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02 キャヴァリアーズ
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そも、議会派をラウンド・ヘッズと称するのは、清教徒が頭を刈り上げていたことを揶揄しており、また、騎士党をKnightsではなくCavaliersと呼ぶのは、オランダを弾圧したスペインの騎士を意味し、蔑んでいるからである。
つまりは、双方とも侮蔑を含んだ呼称である。
さて、十七世紀前半のイギリスは、絶対王政が揺らぎ、大いなる鳴動と共に、イギリス全土を内戦に巻き込んでいた。
「王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」
これはジェームズ一世の発言であるが、いわゆる王権神授説に基づくものである。
当然ながら、ジェームズ一世の後継ぎであるチャールズ一世もこれを唱えて、度重なる外征による戦費を賄うため、重税を課そうとした。
「議会はそれに反対する」
議会は反発を示し、チャールズ一世との対立は明確なものとなった。
やがて一六四二年、チャールズ一世と議会は決裂し、「その戦い」――エッジヒルの戦いで激突する。
なおこの際、騎士党の名将、プリンス・ルパート率いる騎兵隊の活躍により、議会派は追い込まれ、その軍中にいたオリヴァー・クロムウェルに「鉄騎隊」を作り上げる決心をさせる。
「これでは軍が保てない。退こう」
この戦いの結果、議会派は散々に打ちのめされたが、騎士党も損耗著しく、双方ともに撤退することになった。
表立っては、議会派も騎士党も、どちらも「勝ち」だと主張した。
だが、少なくともクロムウェルにとっては、「負け」であった。
「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい。これからは信者の軍をつくらなければならない」
騎士党は文字どおり、騎士で構成されている。
つまり、職業軍人の群れだ。
対するや、議会派は、当時台頭してきた郷紳を中心としており、クロムウェル自身が言及したように、「酒場の給仕や職人の軍隊」である。
「これでは勝てない。勝てるわけがない」
特にあの、プリンス・ルパートには。
*
プリンス・ルパートは、プファルツ選帝侯の公子だったが、大陸での戦争に敗れ捕虜となり、三年間の拘留生活のあとにようやく解放され、それを機に、叔父であるチャールズ一世を頼ってイングランドに渡った。
そのイングランドは、内戦吹き荒れる戦地だった。
「わが甥よ、騎兵隊の指揮を執って欲しい」
「安んじてお任せあれ」
チャールズとしては、まず裏切ることのない、それでいてイングランドではあまり係累がいない甥なら兵を任せて安心だという目論見があった。
一方ルパートは、大陸で戦い方を学んでおり、スウェーデン式の騎兵隊を中心とした攻撃方式を身に付けていた。
「大陸では捕虜の憂き目に遭った。が、見ていろ。その汚名を返上してみせる」
ルパートは、パウィック橋の戦いより参戦し、エッジヒルの戦いでは何度も議会派を撃破し、こう呼ばれることになる。
「狂奔の騎士」
これには、彼の愛犬「ボーイ」の存在も大きく寄与している。
ボーイは、ルパートが大陸での捕虜生活の際に、その無聊を慰めるために贈られた、白い、大きなプードルである。
ルパートと共にイングランドに渡り、そしてルパートと共に戦場へおもむいたこの白い猟犬は、敵から畏怖の対象と見られ、
「あの犬の正体は悪魔だ」
と囁かれたりしていた。
むろんそんなことはなく、ルパートとしては愛犬を引き連れて戦場へ出て、よく戦い、よく勝った。
ボーイはそんな彼の足元でほほを寄せたり、丸まっていただけだ。
*
「ボーイ、また次の戦場へ征くよ」
ルパートはボーイの背を撫でた。
白い猟犬のボーイは、くうんと鳴いて、ルパートの撫でるに任せた。
そうしてしばらくしてから、ようやくルパートは愛馬にまたがった。
「進軍!」
エッジヒルの戦いの一六四二年の翌年、一六四三年。
ルパートはイングランド西部の平定を命じられ、七月にはブリストルを陥とした。その翌月にはグロスターを包囲するも、その時は議会派の援軍が来たことにより、包囲を解いている。
しかしさらにその翌年、リヴァプールを陥落し、七月、ヨークへと至った。
当時のヨークは議会派に包囲されており、ヨーク防衛軍のニーカッスル候は窮地に陥っていた。
そこをチャールズ一世は、起死回生を期して、ルパートにカンバーランド公およびホルダーネス伯を叙爵し、救援に向かわせたという次第である。
ちなみにカンバーランド公の爵位はイングランドの王族に与えられるものであるが、ホルダーネス伯は、ヨークを中心とするヨークシャーの爵位である。
つまりそれだけ、チャールズ一世は、ルパートのヨーク奪還に期するものがあった、ということである。
「これだけの知遇を得て……騎士としては、相努めなければならないな、ボーイ」
従士たちは聞こえないふりをしたが、ルパートは「やれやれ」と呟く。
