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02 横山大観
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「……春草! おい春草!」
ぴたぴたと。
頬を叩く音がする。
ああこれは自分の頬だと認識すると、叩く手のことも触覚で感じる。
ごつごつとした手。
だが、指は意想外に細やかで、如何様なタッチにも応じられるような。
「オイ春草!」
うるさいな。
そう思った時、目が覚めた。
すると見知った顔が、こちらを覗き込んでいた。
「何だ、大観か」
「何だ、は無いだろう。春草」
横山大観。
菱田春草と同じく、日本画の画家である。
繊細で冷静な春草に比し、大観は豪放で磊落だ
その磊落な笑みを浮かべて、大観が言った。
「何だ虫の知らせがして来てみれば」
画家としてライバルでもある春草の、敵情視察にでも行くかと洒落込んだ大観。だが、春草宅の近所の焼き芋屋のあたりに至って焼き芋を買っている時に、春草の書生と遭遇、菱田家の災難を知ったという。
「書生君、泡を食ってたぞ。細君と坊主のために、医者を呼んでくると言ってた」
「そうか」
卓上に何やら湯気立つ何かがある。
さっきの夢は、『あれ』のせいか。
大観も春草の察していることに気づいた。
「いやあ悪いな。何でも焼き芋が細君と坊主の好物と聞いていたから」
ホレお前も食うか、と大観は遠慮なく焼き芋を一つ手に取って寄越す。
否応もなく眼前に差し出されたそれを、春草は何気なく手に取った。
が。
「悪いが、そういう気分じゃないよ。これは妻と息子にあげてくれ」
「オイどうした」
珍しく、弱気じゃあないかと大観は春草の肩を抱いた。
どちらかというと神経質な春草の懐に、ここまで『入れる』のは大観だけであり、そんな大観だからこその気遣いだった。
「あれか? 文展のあれか? もしかして……描けてないのか」
「……ああ」
「あと、五日か……」
大観は春草の描きかけの「雨中美人」を見た。
モデルは春草の妻。
だが貧血に倒れた。
治っても、熱にうなされる長男の世話をせねばなるまい。
そして審査員の仕事。
名誉ある仕事だ。
投げ出すことは、すまい。
大観は唸った。
春草は天才だ。
躰さえ万全ならば、「雨中美人」はとっくに完成しているはずだ。
それが。
「描くよ」
春草の決然たる言葉。
大観は目を剥いた。
「描けるのか」
「描ける」
ただし、と断りを入れてから、春草は棚のところへ歩いて行って、絵絹を取り出した。
「屏風絵はやめる。新たに描く」
「……何をだ」
大観は年来の親友が無茶をしないことを知っていた。
だが、『勝算』はあるのかと聞きたかったのだ。
「猫を描く。黒き、黒き猫を。この代々木の柏の木に鎮座する」
「そうか」
目がよく見えない春草だが、この住まいの近くの雑木林のことなら、見ずとも描けると言っていい。
それに黒猫なら。
「冥王なら、着物ほどは色調を気にせずに済む」
「そうだな」
大観は腕をまくった。
「なら、手伝おう」
「いいのかい?」
「何、いいさ」
本当は、春草は頭を下げて頼むつもりでいたが、それを大観は良しとせず、先回りして申し出た。
そうこうするうちに、書生が医者を連れて戻って来たので、早く行けと春草の背中を押した。
「行けよ。おれは、支度をしとくから」
「……すまない」
この国の絵画史上、冠絶する名作「黒き猫」の作成が、今、始まる。
ぴたぴたと。
頬を叩く音がする。
ああこれは自分の頬だと認識すると、叩く手のことも触覚で感じる。
ごつごつとした手。
だが、指は意想外に細やかで、如何様なタッチにも応じられるような。
「オイ春草!」
うるさいな。
そう思った時、目が覚めた。
すると見知った顔が、こちらを覗き込んでいた。
「何だ、大観か」
「何だ、は無いだろう。春草」
横山大観。
菱田春草と同じく、日本画の画家である。
繊細で冷静な春草に比し、大観は豪放で磊落だ
その磊落な笑みを浮かべて、大観が言った。
「何だ虫の知らせがして来てみれば」
画家としてライバルでもある春草の、敵情視察にでも行くかと洒落込んだ大観。だが、春草宅の近所の焼き芋屋のあたりに至って焼き芋を買っている時に、春草の書生と遭遇、菱田家の災難を知ったという。
「書生君、泡を食ってたぞ。細君と坊主のために、医者を呼んでくると言ってた」
「そうか」
卓上に何やら湯気立つ何かがある。
さっきの夢は、『あれ』のせいか。
大観も春草の察していることに気づいた。
「いやあ悪いな。何でも焼き芋が細君と坊主の好物と聞いていたから」
ホレお前も食うか、と大観は遠慮なく焼き芋を一つ手に取って寄越す。
否応もなく眼前に差し出されたそれを、春草は何気なく手に取った。
が。
「悪いが、そういう気分じゃないよ。これは妻と息子にあげてくれ」
「オイどうした」
珍しく、弱気じゃあないかと大観は春草の肩を抱いた。
どちらかというと神経質な春草の懐に、ここまで『入れる』のは大観だけであり、そんな大観だからこその気遣いだった。
「あれか? 文展のあれか? もしかして……描けてないのか」
「……ああ」
「あと、五日か……」
大観は春草の描きかけの「雨中美人」を見た。
モデルは春草の妻。
だが貧血に倒れた。
治っても、熱にうなされる長男の世話をせねばなるまい。
そして審査員の仕事。
名誉ある仕事だ。
投げ出すことは、すまい。
大観は唸った。
春草は天才だ。
躰さえ万全ならば、「雨中美人」はとっくに完成しているはずだ。
それが。
「描くよ」
春草の決然たる言葉。
大観は目を剥いた。
「描けるのか」
「描ける」
ただし、と断りを入れてから、春草は棚のところへ歩いて行って、絵絹を取り出した。
「屏風絵はやめる。新たに描く」
「……何をだ」
大観は年来の親友が無茶をしないことを知っていた。
だが、『勝算』はあるのかと聞きたかったのだ。
「猫を描く。黒き、黒き猫を。この代々木の柏の木に鎮座する」
「そうか」
目がよく見えない春草だが、この住まいの近くの雑木林のことなら、見ずとも描けると言っていい。
それに黒猫なら。
「冥王なら、着物ほどは色調を気にせずに済む」
「そうだな」
大観は腕をまくった。
「なら、手伝おう」
「いいのかい?」
「何、いいさ」
本当は、春草は頭を下げて頼むつもりでいたが、それを大観は良しとせず、先回りして申し出た。
そうこうするうちに、書生が医者を連れて戻って来たので、早く行けと春草の背中を押した。
「行けよ。おれは、支度をしとくから」
「……すまない」
この国の絵画史上、冠絶する名作「黒き猫」の作成が、今、始まる。
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