黒き猫

四谷軒

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01 菱田春草

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 菱田春草は思い悩んでいた。
 今、描いている絵の色調がうまくいかず、思い悩んでいた。

「……駄目だ。色が出ない」

 時に、明治四十三年(1910年)。
 春草は――眼病を患っていた。



 その年、春草は第四回の文展(文部省美術展覧会。今でいう「日展」)に向けて、製作にいそしんでいた。
 また、当時、新進気鋭の画家として名を上げていた春草は、さらなる「仕事」を担っていた。

「……審査員か」

 初の審査員。
 春草がこれまで築き上げてきた、画家としての実績、そして何よりも画家としての『目』を期待されての重責だ。
 やりがいはある。
 使命感もある。
 だが、そうまでして衆目を集めている自分が。

「見えない。よく、見えない……」

 春草は腎臓の病を患っていた。その影響で眼病も患い、網膜にさわりが生じていた。
 それでも、対策は打った。
 描く題材は――モデルは妻にした。
 その画、「雨中美人」という六曲一双の十二枚の屏風絵が――。

「……着物の色が。こんなんじゃ、駄目だ」

 思い悩む春草を気遣ってか、モデルの妻が、歩み寄ろうとした。
 が。

「おい!」

 妻が倒れた。
 春草が駆け寄る。
 心配した長男が、アトリエにやって来る。

「あなた……」

 春草の妻は貧血だった。
 モデルを長時間務めていたことが、原因かもしれない。
 とにもかくにも、妻を寝かしつけ、今日のところは画を描くのはやめて審査員の仕事を、と思ったところへ、長男が寄りかかって来た。

「……どうした?」

 おでこに触ると、熱い。
 酷い熱だ。
 春草はため息をつきながら、長男を抱いて、寝床へと連れて行った。

「これではもう駄目か……」

 眼病を患っている。
 色調が出ない。
 モデルの妻は倒れた。
 長男も熱。
 そして、審査員。

「…………」

 もう無理か。
 でも口には出さない。
 自分の画のことは自分の責任だ。
 だが審査員は別だ。
 請け負った責任がある。
 それは果たさねばならない。
 そういえば締め切りは。

「画と同じ。あと、五日か……」

 春草の目が閉じていく。
 山積みの「やるべきこと」。
 折りからの緊張感。
 そして病。
 今少しの休息を必要としたからである。
 からだが。



 夢を見ていた。
 落ち葉の中、歩いている自分の夢だ。

「ここは、武蔵野か」

 よく見ると、春草の家の近く、つまり代々木の雑木林だった。
 春草は悩んだときや、画の構想を練りたいとき、よく散歩していた。
 そしてこの季節、散歩の最後に焼き芋屋に寄って、妻子への土産に焼き芋を買って帰るのが常だった。

「やあ、柏の木だ」

 この柏の木が焼き芋屋の目印で、これが見えると、もう焼き芋の薫りが漂っている。

「夢の中だと、この目でもくっきりと見える。皮肉なもんだ」

 春草はそうこぼしながら歩を進めると、足元に一匹の黒い猫が近寄って来た。
 にゃあ、と鳴くその黒猫を、春草は愛おしそうに抱いた。

冥王プルートー、元気かい」

 冥王プルートーは春草が黒猫に勝手につけた名だ。本当の名は知らない。
 数年前、親友の横山大観と共に渡米した時に読んだ小説の黒猫の名からつけた。
 大観は「縁起わりい名だな」と笑っていたが。

冥王プルートーはその柏がお気に入りだね」

 気がつくと、冥王プルートーは春草の手から離れ、柏の木の幹を登っていた。
 やがて幹が曲がって平らになっているところに腰を落ち着け、こちらを見すえる。

「うん、綺麗だよ、冥王プルートー……」

 画になるじゃないか、とつづけようとしたとき、春草はあっと叫びそうになった。
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