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貧乏令嬢と訳あり伯爵の白い結婚
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イレーネは住み慣れた屋敷を見渡した。最低限の家具しかなく、無駄に広さだけがあるから、がらんどうだ。壁には絵画の一つもなく、染みや傷がついたままになっている。
とても子爵家の屋敷とは思えない状態だけれど、イレーネが生まれた時からこうだ。気にはしていない。
「何度も騙されてすまない。私たちが馬鹿なばかりに」
目に焼き付けるように屋敷を眺めているイレーネに、泣きそうな母の肩を抱いた父が謝った。
元々落ち目の子爵家だったが、父親の代でさらに落ちた。焦った両親は商人の言いうままに一年後には三倍になるという土地を買い、これから流行るという商品を大量に仕入れた。
結果、土地は逆に三分の一の価格に暴落、本来の領地を売る羽目に陥った。商品は流行るどころか不良品だらけで、売り払った家具や装飾品の代わりに一室を埋めている。残ったのは屋敷と多額の借金のみだ。
「いいえ。お父様、お母様」
二人に心配をかけまいと、イレーネは明るく笑った。
本当は不安で堪らない。これからイレーネが嫁ぐのは、黒い噂の絶えないザネッティ伯爵家である。
『また伯爵が奴隷を買っていったぞ』
『子供ばかり買うそうじゃないか。そういう趣味なのかねぇ』
『趣味といえば、買った奴隷の手足を切り刻むってのがあるそうじゃないか』
『ほんとなのかい?』
『見たんだよ。血でぐっしょり湿ったシーツやタオルを燃やしてたのを。それも一回や二回じゃないんだぜ』
『うへぇ。子供《・・》好きなだけじゃなくて、痛めつけて喜ぶ変態かよ』
『伯爵家の屋敷から、時々子供の泣き声が聞こえてくるんだよ。可哀想に』
『俺も聞いたぜ。下の方から響いてくるんだよ。きっと地下室で酷い目にあってるんだぜ』
『あたしは笑い声を聞いたよ。地の底から響くような、不気味な声だったねぇ』
『やだやだ怖い。幽霊の声かね。もう何人も死んでるんじゃないかい?』
街のそこここで、様々な人々が噂を口にしていた。
聞いた噂話をまとめれば。伯爵は奴隷商人のお得意様で、幼い子供の奴隷を買っては屋敷の地下で手足を切り刻んでいるらしい。
身震いするような噂だが、ただの噂だと一蹴できない。サルヴァトーレ・ザネッティ伯爵が子供の奴隷を買っているのは本当だからだ。イレーネ自身、奴隷商に出入りする伯爵家の馬車を見かけたことがある。
笑顔を崩さないままイレーネは、心の中でそっと息を吐く。
大丈夫だ。金で買われたとはいえ、自分は奴隷として伯爵家に行くわけではない。表向きは、伯爵の妻として迎えられるのだ。切り刻まれたりはしないはず。
「今までありがとうございました。私、幸せになってきます」
イレーネの言葉に感極まった母が、わっと声を上げて顔を覆う。イレーネは大丈夫と母を抱きしめてから、父とも抱擁を交わし、生家を後にした。
****
「よし、綺麗になったわ」
モップ片手に仁王立ちになったイレーネは、ぴかぴかと光る床に満足して大きく頷いた。
「貴女は本当に貴族令嬢ですか」
後ろから呆れたような疲れたような、低い声がかかる。振り向くと長い前髪に瞳を隠した男がいる。
「ええ。貧乏《・・》子爵家令嬢です」
「今の貴女は伯爵夫人です。このようなことは使用人に任せておけばいいのです」
「あら。自由にしていいと言ったのは貴方ではないですか。トーレ」
にっこりと返したが、見えている薄い唇はぴくりとも動かない。ここに来てから、イレーネはこの青年が笑ったところを見たことがなかった。いつも淡々としていて、愛想というものをどこかに落としてきたようだ。
「……地下室にだけは、足を踏み入れませんように」
言い返しても無駄だと思ったのか、トーレがふいっと踵を返す。背中を見送ったイレーネは、よいしょとバケツを持ち上げた。
不安いっぱい、緊張して嫁いだものの、伯爵との結婚式は形どおりにさくさくと進んだだけだ。
夫となる伯爵は二十二になったイレーネの六歳上。一般的な栗毛の髪の冷たく整った顔立ちで、無感情なヘーゼルの瞳をしていた。
夫の情報はそれしか分からない。伯爵とは結婚式以来、二ヶ月以上顔を合わせていないからだ。
「二つ目の条件がすごく気になるけど。亭主元気で留守がいいって言うしね」
結婚式の後。伯爵の代わりに使用人を引き連れて現れたのは家令のトーレで、彼から伯爵の言を伝えられたのみである。
トーレから聞いた伯爵の伝言は、二つ。
一つ目は、この結婚は白い結婚であること。結婚したという事実だけがあればよく、子供も養子をとればいい。
二つ目は地下室には行かないこと。それさえ守れば、屋敷の中で自由に暮らせばいいとのこと。
身構えていた初夜さえなしで、正直ほっとしていた。
貧乏とはいえ子爵令嬢の身。元より結婚にロマンスを求めていなかったけれど、初めて会った男性といきなり夫婦の生活なんて怖い。二つ目の条件が噂を肯定しているように思えるから、なおさらだ。
「まあ、奥様。重いでしょう。バケツをお持ちします」
「大丈夫。私、結構力持ちなのよ」
バケツを持って階段を下りていると、わらわらとメイドや従僕たちがやってきた。
「それはここ二ヶ月で、分かっていますけど」
イレーネ付きの侍女のアニータが、バケツを見つめて困ったように眉尻を下げた。そわそわと体が揺れている。イレーネが手を出すと嫌がるのを知っているから我慢しているけれど、落ち着かないのだろう。
思わずくすくすと笑い声をもらすと、アニータが膨れた。
「いいから、お願い。仕事をさせて。優雅にお茶なんて飲んでいる方が拷問なの」
領地、館、使用人の管理はトーレを含めた二人の家令と執事が、完璧に伯爵家を取り仕切っている。伯爵は人付き合いが苦手なのか、訪れる客もあまりいないようだ。
使用人を雇う余裕のなかった貧乏貴族令嬢のイレーネは、物心ついた時から母親と共に家事をこなしていた。だからこうして家事をしている方が落ち着く。
「もう。奥様が働き者なのも困りものですね。私の仕事がなくなってしまいます」
「ごめんね、性分なの」
しゅんとうなだれると、アニータが首を横に振って微笑んだ。
「嘘ですよ。働かずにお給料もらえるなんて最高じゃないですか。でも少しはお世話させて下さいね」
「ええ。ありがとう!」
家令のトーレだけは、いつも仏頂面だったが。ここの使用人たちは皆、気持ちがいい。貧乏貴族のイレーネにも温かく敬意を払ってくれているし、伯爵夫人らしくない振る舞いを嫌がらずに歩み寄ってもくれる。それでいてさりげなくお世話と称して、伯爵夫人としての振る舞いを教えてくれた。
「じゃあそのバケツを置いたら、私たちと一緒にお茶にしましょう。私たちのお茶は庶民のお茶会ですからね。優雅なお茶会とは違って作法なんて、くそ……おっと、口がすぎました。この通り。優雅とはお近づきになれません」
そう両手をあげて肩をすくめる従僕の手は、指が一本欠けている。
「ああでも、お茶菓子だけはお茶会に引けを取りませんね。料理長がタルトを焼いてくれたんです。奥様のおかげで僕たちもご相伴にあずかれるようになりました」
