絶砂の恋椿

ヤネコ

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就褥の夢

12―1

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「トゥルース様、失礼します」
 カームビズ商会バハルクーヴ島支部では朝食後の恒例となりつつある意見交換の席で、ズバイルは不意にトゥルースに近寄るとトゥルースの額に自らの掌を押し当てた。ズバイルは反対側の掌を自らの額に押し当て、口の中でやはりと呟く。他の者達がどうしたことかと見守る中で、ズバイルは表情をいつも以上に引き締めてトゥルースに具申した。
「――重ねて失礼を承知で申し上げます。トゥルース様、本日はどうぞお休みください」
「理由を聞こうか」
「普段に比べて食が進まず、ご日課のマリウス君観察の際も、七度とも眼差しがぼやけているようにお見受けしました。加えて、先程確認しました発熱……体調不良であられることは、火を見るより明らかです」
 できれば詳らかにしては欲しくなかった事までつらつらと理由を述べるズバイルに、トゥルースは一瞬聞かなければ良かったと思った。しかし、ズバイルの見立て通り、トゥルースも自身が発熱しているらしいことはぼんやりと自覚している。自身ではそれなりに頑健なつもりではあったが、新たな環境に馴染んだところで疲れが出たのかもしれない。
「俺もこの島で初めて乾季を迎えた年には、寝込む程に熱を出しました。この辺りは、海都に比べて酷く冷え込みますからね」
 そこへ、ズバイルの助太刀をするようにイフラースが発言した。隣で頷くナスーフも、イフラースの言葉を継ぐように発言する。
「たかが風邪と侮れば寝付く恐れがあります――前任のあの人のように」
 トゥルースの前任者が風邪を拗らせて命を落とした件については、実のところ小僧達も半信半疑だ。しかし医者すら居ないこの島では、海都の感覚であればな体調不良も、拗らせれば命取りであることも事実だ。トゥルースの就任により、ようやく人並みの扱いを受けるようになった小僧達の表情は、何時になく切実なものであった。
「我々はトゥルース様を喪う訳にはいきません。大袈裟とお思いでしょうが、どうぞご自愛願います」
 このような調子でズバイルを筆頭に小僧達が口々に休めと言ってくるのには、トゥルースも素直に彼等の厚意を受け取るほかなかった。
「了解した。皆はそれぞれの仕事に掛かってくれ。決裁が必要な文書は、後日確認する」
「承知しました」
 発熱のせいか、小僧達の返事だけではなく自身の声すらもやけに遠くに聞こえるのを感じながら、トゥルースは立ち上がろうとする。しかし俄に立ち眩みが眼前を覆い、再び座り込んでしまった。
「俺、番頭さんを部屋まで運びます」
 そこへ、カメリオがトゥルースの背後に回った。振り返るトゥルースと目が合ったカメリオは、少し困ったような表情を浮かべてトゥルースを抱え上げる。
「マリウス君――丁重に、運ぶんだぞ」
 ズバイルはカメリオがトゥルースを肩に担ぎ上げようとしたのを勘付いたらしく、即座に釘を刺した。カメリオは何か言いたげにしながらも、ズバイルに頷いてトゥルースを横抱きに抱えた。
「すまないな」
「いえ……これも、仕事なんで」
 カメリオの返事はつれないものだが、幼い頃に母の胸に抱かれて以来の感覚は、熱で朦朧としたトゥルースに懐かしいような安堵をもたらした。
(好きな子の胸に抱かれて運ばれるというのは――こんなにも、心地が好いのか)
 横抱きにされたトゥルースは、カメリオの心音が伝わる感動に胸を満たしている。回復するまでの仕事の滞りが気掛かりではあるものの、カメリオの温かな胸に抱かれる心地に目を閉じて浸るトゥルースであった。
「あ、あの……お大事にしてください!」
 ようやく発言できたミッケに手を振り応えたトゥルースは、カメリオに抱えられて食堂を後にする。自身の体調不良に気付かず、朝から一騒動起こしたことへの自嘲を溜め息で漏らすトゥルースに、カメリオがぽそりと訊ねてきた。
