絶砂の恋椿

ヤネコ

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カナートの激闘

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 日はとっぷりと暮れ、海都から来たカームビズ商会の番頭トゥルースの演説により広場が帯びた熱も、散り行く人影と共に去った。砦の塒へと帰る気分にもなれずに居たヤノは、砂を蹴りつつ広場の隅に居残っている。カメリオは日課の走り込みに行き、エリコも何処かへと行ってしまった。この日初めて訪れた独りの時間は、ヤノの心を深い思索の森へと連れ出す。
(この島も、あの番頭が来て変わるかもしれねえ……だが、本当に信じていいのか?)
 トゥルースという男は、確かに優れた商人なのだろう。人心掌握術に優れ、見目も良い。だが、人間として信じるに値するかはまた別の話だ。十二人もの私生児を拵え、父親としての責任も果たさず、今度はのうのうとバハルクーヴ島の責任者に収まった男だ。いつ、この島を見捨てて去るかもわからない。
 その上、ヤノからすればどうしても看過できない問題がある。トゥルースが大衆浴場でカメリオに向けていた、やけに熱っぽい視線だ。容色が優れていれば、この際男でも構わないとでもいうのであろうか。
(始末の悪い野郎だぜ……)
 悍ましい仮定ではあるが、島の責任者としての権力を以てカメリオを妾のように囲うつもりなら、ヤノは刺し違えてでもトゥルースに報復するつもりだ。
(俺の弟に悪さしようってんなら、一生座り小便で過ごさせてやる)
 険しい表情で宵闇を見つめるヤノの鼻先に、不意に、香ばしい香りを放つ物が突き付けられた。
「相当腹減ってたんだな? 怖ぇ顔してんぞ、ヤノ」
 自らも片手に持った揚げ焼きパンを齧りながら、エリコはヤノにも差し出したそれを食べるように目線で促す。
「ま、腹は減ってたけどよ……」
 毒気を抜かれたヤノは、苦笑いにも似た顔で差し出された揚げ焼きパンに齧り付く。生地に香草などが挟み込まれたそれは、バハルクーヴ島では定番の屋台料理だ。
 ヤノもエリコも夕飯を拵えてくれる人が居ないため、しばしば屋台の安価な料理で腹を満たしている。この揚げ焼きパンは、青年二人の夕飯としては最も多い回数で、彼らの胃袋を満たしてくれていた。
「今日は俺の奢りだぜ? めでてぇ日だからな」
 エリコから受け取った揚げ焼きパンを齧りながら、ヤノは眉間に皺を寄せる。何がめでたいものか、と反論したい気持ちはあるが、トゥルースの宣言に指笛で応えたエリコである。ヤノとは、違う考えを持っているのだろう。
「お前は、あの番頭を歓迎してるんだったな」
「おう。やっと……砂蟲をなんとかしようって奴が商会から来たんだからな」
 遠くを眺めるようなエリコの横顔に、ヤノは自らの内にある言葉を呑み込んだ。ヤノはトゥルースを信用していない。だが、エリコはあの番頭の宣言に自らの想いを託している。そこに、自らの不安は雑音だとヤノは感じたのだ。
「ヤノは、あいつのことはあんまり信用してねぇんだよな?」
「……俺は、疑り深い性質なんでな」
 だが、付き合いが長いエリコには、当然ヤノの心の内は見透かされていた。やや決まりが悪い顔で、ヤノは揚げ焼きパンを齧る。
「ま、手放しじゃ信用できねぇわな。けどよ……これまでとは、確実に何かが変わるはずだぜ?」
「……いい方向を期待してえが」
「前のままじゃ、この島は少しずつ磨り潰されていくとこだったからな。あの番頭が、劇薬だろうが発破だろうが、俺らは足掻く力を手に入れたってわけだ」
 揚げ焼きパンを平らげたエリコは、ぺろりと親指を舐める。その表情は、トゥルースの演説を聴いていた時のように高揚していた。
「あいつがこの島に惚れてるうちに、俺らは砂蟲を島に寄せ付けない手段をモノにする。そして――海都に行くんだ」
「バハルクーヴを捨てるのか?」
「違ぇよ。海都に行って、ここの暮らし向きを良くする方法を持ち帰るんだ」
 エリコの声は、真剣だった。途方も無い夢のようでもあるが、ヤノはいつものようにはそれを醒めた声で否定する気にはなれなかった。だが、エリコの言葉はヤノの胸にじわりと寂しさを滲ませる。
「……お前は賢いからな。海都に行っても上手くやるだろうぜ」
「はぁ? 何言ってんだ、ヤノも一緒に決まってんだろ」
「俺は……都会は性に合わねえ」
 エリコが当然のように発した言葉に面喰らう心地を誤魔化すべく、ヤノも残りの揚げ焼きパンを口の中に放り込む。寂しさが滲んだはずの胸の奥が、妙にむずつくのをヤノは自覚した。
「いつ帰れるかもわかんねぇのに……お前と離れるなんて、ありえねぇっての」
 エリコの声は、青年らしい熱を帯びている。しかし、ヤノの顰めたような顔に何かを感じたのか、一瞬目を伏せた後に戯けたような声で言葉を続けた。
「ま、カメリオも連れてってもいいんだけどよ……? あいつ、都会じゃ人攫いに遭うんじゃねぇか?」
「確かに。あいつ、変なとこでボケっとしてっから……」
 二人の間の空気が、幼馴染みのそれに立ち戻る。青年達の胸に仄かに宿るそれは、友情以上の親愛と呼ぶには淡く臆病な感情であった。
「つうかよ、あの番頭が居るのにカメリオを一人にはできねえだろ」
「あー……いっそのこと、ガイオ親分に目移りしてくれりゃあな」
 エリコは、壇上でトゥルースが見せたガイオへの熱い眼差しを思い出していた。まるで愛の告白をするかのように、ガイオの巌のような掌をしっかりと握る様は、さながら白昼夢のようですらあった。
「あの髭親父はきちいだろ……」
「目はクリッとしてるし、まぁ……ギリ? いけなくもねぇだろ」
「ギリにもたせる負担がエグいぜ……流石に」
 二人の話題は、次第にトゥルースの守備範囲の考察へと移っていく。猥雑な笑いは、青年達の胸の内を今宵も無事に誤魔化すことに成功した。
「くぁ……そろそろ、帰るか」
 腹がくちくなり、エリコは生欠伸を噛み殺す。名残惜しいが、そろそろお互いの塒へと帰る時間だ。砦の男達の中でも、下っ端である彼らの朝は早い。
「夜更かしすんなよ? おやすみ」
「おう。おやすみ……また明日な? ヤノ」
 ヤノは砦の中にある寝床へ、エリコは両親が遺した家へと歩を進める。砂に霞む星空は、ただ静かに瞬いていた。
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