「舌が肥えて仕方ありませんけどね」
どっと笑い声が上がった。彼ら使用人たちには、片足を引きずる者、顔に痣がある者、しゃべりがぎこちない者、耳が聞こえない者もいた。
「はい! それじゃああなたたち。さっさと片付けてしまいましょう」
「はい! 奥様、また後で」
「絶対に来て下さいよ。僕たちのタルトのために」
家政婦長と執事が手を叩くと、イレーネの周りでわいわいと喋っていた使用人たちが手を振って散っていく。イレーネは彼らに手を振り返してアニータと一緒に階段を下りきった。
アニータがモップを洗い、イレーネは汚れた水を捨ててバケツを空にした。彼女と連れだって食堂に向かいながら、ふと視線を廊下の奥、地下室の入り口がある方へ向ける。
色々と覚悟していたのに、ふたを開けてみれば驚くほど居心地が良く、とてもあんな噂のある伯爵家とは思えない。
ただ気になるのは。やはり、行ってはいけないと言われた地下室だった。
『うぇぇぇんっ……』
微かに。風に乗った、本当に微かな声がイレーネの鼓膜を震わせた。
高く舌足らずな子供の声だ。
最初は気のせいだと思った。噂を気にしているから、声が聞こえたような気がするのだと。しかし子供の声を聞いたのは、一度や二度ではない。
『伯爵家の屋敷から、時々子供の泣き声が聞こえてくるんだよ。可哀想に』
買い出しで聞いた噂話が脳裏によみがえる。
幼い子供の奴隷を買っては、屋敷の地下で手足を切り刻んでいるという噂。
体のどこかが不自由であったり、異常のある使用人たち。
この二つの真実が地下室にあるのではないだろうか。
「奥様ー。皆待ってますよ」
「ああ、ごめんなさい」
地下室の方向への視線に気づいたアニータにそっと背中を押されると、イレーネは逆らわずに足を動かした。
「タルト楽しみね」
「はい!」
嬉しそうに頷くアニータの右腕の、袖に隠れている部分に目が行く。一瞬だったが、そこには先ほどモップを洗う時に、ひきつれたような傷跡があった。
****
今の心地の良い生活を好奇心で壊したくはない。昼間に聞いた泣き声は幻聴。噂は噂で、本当のことではないのかもしれない。そう思いたい。
もし噂が本当だとしても。蓋をしてしまえばいい。聞かなかった、見なかったことにしてしまえば、何もなかったことと同じなのだから。だから罪悪感なんて抱かなくていい。胸を痛めなくていいのだ。
たとえ、今の穏やかな生活の下で苦しむ子供たちがいるとしても……。
そう思っていたのに。
「私の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」
しん、と寝静まった屋敷の廊下を、イレーネは小声で自分を罵りながら、地下室へと向かっていた。右手にはランタン。左手にはくすねてきた地下室の鍵。好奇心は猫をも殺すと分かっているのに、足は止まらない。
「奴隷がいるかどうか、確かめるだけよ。それだけ」
見てしまえばそれだけで済まないことを予感しながら、イレーネは地下室の鍵を開けた。ガチャ。重々しい金属音と共に開いた扉から、身を滑り込ませる。
なるべく音を立てないように階段を降りた。一段降りる度に心臓がどくどくと波打った。
どうか。
どうか噂は噂でありますように。
祈りながらたどり着いた地下室の、二つ目の扉をゆっくりと開けた。
湿布か消毒剤のつんとした匂いが鼻を刺激した。ずらりと並んだベッドに、人が寝ている。
すっかり顔なじみになった使用人たちではない、彼らよりもあどけない寝顔だ。布団から出ている手や頭などに、包帯を巻いた子が数人。片方の手がない子もいる。布団に片足のふくらみがない子も。巻いていない子も、布団に隠れた部分には巻いてあるのだろう。
ああ。噂は本当だったんだ。
イレーネは唇を噛みしめた。
落胆と悲しみが苦い思いとなって、黒い染みのようにじわじわと胸に広がる。噂など信じたくなかったのに。
イレーネは胸元で両手をぎゅっと握った。
「そこで何をしている!」
「っ!?」
低く抑えた、しかし鋭い声にイレーネは飛びあがった。声の主は家令のトーレだった。唇を険しく結び、つかつかと近づいてくる。
「あ、あの、これは……むぐっ!?」
「待て……! 声を上げるな。子供たちが起きる」
骨張った大きな手がイレーネの口を覆った。身をよじると、反対の手でがっちりと肩を掴まれる。
どうしよう。逃げられない。怖い。秘密を知ってしまったからには、自分も無事では済まないのだろうか。
ざあっと音を立てて血の気が引いた。手足が冷たくなって、感覚がなくなっていく。トーレの顔も、地下室の景色もすうっと遠くなっていった。
「おい? しっかりしろ」
「トーレ様ぁ……?」
「どうしたの?」
「その人誰?」
かすかにトーレの焦ったような声と、幼い子供たちの声がしたのを最後に、イレーネは意識を失った。
****
朝だろうか。まぶたの向こうが明るい。ぱたぱたと足音がする。きゃきゃっという子供の笑い声もした。
「おい、あまり騒ぐな」
「まだ寝てるのー?」
「ああ。血圧はもう安定しているから、普通に眠っている」
「起きたら一緒に遊んでもいい?」
「駄目だ」
「ええ~。つまんない」
ぼそぼそと交わされる複数の声に、ぱちりとまぶたを上げると、女の子と目があった。
「トーレ様、起きた!」
「起きたよ」
「えっと。あれ、私」
女の子が側にいたトーレの袖を引いて報告している間に、体を起こすと布団が滑り落ちた。模様も何もない、簡素で不愛想な天井と壁。並んだ複数のベッド。消毒薬の香り。おしりの下にはスプリングの感触。
どうやらベッドで寝ていたらしいけれど、ここ二か月使っていたイレーネの寝室ではない。
夜と違って明るくなっているが、地下室だ。地下室といっても部屋の上部は地表に出ていて、通風と明かり取り用の窓があり、朝日が差し込んでいる。
子供たちは昨夜と違って起きていた。彼らは包帯を巻いているものの、元気そうだ。車いすに乗った子も、片手のない子もいるが血色はよく、イレーネを好奇心をたっぷり含んだキラキラとした目で見ていた。
とても噂のような扱いをされている奴隷には見えない。
「奥様は強いストレスと睡眠不足で倒れられたのです。失礼」
ベッド脇にひざまずいたトーレがイレーネの手を取った。長い指が手首に添えられる。自分よりも大きくて温かな手の感触にどきっと心臓が跳ねた。
「? 少し脈が速いか?」
「平気です!」
イレーネは慌てて手を引っ込めた。手を握られて動揺したなんて恥ずかしすぎる。かああっと顔が熱くなった。
「顔が赤いですが」
「びっくりしただけなので! 男性に手を握られるなんて、慣れてないんです!」
「……は?」
ぽかん、とトーレの口が開いた。ああ、この人こんな顔も出来るんだと意外に思っていると、ふいっと顔を逸らしたトーレが立ち上がり背を向けた。
「失礼しました。脈を測っただけで他意はありません」
背中を向けたトーレの正面にいた男の子が不思議そうにトーレを見上げた。
「トーレ様、どうしたの?」
「何でもない」
「えー? だって」
「何でもないと言っているだろう。注射されたいか」