「寒くないですか?」
「君の温もりが伝わって、暖かいよ」
「…………そうですか」
 トゥルースが思ったままを口にしたせいか、カメリオはそのまま黙ってしまった。表情を伺うことはできないが、耳朶と首元が仄かに赤くなっている。部屋に着くまでの短い時間を、トゥルースはカメリオの愛らしい耳朶を眺めていた。
「――少し気分が良くなっても、起きて仕事したら駄目ですからね」
「心配せずとも、今日の俺にこの毛布の層を跳ね除ける力は無さそうだ」
 自室の寝台に寝かしつけられたトゥルースは、何処かから持ってきた毛布をどんどんと腹の上に掛けてくるカメリオに、力なく笑って応えた。
「番頭さんは、元気になることだけ考えていてください」
「……君の優しさは、何よりの薬だな」
 心配そうに眉を寄せるカメリオを、トゥルースは愛しく思う。額を取り巻く熱が睡魔を連れて来るものの、カメリオの優しさに甘ったれているこの時間に眠ってしまうのが、どうにも惜しいとトゥルースは感じていた。
「おでこ、冷やすの持ってきます」
 もう少し言葉を交わしたかったが、カメリオは逃げるように部屋を去ってしまった。カメリオの胸の内を聞きだしたあの夜以降、彼がトゥルースに対して距離を取ろうとしているのは、態度や口ぶりで伝わってくる。しかし、それでもカメリオの純情さは彼の頬を、耳朶を恥じらいに染め、彼の心が未だトゥルースへの想いを捨て切れていないことを物語っていた。
(カメリオは俺のを仕事で返すと言っているが、俺はあの子が再び心を寄せてくれることを諦めきれない)
 カメリオは自身の言葉通りトゥルースの護衛――加えて、トゥルースの秘書のような仕事も覚えつつある――の任を、少しも疎かにせずにいる。それは、カメリオの責任感の強さもあるのだろうし、彼が捨てると決めた恋情の深さでもあるのだろう。
 自身でも惚れっぽい自覚があるトゥルースだが、カメリオには出会った日にそのあどけなさが残る美しさと心根に一目惚れし、命を助けられた月の下でその圧倒的な強さに惚れ直した。
 そして共に過ごすうちに、カメリオが日々見せてくれた表情に、更に惹かれるのは必然であったとトゥルースは思っている。
(汲めども尽きない想いとは、このような気持ちを言うんだろうな)
 カメリオを見つめる時間を、その愛らしさに想いを馳せる時間を、トゥルースは幸福な時間だと感じている。恋情と戦を司る火の女神から心臓に接吻を受けたかのように、トゥルースの胸の内はカメリオへの想いで熱く焦がれていた。
(カメリオ――君の幸せと俺の夢は、きっと同じ道筋の先にある)
 トゥルースはいつか、自身の夢をカメリオに打ち明けようと思っている。だが、目下の目標はバハルクーヴ島を豊かにすることだ。その為にも早く回復して日常に戻ろうと瞼の裏に思ううちに、トゥルースは眠りの世界へと導かれた。
「――ここは私の庭だ。貴様のような餓鬼が居座って良い場所ではない」
 何時かも聞いた言葉に、トゥルースはここが想い出を遡る夢の中だと気付いた。
 視界に映る通りに小さな掌をしていた時分のトゥルースは、突如現れたカームビズ商会の者により母と暮らしていた島から連れ出され、海都へと送られた。幼いながらもこの理不尽に憤ったトゥルースは、名も知らぬ父との対面を強いられたのを嫌い、この庭に逃げ込んだのであった。
 澄み切った空を切り取るように設えられた中庭には色鮮やかな花々が咲き誇り、噴水の軽やかな音が囀るように響いている。絵画のように美しい庭には不似合いな冷たい声に、トゥルースはこの後の問答を想い出した。
「お前もカームビズ商会の奴か」
 記憶通りの怒りを載せて、記憶通りの言葉をなぞれば、眼前の人物は不機嫌さを隠さずに溜め息を吐いた。
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