ルパートは狂奔の騎士と呼ばれる割には、鷹揚で、敵であっても褒め称えるだけの度量を持ち合わせていた。ちなみに晩年には科学に熱中し、王立協会フェローとなるほどの趣味人でもあった。
つまりは、双方とも侮蔑を含んだ呼称である。
さて、十七世紀前半のイギリスは、絶対王政が揺らぎ、大いなる鳴動と共に、イギリス全土を内戦に巻き込んでいた。
「王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」
これはジェームズ一世の発言であるが、いわゆる王権神授説に基づくものである。
当然ながら、ジェームズ一世の後継ぎであるチャールズ一世もこれを唱えて、度重なる外征による戦費を賄うため、重税を課そうとした。
「議会はそれに反対する」
議会は反発を示し、チャールズ一世との対立は明確なものとなった。
やがて一六四二年、チャールズ一世と議会は決裂し、「その戦い」――エッジヒルの戦いで激突する。
なおこの際、騎士党の名将、プリンス・ルパート率いる騎兵隊の活躍により、議会派は追い込まれ、その軍中にいたオリヴァー・クロムウェルに「鉄騎隊」を作り上げる決心をさせる。
「これでは軍が保てない。退こう」
この戦いの結果、議会派は散々に打ちのめされたが、騎士党も損耗著しく、双方ともに撤退することになった。
表立っては、議会派も騎士党も、どちらも「勝ち」だと主張した。
だが、少なくともクロムウェルにとっては、「負け」であった。
「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい。これからは信者の軍をつくらなければならない」
騎士党は文字どおり、騎士で構成されている。
つまり、職業軍人の群れだ。
対するや、議会派は、当時台頭してきた郷紳を中心としており、クロムウェル自身が言及したように、「酒場の給仕や職人の軍隊」である。
「これでは勝てない。勝てるわけがない」
特にあの、プリンス・ルパートには。
*
プリンス・ルパートは、プファルツ選帝侯の公子だったが、大陸での戦争に敗れ捕虜となり、三年間の拘留生活のあとにようやく解放され、それを機に、叔父であるチャールズ一世を頼ってイングランドに渡った。
そのイングランドは、内戦吹き荒れる戦地だった。
「わが甥よ、騎兵隊の指揮を執って欲しい」
「安んじてお任せあれ」
チャールズとしては、まず裏切ることのない、それでいてイングランドではあまり係累がいない甥なら兵を任せて安心だという目論見があった。
一方ルパートは、大陸で戦い方を学んでおり、スウェーデン式の騎兵隊を中心とした攻撃方式を身に付けていた。
「大陸では捕虜の憂き目に遭った。が、見ていろ。その汚名を返上してみせる」
ルパートは、パウィック橋の戦いより参戦し、エッジヒルの戦いでは何度も議会派を撃破し、こう呼ばれることになる。
「狂奔の騎士」
これには、彼の愛犬「ボーイ」の存在も大きく寄与している。
ボーイは、ルパートが大陸での捕虜生活の際に、その無聊を慰めるために贈られた、白い、大きなプードルである。
ルパートと共にイングランドに渡り、そしてルパートと共に戦場へおもむいたこの白い猟犬は、敵から畏怖の対象と見られ、
「あの犬の正体は悪魔だ」
と囁かれたりしていた。
むろんそんなことはなく、ルパートとしては愛犬を引き連れて戦場へ出て、よく戦い、よく勝った。
ボーイはそんな彼の足元でほほを寄せたり、丸まっていただけだ。
*
「ボーイ、また次の戦場へ征くよ」
ルパートはボーイの背を撫でた。
白い猟犬のボーイは、くうんと鳴いて、ルパートの撫でるに任せた。
そうしてしばらくしてから、ようやくルパートは愛馬にまたがった。
「進軍!」
エッジヒルの戦いの一六四二年の翌年、一六四三年。
ルパートはイングランド西部の平定を命じられ、七月にはブリストルを陥とした。その翌月にはグロスターを包囲するも、その時は議会派の援軍が来たことにより、包囲を解いている。
しかしさらにその翌年、リヴァプールを陥落し、七月、ヨークへと至った。
当時のヨークは議会派に包囲されており、ヨーク防衛軍のニーカッスル候は窮地に陥っていた。
そこをチャールズ一世は、起死回生を期して、ルパートにカンバーランド公およびホルダーネス伯を叙爵し、救援に向かわせたという次第である。
ちなみにカンバーランド公の爵位はイングランドの王族に与えられるものであるが、ホルダーネス伯は、ヨークを中心とするヨークシャーの爵位である。
つまりそれだけ、チャールズ一世は、ルパートのヨーク奪還に期するものがあった、ということである。
「これだけの知遇を得て……騎士としては、相努めなければならないな、ボーイ」
従士たちは聞こえないふりをしたが、ルパートは「やれやれ」と呟く。
ルパートは狂奔の騎士と呼ばれる割には、鷹揚で、敵であっても褒め称えるだけの度量を持ち合わせていた。ちなみに晩年には科学に熱中し、王立協会フェローとなるほどの趣味人でもあった。
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