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序の章 裏切られた明智光秀 ──本能寺の変──

01 前夜

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 天正十年六月十三日。
 山崎。

 硝煙のにおいがした。
 火縄銃のにおいだ。
 ねねは、これから訪れる大いくさを、鼻で感じ取った。

「……来る」

 ねねの静かな叫びに、羽柴秀吉は大いにうなずいた。

「おうい、皆の衆、わが妻女がてっきのにおいを嗅いだでなア、もっすぐ、来るぞ、日向ひゅうがが」

 おお、というおめき声が上がる。
 日向というのは、惟任日向守これとうひゅうがのかみ、つまり明智光秀である。

「……ついに、来た」

「おう、そうじゃあ、ねねよ、おみゃあの読みどおりよ」

 おみゃあは天下一の女房だで、と秀吉は持ち上げた。
 実際、ねねを抱きかかえた。

「……やっ、やめなさい! みんな、見てる!」

「かまわん、かまわん」

 秀吉は呵々大笑しながら、ねねを肩に置く。
 小兵こひょうの秀吉であるが、体幹はしっかりしている。大樹のように。
 これでは、まるで自分こそが猿のようだとねねは感じた。

「もうすぐだ、ねね」

「……ええ」

 風がねねの髪をなぶる。
 あの時も、こんな風が吹いていた気がする。
 もう十日ほど経つのかと、ねねはひとりごちた。

「あの……本能寺の時から、十日」

 十日どころか、それ以上、十年以上も経っているような気がする。
 ねねは思い出す。
 あの時、天正十年六月二日、その夜。
 ねねは本能寺にいた。
 織田信長の正室、帰蝶に招かれて。
 そして……。





STRIKE BACK ! ~ 中国大返し、あるいは、この国を動かした十日間を、ねね(北政所)と共に~





 京。
 本能寺。
 昼日中ひるひなか
 今この時は天正十年六月一日であり、まだ明智光秀は「敵は本能寺にあり」と大声たいせいしていない。
 それはまた、明日のことである。
 さて、今日六月一日、羽柴秀吉正室・ねねは、前田利家正室・まつとと共に、帰蝶の招きを受けていた。
 織田信長正室・帰蝶。
 美濃の戦国大名・斎藤道三の娘である。そして道三は一代の梟雄である。
 京の油商人・山崎屋庄五郎として名を成し、ひと財産を築くと、今度はその財産を使って、美濃での猟官を開始。瞬く間に美濃小守護代・長井家の名跡を継ぎ、長井新九郎と名乗る。
 ……気がついたら、見事、美濃の国主・斎藤道三となりおおせていた。
 帰蝶は道三の意を汲んで、尾張の織田家へと嫁す。
 その相手は織田信長といって……今に至る。

「桶狭間からこっち、まるで夢のようでした」

 とは、茶室にて茶をてながら言う帰蝶の台詞である。
 桶狭間。
 稲葉山。
 姉川。
 叡山。
 長篠。
 そのような戦場をくぐり抜けながら、やって来た信長と帰蝶。
 帰蝶は、戦場に立つことはあまりなかった。
 主に信長を見送り、留守を守る立場だ。
 離れることの多かった二人だが、それでも、共に戦ってきた、という認識がある。

「それらはまるで、夢のよう……今こうして、織田が天下を制しつつある今、夢のように思えます」

 聞くと、明日にも信長と帰蝶は、織田信忠と共に朝廷に参内するという。

「この折りに、みかどに言上つかまつりたいのです。天下静謐てんかせいひつは、今や眼前。なれば、天下の仕置き、これを……」

 そこまで言って、帰蝶は気がついたように口を閉じた。

「ごめんなさいね、こたびはねねとまつの四方山話よもやまばなしを聞く、ということでお呼びだてしたというのに。この歳になると、どうしてもおのれ語りが多くていけません」

「いえいえ」

「そんな」

 ねねとまつは、二人とも手を振って否定し、そしてそそくさと出された茶を手に取って、喫した。

「おいしい……」

「ほんに。又左またざもこれくらいできれば」

 又左とは、まつの夫・前田又左衛門利家まえだまたざえもんとしいえの愛称である。
 利家もまた、茶を好み、妻女であるまつに馳走していたが、帰蝶に比べれば「まだまだ」という領域らしい。

「ほほ。まつ、気持ちは嬉しいですが、そんなに言うと、又左がしょげますよ?」

 まつはねねのほうをちらとうかがいながら言った。

「いいんです! あんな甲斐性なし!」

 まつは容赦ない。
 かつての同僚である羽柴秀吉は、今では中国攻めの大将なのに、当の夫・前田利家は、北国にて柴田勝家麾下の一部将に過ぎない。
 舌鋒も鋭くなろうというものである。
 しかし、ねねはと言うと、

