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05 劉青田(りゅうせいでん)の故智

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 劉青田りゅうせいでんという人物がいる。本名である劉基の方が、本邦では知られている。青田というのは、劉基の出身地である青田県に由来する呼称である。
 そして、その劉青田は、明の太祖洪武帝を支えた軍師として名を馳せた。
 就中なかんずく、彼の軍師としての才知が光った戦いと言えば。

鄱陽湖はようこの戦いの、劉青田の故智にならう?」

 吉安きつあん知府、伍文定ごぶんていはようやくに整った吉安の民兵を閲兵して、では出陣をと王陽明に指示を乞うたところだった。
 そこで王陽明が述べたのが「劉青田の故智」である。
 まず、鄱陽湖はようこの戦いについて説明すると、これは洪武帝がまだ朱元璋という一勢力の長に過ぎなかった頃、陳漢という大勢力の皇帝、陳友諒にから大攻勢を受けた。
 陳友諒は六十万もの艦隊を率いており、まさに大攻勢と言える。対するや、朱元璋はせいぜいが二十万の艦隊をかき集めて、これに抗った。
 絶対的な不利の状況であったが、そこで朱元璋は軍師である劉青田に策を乞うた。

「その策を用いる、と」

 伍文定は、自身が吉安民兵を鍛えている間に、王陽明が間者を使って集めた情報を記した文書を見ていた。

「しかし、鄱陽湖の戦いと言われても、そうそう都合よく……」

 伍文定の手が止まった。
 その手に持っている書状は、寧王の艦隊が、王陽明の混水摸魚こんすいぼぎょの策により、ついに南京への征旅から引き返したことを伝えていた……

「こ、れ、は……」

 伍文定は唖然とした。
 鄱陽湖の戦いと言えば、国父たる朱元璋が、その乾坤一擲の戦いによって躍進し、やがて皇帝として即位する契機となった、いわば興国の戦いであって、明の士大夫なら誰でも知っていると言っていい。

いわんや、皇族をおいておや……」

 絶句する伍文定に代わって、王陽明が静かに言葉を繋いだ。
 その間に息を呑んだ伍文定は、やっとの思いで口を開いた。

「こ、こんなことが……こんなことを……寧王は……太祖のすら、学んでいないのか」

 そんなことで、よくも叛乱などという行動に踏み切ったものだ。
 呆れた伍文定が、改めて書状に目を落とす。
 そこには、こう書かれていた。

「寧王、李子実と劉養正に対する疑念晴れず。その裏切りを警戒してか、航行し、南昌へと取って返す模様……」



 鄱陽湖の戦いにおいて、陳友諒は己の大艦隊を鎖で繋ぎ、それをもって押し寄せる大魚と化して、朱元璋を攻め立てたという。
 今、寧王はまさにその陳友諒と同じことをしているのだが、彼にはその認識はない。あるのは、李子実と劉養正の裏切りへの警戒であり、そもそも彼にとっての「先祖」はどちらかというと、洪武帝朱元璋ではなく、初代寧王・朱権である。

「初代寧王たる祖、朱権が永楽帝に約されたという広大な領土。天下を取れずとも、少なくともを貰わねば、もはや立ち行かぬわ!」

 靖難の変当時の、あるかないか不明であった約定が頭をちらつき、そこからさらに昔の、太祖の天下分け目の戦いなど、覚えてはいても、今の自分には関係ないとばかりに、頭の片隅に放っておかれた。

「ええい、とりあえず南昌へ戻るのだ。そして改めて北京に永楽帝の時の約を果たせと怒鳴りつけてやる! さあ、早う南昌へ! 何をぐずぐずしておる?」

 半ば軟禁状態にある李子実と劉養正がこれを聞けば、何を言っているのか、と頭を抱えるであろう。
 李子実と劉養正は、少なくとも寧王に対して忠実に作戦を立案し、初手として南京を制圧し、そこで皇帝として自立するという策を考えた。まさに、洪武帝のように。
 それが、どうだ。

「われらが返り忠? 南昌が危ない? 何を世迷言を」

 こうなっては明の、北京の対応が後手後手なのが救いである。
 彼らとしては、とりあえずいち早く南昌へ戻り、その無事を確認して寧王の迷いを晴らし、改めて南京出征への策を練ろうとしていた。

「それにしても」

 李子実は、ぎしぎしという音が船の外から聞こえてくるのを不審に思った。

「何だ、この音は。船のどこか痛んでいるのか?」

 劉養正はたまたま食事を持ってきた衛兵に、この音は何だと聞いた。

「ああ、それは鎖でございます」

「鎖?」

 何故、鎖なのか。
 そこまで考えて、劉養正はぎょっとした。

「おい、ご同輩!」

 呼ばれた同輩の李子実も、やはり青ざめた顔をしていた。

「船を、艦隊をだと……まずい!」

 劉養正は、急ぎ寧王に具申したい儀があると、衛兵に懇願した。
 だが衛兵は首を振った。

「……すみません。お二方が何を言おうが、絶対に耳を貸すな。絶対に伝えるなという、寧王さまの厳命です」

「何と……」

 李子実と劉養正は悄然と肩を落とした。
 彼らは南京攻略を目指しただけに、朱元璋の取った戦略と、劉青田の献策した戦術を当然記憶していた。

「このままでは……」

 呟く李子実の耳に、敵襲、という外からの叫び声が響いてきた。
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