素っ気ない答えに男の子の隣にいた女の子が反論すると、トーレの口調が荒くなった。
「やだ!! 注射嫌いぃ」
くしゃりと顔を歪めた女の子が、トーレの側から逃げ出す。イレーネのいるベッドを周って、後ろに隠れた。
「注射って、こんな小さな子供に何をする気です。いくら奴隷だからって酷い事をしたら許しません!」
ベッドの布団を掴むと、苦虫を嚙み潰したような顔をしているトーレに向かって投げた。
「な、何をする!」
「今よ。みんな逃げて!」
突然布団にくるまれて、もがくトーレに抱きついて動きを封じ、イレーネは子供たちに叫んだ。ところが子供たちは目を丸くしているだけで、逃げる様子がない。
「大丈夫だから、早く逃げて!」
布団で手足を使えなくしているとはいえ、成人男性を長く押さえてはいられない。動かない子供たちに焦ったところで。
ガチャリとドアが開いた。
「きゃああ」
悲鳴を上げて目をつむる。
もう駄目だ。良くて離縁、最悪は口封じされてしまうかもしれない。
「奥様?」
「え?」
聞き覚えのある声に目を開けると、ドアの前にアニータが立っていた。
****
「本当にごめんなさい」
イレーネは慌てて布団を取ると、トーレに何度も頭を下げた。下げられているトーレは腕組みをしたままむっつりと黙りこんでいる。
そんなトーレとイレーネを興味津々といった様子で見ている子供たちに、アニータと一緒にやってきた従僕が手を叩いた。
「さぁ、朝ご飯にしよう。こっちにおいで」
「「はーい」」
元気よく返事をした子供たちが、従僕について隣の部屋へ駆けて行く。足を引きずっている子は杖を突いて。車いすの子は手で操ってではあるが。
「あはは。勇ましかったですよ、奥様。ねえ? トーレ様」
「同意を求めるな。返答に困る」
明るく笑うアニータに、片手を額に当てたトーレが呻いた。
「すみません、奥様。怖い思いをされましたよね」
「ううん。私が言いつけを破ったからだもの。噂を鵜呑みにして酷い勘違いをしたのが悪いのよ」
眉尻を下げるアニータに首を横に振ると、トーレがぼそりと言葉を吐いた。
「噂は真実です。旦那様は奴隷を買っては、手足を切り刻んでおります」
「治療のため、ですけどね!」
トーレの重々しい皮肉をアニータが明るくさえぎったが、イレーネの気分は沈んだ。罪悪感で胸が重くなる。
そう。確かに伯爵は奴隷を買っては切り刻んでいる。ただしそれは、病気や怪我の治療のための手術のためなのだと、やってきたアニータたちが説明してくれた。
アニータの腕にあるひきつれたような傷跡も手術の痕だそうだ。生まれつき肘から下が全く動かなかった彼女は、家族にも疎まれて奴隷商に売られたのだという。
いつも片足をひきずっていた従僕も、腫瘍のせいで立つことも出来なかったらしいが、伯爵の手術で歩けるようになった。体のどこかが不自由であったり、異常のある使用人たちは皆、伯爵によって救われた者たちだったのだ。
「地下室の存在は表向きに公表されておりません。ですから旦那様は地下室に行かないことを条件にされたのです」
「破ってごめんなさい。私は離縁されるのでしょうか」
溜め息を吐くトーレに、おそるおそる尋ねた。
莫大な借金を肩代わりしてくれた伯爵がイレーネに求めたのは、たった二つの条件。
一つ目の条件はイレーネへの配慮だから、実質一つだけ。その一つを破ってしまったのだから、離縁されて当然だ。
「確かに言いつけを破られましたが。これくらいで離縁しませんよ」
「本当に?」
「本当です」
しゅんとうなだれていると、トーレがため息を吐いて腕組みを解いた。不機嫌だった声も和らいでいて、イレーネの心はぱあっと明るくなった。嬉しくなって顔を上げると。
いつも硬く引き結ばれていたトーレの口元がほころんでいた。
イレーネは慌てて顔を伏せる。瞳は前髪で見えないけれど、普段笑わない人の笑顔は破壊力が強かった。
「昨夜の冒険で奥様もお疲れでしょう。お部屋にお戻り下さい」
「あの、トーレ」
珍しい笑みは一瞬で引っ込み、いつもの不愛想が戻る。そのことになぜかほっとしてイレーネは願いを口にした。
「またここに来てもいいですか?」
「……」
トーレが無言で固まる。
行くなと言われていた地下室にまた来たいだなんて、厚かましい願いだっただろうか。浮かれていた気持ちがみるみるしぼんで、トーレの顔をまともに見られなくなった。少し下を向いて、視線だけを向ける。
「駄目、ですか?」
「う」
軽く体を後ろに引いたトーレが口元を引きつらせた。祈るように見ていると、やがて諦めたようにトーレの肩が落ちた。
「お好きになさってください」
一言を絞り出して立ち上がり、壁際の机に向かうと事務仕事を始めた。
****
地下室に行くようになってから、数週間が過ぎた。イレーネは地下室に足しげく通い、子供たちのお世話をしていた。
「すぐ終わるからな」
消毒液のしみこませた綿を持ったトーレの言葉に、イレーネは足腰に力を入れた。
傷口の消毒はかなり痛い。子供によっては泣き叫んで暴れる。だから暴れる子はこうやって羽交い絞めにして処置をする。
「うぇぇええん!」
トーレが綿を傷口にぽんぽんと当てると、大声で泣き出した。トーレは泣き声をものともせず、手際よくガーゼを当てて包帯を巻いて治療を終わらせると、次の子供に移った。淡々と診察をこなし、治療を施し、病状を書き留め、薬を与えるなどの処置をしていく。
それだけではない。トーレは診断や処置、薬の処方だけでなく、手術をすることさえあった。
ザネッティ伯爵家は代々医者の家系だ。伯爵家に来てから二か月あまりの間、よく早足で地下室のある方へ消えていくトーレを見かけていたのは、地下室の子供たちの治療を忙しい伯爵に代わり、特別に伯爵から医術を学んだトーレが担っていたからだった。
トーレの診察が終わると、子供たちは自由時間。
「ほら、まだ走っちゃ駄目よ。歩くだけだからね」
「はーい」
「イレーネ様、ご本読んで」
「いいわよ」
まだ治療中や術後で寝ている子もいるが、子供たちは皆元気だ。子供たち同士で遊ぶとだんだんと動きが激しくなるため、注意が必要である。
イレーネは元気な子供たちにくすりと笑いながら、小さな窓を見上げた。
空気と光を取り入れるため、地下室の上部は地面より上になっていて、そこに窓がある。噂の子供の泣き声は、治療で泣く子供の声がこの窓から外へ漏れたものだ。
血でぐっしょり湿ったシーツやタオルも、手術の際に出たもの。笑い声は遊んでいる時の声。地下室で反響して、くぐもって不気味な幽霊の声のようになったのだろう。
噂は嘘ではなかったが、真実は噂のように黒くはなかった。それに。
イレーネは窓から視線を下に移した。そこには机に診察記録と医学書を広げるトーレがいた。
診察が終わってもトーレは忙しい。分厚い医学書を読み、子供たちの診断記録と照らし合わせて、日々の診察や治療に生かす。薬品の調合も、容態が安定していない子の看病もする。イレーネや使用人たちも出来る限りの手伝いをしているが、専門的なことは分からないから限りがある。
「昨日新しく来た子の診断記録ですか」
「ああ。奴隷商がろくな扱いをしてこなかったんだろう。思ったよりも状態が悪い」
医者の時のトーレは、敬語が抜ける。素が出ている気がして、イレーネはこちらの方が好きだった。