「それより帰蝶さま」

「なんですか」

「信長さまは、信忠さまと一緒に、帝に何を言上されるのですか?」

「……それ、聞きますか」

 帰蝶は苦笑した。
 ねねは気になるところがあると、突き詰める性格である。
 その「気になるところ」が勘所を抑えている、というのが、ねねが秀吉を押し上げていると言われる所以ゆえんである。
 だが、ねねからすると、聞きたいことを聞いているだけで、特に他意は無い。
 むしろ、秀吉の方が、「今日、どんなことがあったのきゃあ?」と聞いてきて、それに答えて……という次第である。

「……ちょっとこれはまだ言えませんね。ただまあ」

「明日になればわかる」

「信長さま?」

 帰蝶の言葉をつないだのは、誰あろう、織田信長当人である。
 いつの間にやら、寺の大広間から忍び出で、こちらの茶室に参上したらしい。
 ねねとまつは、大急ぎで拝礼を施す。
 信長は鷹揚に、それには及ばずと、手を振った。

「ここは茶室ぞ。あるのは、主人と客のみ。であれば、拝礼など、不要じゃ」

 そう言いながら、信長はどっかりと腰を下ろした。
 狙い澄ましたように、帰蝶が信長に茶を差し出す。

「これは、ありがたし」

「信長さま、大広間の方は?」

「大事ない。すべて、城介に任せてある」

 城介とは、秋田城介を朝廷より補任している、織田信忠のことである。
 その信忠は、先般、甲州征伐のみぎり、信長から「天下の儀も御与奪なさるべき」と称えられている。すでに織田家の家督自体は譲られているため、信忠が名実共に織田政権の主となるのは、間近かと囁かれている。

「信長さま、信長さま」

 ねねは信長が茶を喫し終わるのを待たず、話しかけた。
 隣のまつが、袖をちょいちょいと引っ張るが、かまわずに話しかけた。

「なんだ、ねね」

 当の信長は気にせず、ねねに応じる。
 実は信長、ねねのことをかなり気に入っている。
 この間も、ねねが秀吉の浮気に悋気りんきを発している時、励ましの書状を送ったぐらいだ。

「……で、明日、城介さまと何をなさるのです?」

「これ」

 帰蝶が嗜めるように口を尖らせるが、信長は面白そうにくっくっと笑った。

「……で、あるか。なるほどなるほど……やはり、気になってしまうか」

 信長はわざとらしく思案顔をした。
 しかし片目をつぶって、帰蝶に合図する。
 わかっている、と。

「では言おう」

 信長は咳払いをした。

「城介は明日、織田秋田城介信忠では。以上だ」

「……は?」

 ねねとまつは、顔を見合わせた。
 帰蝶は忍び笑いをしている。
 ねねはなおも聞こうと身がまえたが、その時、茶室に新たな人物が現れた。

「ウエサマ、ソロソロ、オオヒロマデ、シバノトノサマガ、オヨビネ」

 その、の日本語をしゃべる、黒人の大男の名は弥助。
 元は、宣教師に連れられていた奴隷の身分だったが、信長の目に留まり、家来にと引き取られた。以来、信長、そして信忠の身辺警護のような役割を果たしている。

「おう、そうか」

 信長は立ち上がった。
 ねねにこれ以上、問いつめられてはかなわんという様子である。

「では、すまんの。まつもゆっくりしていくが良い」

 まつが恐れ入っている隙に、信長はそそくさと茶室を出て行った。
 ねねは物足りなそうな表情をしていたが、帰蝶にもう一杯と茶をすすめられると、相好を崩すのであった。



 そして。
 夜。
 織田信忠が、副将の佐久間信栄さくまのぶひで(佐久間信盛の子)に呼ばれて、織田家の京における常宿、妙覚寺(帰蝶の父・斎藤道三の修業した寺であるため)へと戻っていき、ねねとまつは「泊まっていきなさい」と帰蝶に言われて、宿坊に向かった。
 その時、ねねの目に、寺の裏門へと歩いていく森蘭丸の姿が見えた。

「蘭丸どの」

「これは、ねねさま、まつさま」

 森蘭丸。
 信長の小姓である。
 美少年であるため、そういう意味でも信長の寵愛を受けている、との、もっぱらのうわさがある。
 その美童が一礼をした。

「おやすみに向かうところ、不調法にもお目ざわり、まことに恐悦至極」

「いえ。蘭丸さまこそ、こんな夜遅くに、いかがなされたか」

「ちとあるお方に、全軍で来てくれと……いえいえ、主命です」

 蘭丸は悪戯っぽく笑って一礼すると、寺の裏門から出て行った。
 馬に乗ったらしく、馬蹄の音が聞こえた。
 音の方角からすると、蘭丸の行く先は、北、いや北西か。

「北西……本能寺、京の北西。老いの坂、大江山」

 古来、賊の住まう地として知られる大江山を目指して、蘭丸はどこへ行くのか。

「大江山を通って……山陰。そこには」

 丹波亀山、という土地と、今そこにいるはずの、織田家一の武将を思い出すねねに、まつは「早く寝ましょう」と声をかけた。

 ……こうして、天正十年六月一日の夜はけていった。
 そしてその夜が明ける時。
 この国は運命の日、天正十年六月二日を迎える。
 世にいう――「本能寺の変」、その日である。
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