絶砂の恋椿

ヤネコ

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知らない気持ち

11―1

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「平和だなぁ……」
 酒坏を拭いながら、酒場の亭主ファビオはしみじみと呟く。店内には昼間だと言うのに安酒を舐める常連客が屯しているが、その様子は和やかなものだ。
 酒場を営む傍らここバハルクーヴ島に来る傭兵の仕事の手配を生業としているファビオの店には、島から出るに出られない傭兵達が人の気配を求めるように集まってくる。自由を求める割には寂しがり屋の彼等をファビオが甘やかしているのを良いことに、で薄い安酒を舐めている傭兵も、このところは殊勝なほどに大人しい。
(ガラの悪い連中は粗方お縄についたからって、こんなに平和になるものかしら)
 常連客の中では珍しく明朗会計な者につまみの干し果物を手渡しながら、ファビオは改めて新任の島の責任者トゥルースが着任した効果について思いを馳せた。着任直後のトゥルースの招集には恐妻家のファビオも随分と居心地が悪い思いをさせられたが、事実トゥルース主導で行われたネズミ狩りは、バハルクーヴ島の市場区域全体の治安を大幅に改善させた。ファビオの店も例外ではなく、店の中の様子も格段に穏やかになったのだ。
「なあ親父、取っ捕まった連中は百姓になるらしいぜ?」
「はぁ、そりゃたまげたね」
 空々しい相槌を打ちながらも、ファビオはかつての与太者達の意外な転身に驚いていた。噂によれば苦役刑に処された傭兵達は、新たに設立された療養所に放り込まれ、日夜奉仕活動に明け暮れているらしい。だが、ファビオの見立てでは、人の世話も作物の世話も到底できそうに無い連中だ。一体どういうからくりかと思ったところで、訳知り顔の客が言葉を継ぐ。
「なんでもこないだ来た女誑しの番頭? だかの言いなりなんだとよ」
「へぇ……」
「ひょっとしたらよ、あいつらその女誑しにまとめて女にされちまったんじゃねえか?」
 下卑た笑いを浮かべながら相槌を求めてくる客に、ファビオは曖昧に相槌を打つ。想像するにはあまりに絵面がきつい、というのもあるが、トゥルースの命を狙ったことで苦役刑囚となった彼等とは、ファビオの方が付き合いが長いのだ。いくら言い聞かせてもツケを溜め散らかし、弱い者を見掛ければ虐げ金銭をせしめていた連中が、島に来てまだ三月にも満たないかの男の言いなりになっているというのは、ファビオとしてはあまり面白い話ではなかった。
「ま、百姓になろうが溝浚いしてようが構わないけども。うちで溜めに溜めたツケを返してもらわんことにはねぇ……」
 思わずぼやき口になってしまったところで、入り口の呼び鈴が鳴った。この島でこの店を訪う者で、わざわざそのような丁寧な真似をする者は少ない。
「はいはい、今伺いますよ」
 胸の中に浮かべたトゥルースへの妬ましい気持ちに、ファビオがやや気まずさを感じながら入り口の扉を開けば、案の定カームビズ商会の小僧が立っていた。
「これはイフラースさん。ようこそお越しで」
「どうもこんにちは。ファビオさん」
 ファビオがいつも通りに揉み手でカームビズ商会の小僧イフラースに訊ねれば、イフラースは人の良い笑顔を浮かべて応じた。しかし、訪問の理由がわからないファビオからすれば、イフラースのにこやかな表情は心の芯に緊張もたらすものであった。
「今日はお願いがありまして。この名簿に名前がある者達がですね、そちらのお店で溜めたツケの金額を教えて貰えますか?」
「はぁ……? な、なにかありました?」
 不可解な依頼に、ファビオは前掛けを掴みながらイフラースに商会の意を問う。これまでは、商会は個人の店の帳簿にまで口を出してこなかったはずなのに、一体どうしたことか。