トーレが持っていた診断記録を置いた。立ち上がって寝ている子供のベッドに向かう。折れてしまいそうなほどやせ細り、浅い呼吸をしている。高熱を出しているにもかかわらず、青白い顔色をしていた。
「打撲痕に、骨が変形したまま癒合した左腕。問題は感染を起こしている裂創だ。消毒はしたが、衰弱していて薬も飲まなかった。後はこの子の体力次第だ。俺は何も出来ない」
細い手を大きな手が握る。肩が落ち、背筋が丸まった。
「そんなことはありません。貴方は沢山の子供たちを救ってるじゃないですか」
「ただの偽善だ」
イレーネは、子供の手を握って床に膝を着くトーレの横に座った。
うつむいているせいで、いつも以上にしっかりと栗色の前髪が表情を隠していたが、微かに震える声と唇に己に対する責めと憤りがにじんでいた。
「偽善なんだ。いくら伯爵家だとはいえ、無償で奴隷の子を助け続けられるわけがない。この子たちは新薬や新しい手術法、医学の実験台だ」
食費・薬・医療器具・包帯などの消耗品。全てに莫大な金がかかる。伯爵家はそれを実験台という名目で国から予算を落としていた。
「それのどこが悪いの?」
確かに新薬や新しい手術法の被験者でもある。しかしトーレはそれらを慎重に精査して、子供たち一人一人の病状に合わせて使用している。
百パーセントの安全を保証できはしないが、ある意味最先端の医療を受けているのだ。
「トーレ。私は医学のことは分からないけれど、今ここにいる子たちは貴方が治療しなければ死んでいたか、奴隷としてあまりいい人生は歩めなかったわ」
地下室に連れてきた子供は、全員が元気になったわけではない。寝たきりの子供も、亡くなった子供もいる。
それでもトーレが治療したから、救われた命がある。
「理由なんてどうでもいいの。大事なのは貴方に救われたという事実よ。皆貴方に感謝しているわ」
無愛想なトーレに、子供たちがなついているのが証拠だ。
イレーネは手を伸ばしてトーレの頬に添えると、自分の方に向けた。
「誇って。貴方はあの子たちのヒーローよ」
長い前髪の下にある目を覗くようにして、ゆっくりと噛んで含めるように告げる。
「それに実験台にしているのはザネッティ伯爵でしょ。奴隷を買うだけ買って、治療はトーレに全部やらせて。成果だけ自分ものもにして王侯貴族相手に大儲けしてるんだから、トーレが気に病む必要なんてないわ」
反対に伯爵本人は姿を見せない。
奴隷を買うだけ買って、治療や世話を人任せだなんて。噂と違い、伯爵が奴隷たちを助けているのは事実だが、少し印象が悪い。
「いや、それは……!」
何か言いかけて、トーレが寝ている子供に視線を戻した。
「どうしたの!? まさか、良くないの?」
急に注意を向けたので、容態が悪くなったのではと焦る。
「いや、違う。今、握り返してくれた」
力なくベッドに置かれていた細く小さな手が、トーレの手をぎゅっと握っていた。
イレーネはほっと胸を撫で下ろした。この子は生きようとしている。だからきっと大丈夫だ。
「もう大丈夫よ。お医者さんが助けてくれるからね」
「必ず助ける。頑張れ」
トーレがもう片方の手で小さな手を擦ると、うっすらと目を開けた。スプーンで薬を口に流し込むと、こくんと飲んだ。一晩つきっきりで看護にあたり、小さな命は持ち直した。
「ふう」
「お疲れ様でした、トーレ」
どさっと床に腰を下ろしたトーレが、ベッドに背を預けた。イレーネが声をかけると、前髪の奥から強い視線を向けられる。
「奥様。旦那様が奥様に会いたがっておられます」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からず、遅れて内容を理解した。
「もう朝方ですね。お疲れでしょうから夕刻まで休んでください。夕食の席は旦那様とお二人でとれるようにしておきます。今夜、ゆっくりとお話を」
敬語に戻ったトーレが、急に他人のように感じて。胸が痛かった。
****
眠れない。
何度も寝返りを打ったイレーネは、諦めて体を起こした。
眠ろうとして目をつむると、顔も知らない伯爵が黒い影となってイレーネに手を伸ばしてくる。結婚式で顔を見たはずなのに、黒く塗りつぶされていて怪物みたいだった。
「落ち着いて。伯爵は少し冷たく見えただけで、イケメンだったじゃない。別に怖い事もされたことないし、悪い噂は間違っていたでしょ」
じっとりとにじむ額の汗を袖でぬぐい、胸に手を当てて自分に言い聞かせる。
「話をしてみればきっといい人よ。何も知らないのに怖がったら失礼だわ」
夫が妻に会いたがっている。当たり前のことだ。一緒に夕食をとることも。夜に話をすることも。どちらも普通のこと。
「今夜」
夫婦が夜、一緒にいて、話だけで終わるのだろうか。
今度はトーレの顔が浮かんだ。不愛想で素っ気ないけれど、本当は優しい人。真面目で仕事熱心で、自分に厳しい人。
不機嫌そうな顔。呆れたような声。長い指。きびきびとした動き。
そして、笑顔。
「いけない。じっとしてるから考えてしまうのよ。うん。きっとそう」
首を振ってトーレの顔を振り払った。認めてしまいそうになった、気持ちも一緒に。
ベッドから下りて、クローゼットを開ける。ドレスは別の部屋に大量にあるから、こちらには普段着の動きやすいワンピースだ。イレーネは手早く着替え、髪を後ろでまとめると。
部屋から抜け出すため、ひも状にしたシーツをベッドの足に結んだ。
アニータは疲れて寝ている自分に遠慮して、しばらくは来ない。しかし廊下から外へ出れば誰かしら使用人とかち合う。そうすれば絶対に話しかけられ、寝ていないことを心配されて部屋に戻される。
屋敷の外に出るのは不可能になってしまうだろう。それに今は誰にも会いたくない気分だ。
「ちょっとだけ。ちょっと頭を冷やすだけ」
シーツを窓から垂らす。下を覗くと思ったよりも高い。シーツが風を受けて、ぷらぷらと揺れていた。
これくらい高い方が下りる作業に集中できて気持ちがまぎれる。体も動かせるし、気分転換になる。
庭をぶらついて外の空気を吸えば気持ちも落ち着くだろう。夕方までまだ時間はある。夕食に間に合うように帰ってくればいい。
シーツをしっかり掴んで、窓枠に足をかけた。そのまま後ろ向きで壁伝いに下りていく。ワンピースが風をはらんではためいた。
高さも風も思ったよりも気持ちがいい。
少し下りたところで、イレーネは下を眺めた。綺麗に手入れされた庭木と小道が美しく広がる。庭はよく散歩していたが、上から見ると新鮮だった。
「ん? 誰かいる」
庭師かと思ったが身なりが良すぎる。執事や家令でもない、きちんと流行を押さえた服装だ。後ろに撫でつけた栗毛。整った顔立ち。これはまさか。
「伯爵様?」
まずい。気づかれないうちに部屋に戻らなければと焦ったところで、庭を歩いていた男がこちらを見上げてしまった。ばっちりと目が合う。困る。心の準備がまだだ。
「イレーネ!?」
「ち、違います!」
もうバレバレなのに無駄にビシッと否定して、シーツを掴む手に力を入れて体を引っ張り上げる。
夕刻まで休むように言われたから、てっきり戻ってくるのもそれくらいの時間だと思っていたのに。そもそも今まで一度も屋敷で見かけたことのない伯爵が、庭を散歩しているなんて思わなかった。
