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04 混水摸魚(こんすいぼぎょ)
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水を混ぜて魚を摸る。
そんな言葉がある。
兵法三十六計のひとつである。
兵法三十六計とは、「三十六計逃げるに如かず」の三十六計であり、魏晋南北朝時代の宋の名将、檀道済の著すところである。
そして、この混水摸魚であるが、水を混ぜ、それによって魚を混乱させ、そこを獲るという意味である。
さて、時と場所を、明の吉安に戻そうと思う。
江西巡撫・孫燧の死を知って、王陽明は「少し一人にさせてくれ」と吉安城内を独歩していた。
孫燧。
王陽明が科挙に受かった時の同期である。
正確には郷試という科挙のひとつの段階の試験だが、それでも王陽明は、孫燧とは特別な間柄の仲であると考えていた。
その孫燧は今、江西巡撫という役職に就いていた。巡撫、すなわち地方における最高官であり、当然ながら、軍事や治安も司っていた。
それを殺すということは。
「寧王の叛意はやはり本物。そう断じても間違いあるまい」
吉安の知府、伍文定もことここに至っては、寧王を叛逆者と捉えざるを得ないと判断したという。
王陽明の独歩はつづく。
「今、大明帝国は危急存亡の秋。この秋……秋は白。白の境にて、われ、金烏として舞わん」
われながら、へたな詩だな、と王陽明は苦笑した。
その間、吉安知府の伍文定が、城内に怪しい者がいるとの報を受け、即座に確保を命じた。
伍文定はこの後、王陽明と轡をならべて戦うだけあって、戦うと覚悟を決めれば果断な男だった。
「何者だ」
「言えぬ」
だが、この時期に、吉安に潜り込む輩など、出自はとうに知れている。
「急ぎ、陽明先生を呼べ。敵の、寧王の間者を捕らえたとな」
伍文定が獄の看守を呼び、間者を連れて行かせた後に、王陽明は戻ってきた。が、間者には会わなかった。
「陽明先生、何故に会わぬのです」
「伍知府よ、落ち着け。私に一計がある」
王陽明は部下に地図を持って来させた。
南昌、吉安、そして南京が載っている地図を。
「見なさい」
王陽明は南昌を指差す。
「寧王が挙兵したとして、まず、何処を目指すと思うか」
「それは」
この近くで大きな都城といえば、南京である。
「そう、南京応天府。かつて太祖洪武帝陛下が最初の拠点とした地である」
当時、駆け出しであった洪武帝・朱元璋が手に入れ、そして即位した地である。
朱元璋の子孫である寧王・朱宸濠としては、一も二もなく押さえ、先祖の顰に倣いたいところである。
「先生、では」
「だが哀しいかな、今の私の軍、そして知府の募っている兵では足りぬし、間に合わぬ」
実際、この時寧王は、十万のうち六万の兵を割いて、九江を下っていたという。
「…………」
伍文定はこの時、未だに何の反応も寄越さぬ北京に苛立ちを感じた。
いかに硬直しているとはいえ、叛乱だ。
今少し、急使を発するだの何だの、何かしないのか。
「落ち着け、知府。天はわれらを見放してはいないぞ」
間者を捕まえたことはお手柄であると、王陽明は伍文定を称揚した。
*
寧王の配下に李士実と劉養正という者がいる。いわば幹部である。
伍文定に捕まった間者は、その二人を知らないかと獄の看守に言われて、当然「知らぬ」と答えた。
「そうか、それは残念」
看守はおもむろに懐から巻物を出して、これを持って行ってもらうつもりであったが、繋ぎの間者はお前ではなかったか、と零した。
「ああ残念、残念」
看守は持ち場に戻って、卓の中に隠し持っていた酒を飲み始めた。
王陽明と伍文定は相当に忙しいらしく、その部下すらこの獄に来ないらしい。
看守は太平楽を気取って、どんどん手酌で杯を重ねた。
「ふわあ……」
そのうちに看守は欠伸をして、卓の上に突っ伏した。
その拍子に、看守の懐から、ころころと巻物が転がっていった。
「…………」
看守は眠っている。吉安にいる王陽明の軍の者も来そうにない。
間者はそっと袖から針金を出し、獄の錠前に差し込んだ。
かちりと鳴って、錠前が外れる。
無音で獄から出でて、小走りに巻物を拾う。
そのまま、吉安の城中の廊下をひた走る。
暗がりを見つけ、そこに飛び込む。
開いた巻物に、李士実と劉養正という名があった。
*
寧王は、一路南京へと進んでいく御座船の中で、直属の間者が持ってきたという巻物を開いた。
「王陽明の直筆のようだな」
すでに大官となり、武将としても秀でた王陽明の書は、寧王も偶さかに見たことがあった。
寧王がその王陽明の親書ともいうべき巻物を読み進んでいくと、とんでもない内容が目に飛び込んで来た。
「これは……李子実と劉養正のことか? 両君の国に対する忠義、深く理解している? ゆえに……ゆえに寧王が南昌を離れ、戻ったその時……その時……」
寧王の手がわなわなと震える。
王陽明の巻物は、とんでもないことが書かれていた。
寧王が南昌から征旅に出でた隙に、王陽明の軍が南昌を陥落する。
