織田家の京の定宿は妙覚寺や。斎藤道三入道のった寺やさかいな……よっしゃ」

 光秀は撃ち終えた火縄銃を貞興に渡しながら、言った。

「……ほンなら貞興、お前は妙覚寺に行け」

「承知」

 貞興は貰った火縄を軽く振りながら、妙覚寺へと馬首を向けた。

「頼むでぇ、貞興」

 貞興の背に、光秀の声がかかる。

「妙覚寺に奴がいれば、討ち取れ。けして逃がすな」

 貞興は馬に鞭を当てることで答えた。
 妙覚寺へ早く駆けつけることにより、主・光秀の信にこたえる。
 伊勢貞興とは、そういう男だった。



 その頃、本能寺の最奥部では。

「……帰蝶、今、蘭丸に物見をさせたところ、敵の旗印は桔梗ききょうとのことだ」

「……十兵衛どの、ですか」

 信長と帰蝶はすでに異変を察し、身支度を終えていた。
 蘭丸には、「ねねとまつを探せ」と命じたため、今、ふたりの他には、弥助しかいない。

「……ことここに及んでは、是非もなし」

「……諦めるのは、早すぎやしませんか」

 信長は素直に状況を認めていた。
 光秀が、あの明智光秀がこうまで攻めてきている以上、逃げることはかなわないであろう。
 一方、帰蝶の方は、まだ諦めきれなかった。

「……だって、あの十兵衛どのですよ? 

 常に微笑みをたたえて、信長のことを見守ってきていた帰蝶だが、ここで

「甲州征伐の時も! 家康どのの接待の時も! あの時も! あの時も! みんな! みんな! 十兵衛どののためじゃないですか! それを……それを……」

 叫んだものの、最後には意気消沈する帰蝶。
 信長は、その肩を優しく抱いた。

「……人間、誰しも勘違いをする。誰しもが老いるように。光秀の矜持きょうじを考えて、変に言葉を尽くそうとしなかった予が悪かったのだ」

「うう……」

 嗚咽をもらす帰蝶。
 その帰蝶の耳に「さらばだ」と信長は声を落とした。
 帰蝶の顔が驚きに変わろうとする瞬間、信長の当て身が当たった。

「な……にを……」

「行け。十兵衛は、お前の首までは取らん。予が殿しんがりをする」

「そ……んな……」
 
 信長の、照れたような顔。
 それが、帰蝶の信長についての、最後の記憶となった。



「……上様、ねねさまとまつさまは、すでに宿坊を出られておりました」

「で、あるか。何処へ行ったかは見当は?」

「それが、皆目……」

「ふむ……」

 おそらく、ねねとまつのふたりは、帰蝶と信長を目指しているはず。
 そんな性格だ。
 だが、本能寺は初めての寺。
 そして、この火攻め。
 蘭丸と行き違いになり、迷うている、というところか。

「……よし、ならば決めたとおりじゃ。弥助!」

「ハイ」

「そなた、悪いが帰蝶を逃がしてやってくれ」

「……ハイ」

「そんな顔するな。お前にしか、頼めん」

 信長がそう言って、弥助の肩を叩くと、弥助は泣きながら帰蝶を抱え上げた。
 奴隷として鞭打たれていたところを救い出してくれた恩。
 弥助はそれを命の恩と思っており、今、それに報いる時であることも知っていた。

「では行け、弥助! お前の姿は、ねねとまつの目に留まる。その時は、そのふたりも連れて逃げるのだぞ!」

「ハイ!」

 すでに火の回った本能寺の廊下であるが、弥助はその巨躯で帰蝶の体を守りながら、突進する。
 その背に「さらばだ」と呟きながら、信長は、床に落ちていた帰蝶の打掛を拾った。