「なぜそんなところに。危ないだろう!」
「大丈夫です! すぐ戻りますからぁ……あっ」
捕まっていたシーツがふつっと軽くなる。
悲鳴を上げる暇もない。
無意味に空をかく手足と、ひるがえるワンピース。青い空。ひらひらと一緒に落ちる、ひも状にしたシーツ。
それらを目にして、ベッドの脚に括りつけていたシーツがほどけたのだと、遅れて理解した。
「奥様!!」
もう駄目だと聞きなれた声と落下の衝撃がイレーネを包む。
「げほっ、大丈夫か!」
「……はい……」
受け止めてくれた伯爵の腕の中で、辛うじて返事をする。自分でも驚くほど声が出なかった。
「良かった」
腕が頭と背中に回り、ぎゅうっと抱きしめられる。長い指と微かな消毒薬の香り。
「伯爵様?」
ゆるゆると見上げると、切れ長のヘーゼルの瞳があった。
近い近い近い。
身体を後ろに引こうとすると、こつんとおでこに小さな衝撃を受ける。
「……あいたっ」
「無茶をする」
伯爵がイレーネの額に額をぶつけて、そのまま大きく息を吐いた。
「貴族令嬢のくせに家事をしたり、地下室に忍び込んだり。今度は窓からの脱出劇とは。貴女の行動力と思い込みには参る。子供たちよりも目が離せない」
「貧乏令嬢なもので」
「貧乏でなくても貴方のお転婆は変わらなかっただろう」
くすりとした笑いが落ちて、伯爵の長い指がイレーネの髪をすく。
額を合わせたままだから、吐息がかかるほどの距離だ。
この声。この指。この匂い。
「トーレですよね?」
「ああ」
「馬鹿! トーレの馬鹿馬鹿馬鹿。この秘密主義の大噓つき!」
「悪かった」
「ずるい。素直に謝られたら、怒れないじゃない」
泣きたくないのに、涙がこぼれる。漏れ出た声は、どうしようもなく震えてしまっていた。
「正直、貴族同士の婚姻はトラウマだった。惚れ薬の処方だの、堕胎だの、親子鑑定だの。冷えきった夫婦間やどろどろの愛憎劇ばかり見せられてきた。愛のある結婚など幻想なら、形だけの結婚でいいと。だから家令と偽って、君とは他人でいる気だった。でも」
目の前で、ずっと隠れていた切れ長の目尻が優しく弧を描く。
「君と接するうちに他人では嫌になった。君ともっと一緒にいたい。もっと話したい。君に……触れたい」
長い指がイレーネの目尻をぬぐった。
「イレーネ」
「はい」
「本当にすまなかった。白い結婚も地下室に行かない約束も、撤回したい。本当の夫婦になろう」
「はい」
目の前のトーレの顔が、さらに近づいてきた。
イレーネは馬鹿の一つ覚えみたいに、はいしか言えないことを情けなく思いながら。
目をつむった。
とても子爵家の屋敷とは思えない状態だけれど、イレーネが生まれた時からこうだ。気にはしていない。
「何度も騙されてすまない。私たちが馬鹿なばかりに」
目に焼き付けるように屋敷を眺めているイレーネに、泣きそうな母の肩を抱いた父が謝った。
元々落ち目の子爵家だったが、父親の代でさらに落ちた。焦った両親は商人の言いうままに一年後には三倍になるという土地を買い、これから流行るという商品を大量に仕入れた。
結果、土地は逆に三分の一の価格に暴落、本来の領地を売る羽目に陥った。商品は流行るどころか不良品だらけで、売り払った家具や装飾品の代わりに一室を埋めている。残ったのは屋敷と多額の借金のみだ。
「いいえ。お父様、お母様」
二人に心配をかけまいと、イレーネは明るく笑った。
本当は不安で堪らない。これからイレーネが嫁ぐのは、黒い噂の絶えないザネッティ伯爵家である。
『また伯爵が奴隷を買っていったぞ』
『子供ばかり買うそうじゃないか。そういう趣味なのかねぇ』
『趣味といえば、買った奴隷の手足を切り刻むってのがあるそうじゃないか』
『ほんとなのかい?』
『見たんだよ。血でぐっしょり湿ったシーツやタオルを燃やしてたのを。それも一回や二回じゃないんだぜ』
『うへぇ。子供《・・》好きなだけじゃなくて、痛めつけて喜ぶ変態かよ』
『伯爵家の屋敷から、時々子供の泣き声が聞こえてくるんだよ。可哀想に』
『俺も聞いたぜ。下の方から響いてくるんだよ。きっと地下室で酷い目にあってるんだぜ』
『あたしは笑い声を聞いたよ。地の底から響くような、不気味な声だったねぇ』
『やだやだ怖い。幽霊の声かね。もう何人も死んでるんじゃないかい?』
街のそこここで、様々な人々が噂を口にしていた。
聞いた噂話をまとめれば。伯爵は奴隷商人のお得意様で、幼い子供の奴隷を買っては屋敷の地下で手足を切り刻んでいるらしい。
身震いするような噂だが、ただの噂だと一蹴できない。サルヴァトーレ・ザネッティ伯爵が子供の奴隷を買っているのは本当だからだ。イレーネ自身、奴隷商に出入りする伯爵家の馬車を見かけたことがある。
笑顔を崩さないままイレーネは、心の中でそっと息を吐く。
大丈夫だ。金で買われたとはいえ、自分は奴隷として伯爵家に行くわけではない。表向きは、伯爵の妻として迎えられるのだ。切り刻まれたりはしないはず。
「今までありがとうございました。私、幸せになってきます」
イレーネの言葉に感極まった母が、わっと声を上げて顔を覆う。イレーネは大丈夫と母を抱きしめてから、父とも抱擁を交わし、生家を後にした。
****
「よし、綺麗になったわ」
モップ片手に仁王立ちになったイレーネは、ぴかぴかと光る床に満足して大きく頷いた。
「貴女は本当に貴族令嬢ですか」
後ろから呆れたような疲れたような、低い声がかかる。振り向くと長い前髪に瞳を隠した男がいる。
「ええ。貧乏《・・》子爵家令嬢です」
「今の貴女は伯爵夫人です。このようなことは使用人に任せておけばいいのです」
「あら。自由にしていいと言ったのは貴方ではないですか。トーレ」
にっこりと返したが、見えている薄い唇はぴくりとも動かない。ここに来てから、イレーネはこの青年が笑ったところを見たことがなかった。いつも淡々としていて、愛想というものをどこかに落としてきたようだ。
「……地下室にだけは、足を踏み入れませんように」
言い返しても無駄だと思ったのか、トーレがふいっと踵を返す。背中を見送ったイレーネは、よいしょとバケツを持ち上げた。
不安いっぱい、緊張して嫁いだものの、伯爵との結婚式は形どおりにさくさくと進んだだけだ。
夫となる伯爵は二十二になったイレーネの六歳上。一般的な栗毛の髪の冷たく整った顔立ちで、無感情なヘーゼルの瞳をしていた。
夫の情報はそれしか分からない。伯爵とは結婚式以来、二ヶ月以上顔を合わせていないからだ。
「二つ目の条件がすごく気になるけど。亭主元気で留守がいいって言うしね」
結婚式の後。伯爵の代わりに使用人を引き連れて現れたのは家令のトーレで、彼から伯爵の言を伝えられたのみである。
トーレから聞いた伯爵の伝言は、二つ。
一つ目は、この結婚は白い結婚であること。結婚したという事実だけがあればよく、子供も養子をとればいい。
二つ目は地下室には行かないこと。それさえ守れば、屋敷の中で自由に暮らせばいいとのこと。
身構えていた初夜さえなしで、正直ほっとしていた。