そして寧王が南昌に戻ったその時。
「寧王を内外呼応して捕らえん、だと……」
そんな言葉がある。
兵法三十六計のひとつである。
兵法三十六計とは、「三十六計逃げるに如かず」の三十六計であり、魏晋南北朝時代の宋の名将、檀道済の著すところである。
そして、この混水摸魚であるが、水を混ぜ、それによって魚を混乱させ、そこを獲るという意味である。
さて、時と場所を、明の吉安に戻そうと思う。
江西巡撫・孫燧の死を知って、王陽明は「少し一人にさせてくれ」と吉安城内を独歩していた。
孫燧。
王陽明が科挙に受かった時の同期である。
正確には郷試という科挙のひとつの段階の試験だが、それでも王陽明は、孫燧とは特別な間柄の仲であると考えていた。
その孫燧は今、江西巡撫という役職に就いていた。巡撫、すなわち地方における最高官であり、当然ながら、軍事や治安も司っていた。
それを殺すということは。
「寧王の叛意はやはり本物。そう断じても間違いあるまい」
吉安の知府、伍文定もことここに至っては、寧王を叛逆者と捉えざるを得ないと判断したという。
王陽明の独歩はつづく。
「今、大明帝国は危急存亡の秋。この秋……秋は白。白の境にて、われ、金烏として舞わん」
われながら、へたな詩だな、と王陽明は苦笑した。
その間、吉安知府の伍文定が、城内に怪しい者がいるとの報を受け、即座に確保を命じた。
伍文定はこの後、王陽明と轡をならべて戦うだけあって、戦うと覚悟を決めれば果断な男だった。
「何者だ」
「言えぬ」
だが、この時期に、吉安に潜り込む輩など、出自はとうに知れている。
「急ぎ、陽明先生を呼べ。敵の、寧王の間者を捕らえたとな」
伍文定が獄の看守を呼び、間者を連れて行かせた後に、王陽明は戻ってきた。が、間者には会わなかった。
「陽明先生、何故に会わぬのです」
「伍知府よ、落ち着け。私に一計がある」
王陽明は部下に地図を持って来させた。
南昌、吉安、そして南京が載っている地図を。
「見なさい」
王陽明は南昌を指差す。
「寧王が挙兵したとして、まず、何処を目指すと思うか」
「それは」
この近くで大きな都城といえば、南京である。
「そう、南京応天府。かつて太祖洪武帝陛下が最初の拠点とした地である」
当時、駆け出しであった洪武帝・朱元璋が手に入れ、そして即位した地である。
朱元璋の子孫である寧王・朱宸濠としては、一も二もなく押さえ、先祖の顰に倣いたいところである。
「先生、では」
「だが哀しいかな、今の私の軍、そして知府の募っている兵では足りぬし、間に合わぬ」
実際、この時寧王は、十万のうち六万の兵を割いて、九江を下っていたという。
「…………」
伍文定はこの時、未だに何の反応も寄越さぬ北京に苛立ちを感じた。
いかに硬直しているとはいえ、叛乱だ。
今少し、急使を発するだの何だの、何かしないのか。
「落ち着け、知府。天はわれらを見放してはいないぞ」
間者を捕まえたことはお手柄であると、王陽明は伍文定を称揚した。
*
寧王の配下に李士実と劉養正という者がいる。いわば幹部である。
伍文定に捕まった間者は、その二人を知らないかと獄の看守に言われて、当然「知らぬ」と答えた。
「そうか、それは残念」
看守はおもむろに懐から巻物を出して、これを持って行ってもらうつもりであったが、繋ぎの間者はお前ではなかったか、と零した。
「ああ残念、残念」
看守は持ち場に戻って、卓の中に隠し持っていた酒を飲み始めた。
王陽明と伍文定は相当に忙しいらしく、その部下すらこの獄に来ないらしい。
看守は太平楽を気取って、どんどん手酌で杯を重ねた。
「ふわあ……」
そのうちに看守は欠伸をして、卓の上に突っ伏した。
その拍子に、看守の懐から、ころころと巻物が転がっていった。
「…………」
看守は眠っている。吉安にいる王陽明の軍の者も来そうにない。
間者はそっと袖から針金を出し、獄の錠前に差し込んだ。
かちりと鳴って、錠前が外れる。
無音で獄から出でて、小走りに巻物を拾う。
そのまま、吉安の城中の廊下をひた走る。
暗がりを見つけ、そこに飛び込む。
開いた巻物に、李士実と劉養正という名があった。
*
寧王は、一路南京へと進んでいく御座船の中で、直属の間者が持ってきたという巻物を開いた。
「王陽明の直筆のようだな」
すでに大官となり、武将としても秀でた王陽明の書は、寧王も偶さかに見たことがあった。
寧王がその王陽明の親書ともいうべき巻物を読み進んでいくと、とんでもない内容が目に飛び込んで来た。
「これは……李子実と劉養正のことか? 両君の国に対する忠義、深く理解している? ゆえに……ゆえに寧王が南昌を離れ、戻ったその時……その時……」
寧王の手がわなわなと震える。
王陽明の巻物は、とんでもないことが書かれていた。
寧王が南昌から征旅に出でた隙に、王陽明の軍が南昌を陥落する。
そして寧王が南昌に戻ったその時。
「寧王を内外呼応して捕らえん、だと……」
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