「蘭丸」

「はっ」

「すまんな、お前には死んでもらうことになる」

「元より承知でございます」

 得たりかしこしと、蘭丸は信長の手から帰蝶の打掛を受け取り、それをまとった。
 そしてもとどりを切り落とし、髪を下ろすと、帰蝶のような美女に見えた。

「……この姿にて、上様と共に戦わば、帰蝶さまこれにありと敵は思うはず」

「……まあ、十兵衛に見られたらばれるが、雑兵端武者ぞうひょうはむしゃにはそう見えような」

 明智光秀と帰蝶は従兄弟の関係にあると言われている。
 そうでなくとも、織田家一の将であるならば、主君の正室の顔は、見まごうはずがない。

「いずれにせよ、蘭丸、お前は死ぬぞ」

 信長は言外に、まだやめる余地があると言っていた。
 だが蘭丸はかぶりを振った。

「父、森三左衛門可成もりさんざえもんよしなりが宇佐山城の戦いで死ぬ前に、何故でしょうか、まだ幼かった私に、言ったことがあります」

 ――いいか蘭丸、この森の家がここまでになったのは、織田の信長さまのおかげよ。だから信長さまに一朝ことあらば、その時は身命を賭せ。

 信長はその言葉に深くうなずいた。

「……三左らしいの。死してなお、『攻めの三左』、か」

 生前の森可成の二つ名である。
 信長はその『攻めの三左』の姿を、蘭丸を通してみたような気がした。

「……よし、では参るか、蘭丸」

「その前に、信長さま」

「何だ」

「褒美の前渡しに、ひとつお願いが」

「言うてみい」

 おそらくその命をささげることになるであろう若者の願いだ。
 何であろうと聞いてやろうと耳を傾けた信長。
 だがその耳に届いたのは、意外な願いだった。

「……信長さまの、を聞きとうございます」



 信長は破顔した。
 そして、亡き森可成の薫陶くんとう、ここにありと感銘を受けた。

かなかな……これからのいくさに、これほどふさわしい唄もあるまい……来るぞ」

 もう、開けた障子の向こうにまで敵が迫って来ていた。
 信長はいつの間にかかまえていた弓に矢をつがえた。
 蘭丸は帰蝶愛用の薙刀を手に取って、ひと振りする。

くぞ、蘭丸!」

「はい、信長さま!」

 信長が矢を放ち、蘭丸が突進する。
 炎渦巻ほのおうずまく本能寺の廊下。
 その中を矢が突き抜け、薙刀の刃が風を切った。
 喉笛に矢の刺さった足軽が、袈裟斬りに斬られる。

「〽死のふは一定いちじょう

 信長が二の矢をつがえ、蘭丸は薙刀を振りかぶる。
 あそこだ、いたぞ、と敵の侍大将とおぼしき武者が指を差している。
 その武者の右肩に矢が突き立ち、どよめく足軽のひとりを、蘭丸が斬った。

「しのび草には何をしよぞ」

 殿を呼べ殿を呼べと叫んでいる。
 さっきの侍大将だ。
 見ると、見知った老人が、猛禽のようにぎらついた顔で、舌なめずりしながら現れた。

本能寺ここに居たのは……か! 織田……信長ア!」

 強引に三の矢を放つ。
 弓弦が切れた。
 その隙に、手近の兵から鉄砲を奪った老人――光秀が撃った。

「 一定かたりをこすのよ」

 腕にめり込んだ銃弾の痛みに顔を歪ませる。
 蘭丸は薙刀を光秀に投げつけた。
 小癪な、と鉄砲でそれを受ける光秀。
 だがそこで信長の視界は閉じた。
 蘭丸が障子を閉めたからだ。
 ちょうど、火が劫火となって、信長の周囲を覆った。

「……是非も無し」

 織田信長、享年四十九歳。
 その最期の言葉は、一体、何に対してのものだったのか、誰にも知る由はなかった。
 ……今は。




[作者註]
「死のふは一定いちじょう、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ」
(太田牛一「信長公記」)

「死ぬのは、きっと定まっている。ならば、その死を、人生をしのぶ語り草に何をしよう? きっと語り起こされる、何かをしよう」という意味で、信長が好んで唄っていたと伝わっています。
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