貧乏とはいえ子爵令嬢の身。元より結婚にロマンスを求めていなかったけれど、初めて会った男性といきなり夫婦の生活なんて怖い。二つ目の条件が噂を肯定しているように思えるから、なおさらだ。
「まあ、奥様。重いでしょう。バケツをお持ちします」
「大丈夫。私、結構力持ちなのよ」
バケツを持って階段を下りていると、わらわらとメイドや従僕たちがやってきた。
「それはここ二ヶ月で、分かっていますけど」
イレーネ付きの侍女のアニータが、バケツを見つめて困ったように眉尻を下げた。そわそわと体が揺れている。イレーネが手を出すと嫌がるのを知っているから我慢しているけれど、落ち着かないのだろう。
思わずくすくすと笑い声をもらすと、アニータが膨れた。
「いいから、お願い。仕事をさせて。優雅にお茶なんて飲んでいる方が拷問なの」
領地、館、使用人の管理はトーレを含めた二人の家令と執事が、完璧に伯爵家を取り仕切っている。伯爵は人付き合いが苦手なのか、訪れる客もあまりいないようだ。
使用人を雇う余裕のなかった貧乏貴族令嬢のイレーネは、物心ついた時から母親と共に家事をこなしていた。だからこうして家事をしている方が落ち着く。
「もう。奥様が働き者なのも困りものですね。私の仕事がなくなってしまいます」
「ごめんね、性分なの」
しゅんとうなだれると、アニータが首を横に振って微笑んだ。
「嘘ですよ。働かずにお給料もらえるなんて最高じゃないですか。でも少しはお世話させて下さいね」
「ええ。ありがとう!」
家令のトーレだけは、いつも仏頂面だったが。ここの使用人たちは皆、気持ちがいい。貧乏貴族のイレーネにも温かく敬意を払ってくれているし、伯爵夫人らしくない振る舞いを嫌がらずに歩み寄ってもくれる。それでいてさりげなくお世話と称して、伯爵夫人としての振る舞いを教えてくれた。
「じゃあそのバケツを置いたら、私たちと一緒にお茶にしましょう。私たちのお茶は庶民のお茶会ですからね。優雅なお茶会とは違って作法なんて、くそ……おっと、口がすぎました。この通り。優雅とはお近づきになれません」
そう両手をあげて肩をすくめる従僕の手は、指が一本欠けている。
「ああでも、お茶菓子だけはお茶会に引けを取りませんね。料理長がタルトを焼いてくれたんです。奥様のおかげで僕たちもご相伴にあずかれるようになりました」
「舌が肥えて仕方ありませんけどね」
どっと笑い声が上がった。彼ら使用人たちには、片足を引きずる者、顔に痣がある者、しゃべりがぎこちない者、耳が聞こえない者もいた。
「はい! それじゃああなたたち。さっさと片付けてしまいましょう」
「はい! 奥様、また後で」
「絶対に来て下さいよ。僕たちのタルトのために」
家政婦長と執事が手を叩くと、イレーネの周りでわいわいと喋っていた使用人たちが手を振って散っていく。イレーネは彼らに手を振り返してアニータと一緒に階段を下りきった。
アニータがモップを洗い、イレーネは汚れた水を捨ててバケツを空にした。彼女と連れだって食堂に向かいながら、ふと視線を廊下の奥、地下室の入り口がある方へ向ける。
色々と覚悟していたのに、ふたを開けてみれば驚くほど居心地が良く、とてもあんな噂のある伯爵家とは思えない。
ただ気になるのは。やはり、行ってはいけないと言われた地下室だった。
『うぇぇぇんっ……』
微かに。風に乗った、本当に微かな声がイレーネの鼓膜を震わせた。
高く舌足らずな子供の声だ。
最初は気のせいだと思った。噂を気にしているから、声が聞こえたような気がするのだと。しかし子供の声を聞いたのは、一度や二度ではない。
『伯爵家の屋敷から、時々子供の泣き声が聞こえてくるんだよ。可哀想に』
買い出しで聞いた噂話が脳裏によみがえる。
幼い子供の奴隷を買っては、屋敷の地下で手足を切り刻んでいるという噂。
体のどこかが不自由であったり、異常のある使用人たち。
この二つの真実が地下室にあるのではないだろうか。
「奥様ー。皆待ってますよ」
「ああ、ごめんなさい」
地下室の方向への視線に気づいたアニータにそっと背中を押されると、イレーネは逆らわずに足を動かした。
「タルト楽しみね」
「はい!」
嬉しそうに頷くアニータの右腕の、袖に隠れている部分に目が行く。一瞬だったが、そこには先ほどモップを洗う時に、ひきつれたような傷跡があった。
****
今の心地の良い生活を好奇心で壊したくはない。昼間に聞いた泣き声は幻聴。噂は噂で、本当のことではないのかもしれない。そう思いたい。
もし噂が本当だとしても。蓋をしてしまえばいい。聞かなかった、見なかったことにしてしまえば、何もなかったことと同じなのだから。だから罪悪感なんて抱かなくていい。胸を痛めなくていいのだ。
たとえ、今の穏やかな生活の下で苦しむ子供たちがいるとしても……。
そう思っていたのに。
「私の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」
しん、と寝静まった屋敷の廊下を、イレーネは小声で自分を罵りながら、地下室へと向かっていた。右手にはランタン。左手にはくすねてきた地下室の鍵。好奇心は猫をも殺すと分かっているのに、足は止まらない。
「奴隷がいるかどうか、確かめるだけよ。それだけ」
見てしまえばそれだけで済まないことを予感しながら、イレーネは地下室の鍵を開けた。ガチャ。重々しい金属音と共に開いた扉から、身を滑り込ませる。
なるべく音を立てないように階段を降りた。一段降りる度に心臓がどくどくと波打った。
どうか。
どうか噂は噂でありますように。
祈りながらたどり着いた地下室の、二つ目の扉をゆっくりと開けた。
湿布か消毒剤のつんとした匂いが鼻を刺激した。ずらりと並んだベッドに、人が寝ている。
すっかり顔なじみになった使用人たちではない、彼らよりもあどけない寝顔だ。布団から出ている手や頭などに、包帯を巻いた子が数人。片方の手がない子もいる。布団に片足のふくらみがない子も。巻いていない子も、布団に隠れた部分には巻いてあるのだろう。
ああ。噂は本当だったんだ。
イレーネは唇を噛みしめた。
落胆と悲しみが苦い思いとなって、黒い染みのようにじわじわと胸に広がる。噂など信じたくなかったのに。
イレーネは胸元で両手をぎゅっと握った。
「そこで何をしている!」
「っ!?」
低く抑えた、しかし鋭い声にイレーネは飛びあがった。声の主は家令のトーレだった。唇を険しく結び、つかつかと近づいてくる。
「あ、あの、これは……むぐっ!?」
「待て……! 声を上げるな。子供たちが起きる」
骨張った大きな手がイレーネの口を覆った。身をよじると、反対の手でがっちりと肩を掴まれる。
どうしよう。逃げられない。怖い。秘密を知ってしまったからには、自分も無事では済まないのだろうか。
ざあっと音を立てて血の気が引いた。手足が冷たくなって、感覚がなくなっていく。トーレの顔も、地下室の景色もすうっと遠くなっていった。
「おい? しっかりしろ」
「トーレ様ぁ……?」
「どうしたの?」
「その人誰?」
かすかにトーレの焦ったような声と、幼い子供たちの声がしたのを最後に、イレーネは意識を失った。
****
朝だろうか。まぶたの向こうが明るい。ぱたぱたと足音がする。きゃきゃっという子供の笑い声もした。