「はい。ここに名前が書かれているのは現在、苦役刑囚として服役中の者達でして。例の件でね、一度に逮捕されたものですから――そちらも、相当な額が焦げ付いた状態でしょう?」
「ええ。実は……そのことでは、うちの店も参ってましてね」
 労しげな口ぶりのイフラースに、ファビオもつい釣られて本音を吐いてしまう。この店の常連である傭兵達の溜めたツケは依頼料から天引きする形で回収していたが、苦役刑囚として服役中となれば、刑期が明けるまでは回収のしようが無い。ファビオの困り顔に、イフラースは同情した様子で頷いて言葉を継いだ。
「そこで、カームビズ商会からのお見舞いとして――彼等が島内のお店で溜め込んだツケを、全額お支払いすることになりました」
「えぇ……っ!?」
 ファビオは嬉しいやら驚いたやらで、間抜けた声を上げる。願ったり叶ったりな通達ではあるが、商会がバハルクーヴ島で商いを行う者達の為に支援や援助の類いを行うのは、ファビオが父親からこの店を受け継いでから初めてだ。
「それは……あの、責任者のトゥルース様がお決めになったんで?」
「ええ、そうです。苦役刑囚達がそちらで溜めたツケは彼等の刑期に加算されますから、ファビオさんが遠慮することはありませんよ」
「なるほど……!」
 どうやらこれは、見舞いという名の商会からの――個人的な不祥事により島に事件を起こしたトゥルースからの――詫びということらしい。そういうことならありがたく受け取っておこうと、ファビオはにんまりと笑みを浮かべた。
「次の土の日にまた伺いますから、その時にこちらに金額とファビオさんの名前を書いて私に渡してくださいね」
「了解しました! ご丁寧に、どうもありがとうございます」
 イフラースから手渡された紙を恭しく受け取り、ファビオは頭を下げる。店内には客も居るためはしゃぎこそはしなかったが、内心は小躍りして喜ぶファビオであった。
(金額は連中の刑期に加算されるってことだし――これまで店で暴れた迷惑料なんかを足しちゃっても、まあ連中には良い薬になるでしょ)
 ちゃっかりと頭の中で算盤を弾きながら、ファビオはイフラースの背中を見送る。一方でイフラースも、ファビオに向けていた人当たりが良い笑みを人の悪い笑みに変え、喉の奥でふふと笑った。
(あの店の亭主はこの島の住人にしてはちゃっかりしてるからな……おそらくは、実際のツケの総額よりは幾らか吹っ掛けてくることだろうさ)
 それこそが、イフラースの狙いであった。先日、具体的な配属が決まった苦役刑囚達についてトゥルースから情報が共有された際、トゥルースは商会支部の小僧達に苦役刑囚達の活用法の提案を求めた。自分たちの意見をトゥルースが尊重していることに小僧達は嬉しさを感じつつ、これまで島で見聞きしてきた問題点を基に案を述べた。
 その中でイフラースは、苦役刑囚達が傭兵だった頃に溜めたツケを刑期の延長と引き換えに肩代わりすることを提案した。目的は、島民の中でも取り分け苦役刑囚達から迷惑を被っていた市場区域の者達の溜飲を下げさせた上で、長期間自由に使える労働力を確保することだ。提案は採用され、イフラースは朝から市場区域を回っては、島で商いを行う者達を労う顔で労働力の追徴の準備を行っている。
(トゥルース様がせっかく飼い慣らしてくださった、貴重な労働力だ――できるだけ有意義に使っていくぞ)
 借りられる手なら猫の手でも借りるし、立っている者なら親でも使う――それが長年のバハルクーヴ島支部での勤務で、イフラースが出した答えだ。ここまでイフラースが腐らずに居られたのは、自身と同様に貧乏くじを引いているこの島を少しでもましにしてやりたいという、意地にも似た心地のお陰であった。
「さあ、どんどん行くぞ!」
 自身を鼓舞するようにイフラースが発した独り言は、弾むように晴れやかであった。
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