「おい、あまり騒ぐな」
「まだ寝てるのー?」
「ああ。血圧はもう安定しているから、普通に眠っている」
「起きたら一緒に遊んでもいい?」
「駄目だ」
「ええ~。つまんない」
ぼそぼそと交わされる複数の声に、ぱちりとまぶたを上げると、女の子と目があった。
「トーレ様、起きた!」
「起きたよ」
「えっと。あれ、私」
女の子が側にいたトーレの袖を引いて報告している間に、体を起こすと布団が滑り落ちた。模様も何もない、簡素で不愛想な天井と壁。並んだ複数のベッド。消毒薬の香り。おしりの下にはスプリングの感触。
どうやらベッドで寝ていたらしいけれど、ここ二か月使っていたイレーネの寝室ではない。
夜と違って明るくなっているが、地下室だ。地下室といっても部屋の上部は地表に出ていて、通風と明かり取り用の窓があり、朝日が差し込んでいる。
子供たちは昨夜と違って起きていた。彼らは包帯を巻いているものの、元気そうだ。車いすに乗った子も、片手のない子もいるが血色はよく、イレーネを好奇心をたっぷり含んだキラキラとした目で見ていた。
とても噂のような扱いをされている奴隷には見えない。
「奥様は強いストレスと睡眠不足で倒れられたのです。失礼」
ベッド脇にひざまずいたトーレがイレーネの手を取った。長い指が手首に添えられる。自分よりも大きくて温かな手の感触にどきっと心臓が跳ねた。
「? 少し脈が速いか?」
「平気です!」
イレーネは慌てて手を引っ込めた。手を握られて動揺したなんて恥ずかしすぎる。かああっと顔が熱くなった。
「顔が赤いですが」
「びっくりしただけなので! 男性に手を握られるなんて、慣れてないんです!」
「……は?」
ぽかん、とトーレの口が開いた。ああ、この人こんな顔も出来るんだと意外に思っていると、ふいっと顔を逸らしたトーレが立ち上がり背を向けた。
「失礼しました。脈を測っただけで他意はありません」
背中を向けたトーレの正面にいた男の子が不思議そうにトーレを見上げた。
「トーレ様、どうしたの?」
「何でもない」
「えー? だって」
「何でもないと言っているだろう。注射されたいか」
素っ気ない答えに男の子の隣にいた女の子が反論すると、トーレの口調が荒くなった。
「やだ!! 注射嫌いぃ」
くしゃりと顔を歪めた女の子が、トーレの側から逃げ出す。イレーネのいるベッドを周って、後ろに隠れた。
「注射って、こんな小さな子供に何をする気です。いくら奴隷だからって酷い事をしたら許しません!」
ベッドの布団を掴むと、苦虫を嚙み潰したような顔をしているトーレに向かって投げた。
「な、何をする!」
「今よ。みんな逃げて!」
突然布団にくるまれて、もがくトーレに抱きついて動きを封じ、イレーネは子供たちに叫んだ。ところが子供たちは目を丸くしているだけで、逃げる様子がない。
「大丈夫だから、早く逃げて!」
布団で手足を使えなくしているとはいえ、成人男性を長く押さえてはいられない。動かない子供たちに焦ったところで。
ガチャリとドアが開いた。
「きゃああ」
悲鳴を上げて目をつむる。
もう駄目だ。良くて離縁、最悪は口封じされてしまうかもしれない。
「奥様?」
「え?」
聞き覚えのある声に目を開けると、ドアの前にアニータが立っていた。
****
「本当にごめんなさい」
イレーネは慌てて布団を取ると、トーレに何度も頭を下げた。下げられているトーレは腕組みをしたままむっつりと黙りこんでいる。
そんなトーレとイレーネを興味津々といった様子で見ている子供たちに、アニータと一緒にやってきた従僕が手を叩いた。
「さぁ、朝ご飯にしよう。こっちにおいで」
「「はーい」」
元気よく返事をした子供たちが、従僕について隣の部屋へ駆けて行く。足を引きずっている子は杖を突いて。車いすの子は手で操ってではあるが。
「あはは。勇ましかったですよ、奥様。ねえ? トーレ様」
「同意を求めるな。返答に困る」
明るく笑うアニータに、片手を額に当てたトーレが呻いた。
「すみません、奥様。怖い思いをされましたよね」
「ううん。私が言いつけを破ったからだもの。噂を鵜呑みにして酷い勘違いをしたのが悪いのよ」
眉尻を下げるアニータに首を横に振ると、トーレがぼそりと言葉を吐いた。
「噂は真実です。旦那様は奴隷を買っては、手足を切り刻んでおります」
「治療のため、ですけどね!」
トーレの重々しい皮肉をアニータが明るくさえぎったが、イレーネの気分は沈んだ。罪悪感で胸が重くなる。
そう。確かに伯爵は奴隷を買っては切り刻んでいる。ただしそれは、病気や怪我の治療のための手術のためなのだと、やってきたアニータたちが説明してくれた。
アニータの腕にあるひきつれたような傷跡も手術の痕だそうだ。生まれつき肘から下が全く動かなかった彼女は、家族にも疎まれて奴隷商に売られたのだという。
いつも片足をひきずっていた従僕も、腫瘍のせいで立つことも出来なかったらしいが、伯爵の手術で歩けるようになった。体のどこかが不自由であったり、異常のある使用人たちは皆、伯爵によって救われた者たちだったのだ。
「地下室の存在は表向きに公表されておりません。ですから旦那様は地下室に行かないことを条件にされたのです」
「破ってごめんなさい。私は離縁されるのでしょうか」
溜め息を吐くトーレに、おそるおそる尋ねた。
莫大な借金を肩代わりしてくれた伯爵がイレーネに求めたのは、たった二つの条件。
一つ目の条件はイレーネへの配慮だから、実質一つだけ。その一つを破ってしまったのだから、離縁されて当然だ。
「確かに言いつけを破られましたが。これくらいで離縁しませんよ」
「本当に?」
「本当です」
しゅんとうなだれていると、トーレがため息を吐いて腕組みを解いた。不機嫌だった声も和らいでいて、イレーネの心はぱあっと明るくなった。嬉しくなって顔を上げると。
いつも硬く引き結ばれていたトーレの口元がほころんでいた。
イレーネは慌てて顔を伏せる。瞳は前髪で見えないけれど、普段笑わない人の笑顔は破壊力が強かった。
「昨夜の冒険で奥様もお疲れでしょう。お部屋にお戻り下さい」
「あの、トーレ」
珍しい笑みは一瞬で引っ込み、いつもの不愛想が戻る。そのことになぜかほっとしてイレーネは願いを口にした。
「またここに来てもいいですか?」
「……」
トーレが無言で固まる。
行くなと言われていた地下室にまた来たいだなんて、厚かましい願いだっただろうか。浮かれていた気持ちがみるみるしぼんで、トーレの顔をまともに見られなくなった。少し下を向いて、視線だけを向ける。
「駄目、ですか?」
「う」
軽く体を後ろに引いたトーレが口元を引きつらせた。祈るように見ていると、やがて諦めたようにトーレの肩が落ちた。
「お好きになさってください」
一言を絞り出して立ち上がり、壁際の机に向かうと事務仕事を始めた。
****
地下室に行くようになってから、数週間が過ぎた。イレーネは地下室に足しげく通い、子供たちのお世話をしていた。
「すぐ終わるからな」
消毒液のしみこませた綿を持ったトーレの言葉に、イレーネは足腰に力を入れた。
傷口の消毒はかなり痛い。子供によっては泣き叫んで暴れる。だから暴れる子はこうやって羽交い絞めにして処置をする。
「うぇぇええん!」
トーレが綿を傷口にぽんぽんと当てると、大声で泣き出した。トーレは泣き声をものともせず、手際よくガーゼを当てて包帯を巻いて治療を終わらせると、次の子供に移った。淡々と診察をこなし、治療を施し、病状を書き留め、薬を与えるなどの処置をしていく。
それだけではない。トーレは診断や処置、薬の処方だけでなく、手術をすることさえあった。
ザネッティ伯爵家は代々医者の家系だ。伯爵家に来てから二か月あまりの間、よく早足で地下室のある方へ消えていくトーレを見かけていたのは、地下室の子供たちの治療を忙しい伯爵に代わり、特別に伯爵から医術を学んだトーレが担っていたからだった。
トーレの診察が終わると、子供たちは自由時間。
「ほら、まだ走っちゃ駄目よ。歩くだけだからね」
「はーい」
「イレーネ様、ご本読んで」
「いいわよ」
まだ治療中や術後で寝ている子もいるが、子供たちは皆元気だ。子供たち同士で遊ぶとだんだんと動きが激しくなるため、注意が必要である。
イレーネは元気な子供たちにくすりと笑いながら、小さな窓を見上げた。
空気と光を取り入れるため、地下室の上部は地面より上になっていて、そこに窓がある。噂の子供の泣き声は、治療で泣く子供の声がこの窓から外へ漏れたものだ。
血でぐっしょり湿ったシーツやタオルも、手術の際に出たもの。笑い声は遊んでいる時の声。地下室で反響して、くぐもって不気味な幽霊の声のようになったのだろう。
噂は嘘ではなかったが、真実は噂のように黒くはなかった。それに。
イレーネは窓から視線を下に移した。そこには机に診察記録と医学書を広げるトーレがいた。
診察が終わってもトーレは忙しい。分厚い医学書を読み、子供たちの診断記録と照らし合わせて、日々の診察や治療に生かす。薬品の調合も、容態が安定していない子の看病もする。イレーネや使用人たちも出来る限りの手伝いをしているが、専門的なことは分からないから限りがある。
「昨日新しく来た子の診断記録ですか」
「ああ。奴隷商がろくな扱いをしてこなかったんだろう。思ったよりも状態が悪い」
医者の時のトーレは、敬語が抜ける。素が出ている気がして、イレーネはこちらの方が好きだった。
トーレが持っていた診断記録を置いた。立ち上がって寝ている子供のベッドに向かう。折れてしまいそうなほどやせ細り、浅い呼吸をしている。高熱を出しているにもかかわらず、青白い顔色をしていた。
「打撲痕に、骨が変形したまま癒合した左腕。問題は感染を起こしている裂創だ。消毒はしたが、衰弱していて薬も飲まなかった。後はこの子の体力次第だ。俺は何も出来ない」
細い手を大きな手が握る。肩が落ち、背筋が丸まった。
「そんなことはありません。貴方は沢山の子供たちを救ってるじゃないですか」
「ただの偽善だ」
イレーネは、子供の手を握って床に膝を着くトーレの横に座った。
うつむいているせいで、いつも以上にしっかりと栗色の前髪が表情を隠していたが、微かに震える声と唇に己に対する責めと憤りがにじんでいた。
「偽善なんだ。いくら伯爵家だとはいえ、無償で奴隷の子を助け続けられるわけがない。この子たちは新薬や新しい手術法、医学の実験台だ」
食費・薬・医療器具・包帯などの消耗品。全てに莫大な金がかかる。伯爵家はそれを実験台という名目で国から予算を落としていた。
「それのどこが悪いの?」
確かに新薬や新しい手術法の被験者でもある。しかしトーレはそれらを慎重に精査して、子供たち一人一人の病状に合わせて使用している。
百パーセントの安全を保証できはしないが、ある意味最先端の医療を受けているのだ。
「トーレ。私は医学のことは分からないけれど、今ここにいる子たちは貴方が治療しなければ死んでいたか、奴隷としてあまりいい人生は歩めなかったわ」
地下室に連れてきた子供は、全員が元気になったわけではない。寝たきりの子供も、亡くなった子供もいる。
それでもトーレが治療したから、救われた命がある。
「理由なんてどうでもいいの。大事なのは貴方に救われたという事実よ。皆貴方に感謝しているわ」
無愛想なトーレに、子供たちがなついているのが証拠だ。
イレーネは手を伸ばしてトーレの頬に添えると、自分の方に向けた。
「誇って。貴方はあの子たちのヒーローよ」
長い前髪の下にある目を覗くようにして、ゆっくりと噛んで含めるように告げる。
「それに実験台にしているのはザネッティ伯爵でしょ。奴隷を買うだけ買って、治療はトーレに全部やらせて。成果だけ自分ものもにして王侯貴族相手に大儲けしてるんだから、トーレが気に病む必要なんてないわ」
反対に伯爵本人は姿を見せない。
奴隷を買うだけ買って、治療や世話を人任せだなんて。噂と違い、伯爵が奴隷たちを助けているのは事実だが、少し印象が悪い。
「いや、それは……!」
何か言いかけて、トーレが寝ている子供に視線を戻した。
「どうしたの!? まさか、良くないの?」
急に注意を向けたので、容態が悪くなったのではと焦る。
「いや、違う。今、握り返してくれた」
力なくベッドに置かれていた細く小さな手が、トーレの手をぎゅっと握っていた。
イレーネはほっと胸を撫で下ろした。この子は生きようとしている。だからきっと大丈夫だ。
「もう大丈夫よ。お医者さんが助けてくれるからね」
「必ず助ける。頑張れ」
トーレがもう片方の手で小さな手を擦ると、うっすらと目を開けた。スプーンで薬を口に流し込むと、こくんと飲んだ。一晩つきっきりで看護にあたり、小さな命は持ち直した。
「ふう」
「お疲れ様でした、トーレ」
どさっと床に腰を下ろしたトーレが、ベッドに背を預けた。イレーネが声をかけると、前髪の奥から強い視線を向けられる。
「奥様。旦那様が奥様に会いたがっておられます」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からず、遅れて内容を理解した。
「もう朝方ですね。お疲れでしょうから夕刻まで休んでください。夕食の席は旦那様とお二人でとれるようにしておきます。今夜、ゆっくりとお話を」
敬語に戻ったトーレが、急に他人のように感じて。胸が痛かった。
****
眠れない。
何度も寝返りを打ったイレーネは、諦めて体を起こした。
眠ろうとして目をつむると、顔も知らない伯爵が黒い影となってイレーネに手を伸ばしてくる。結婚式で顔を見たはずなのに、黒く塗りつぶされていて怪物みたいだった。
「落ち着いて。伯爵は少し冷たく見えただけで、イケメンだったじゃない。別に怖い事もされたことないし、悪い噂は間違っていたでしょ」
じっとりとにじむ額の汗を袖でぬぐい、胸に手を当てて自分に言い聞かせる。
「話をしてみればきっといい人よ。何も知らないのに怖がったら失礼だわ」
夫が妻に会いたがっている。当たり前のことだ。一緒に夕食をとることも。夜に話をすることも。どちらも普通のこと。
「今夜」
夫婦が夜、一緒にいて、話だけで終わるのだろうか。
今度はトーレの顔が浮かんだ。不愛想で素っ気ないけれど、本当は優しい人。真面目で仕事熱心で、自分に厳しい人。
不機嫌そうな顔。呆れたような声。長い指。きびきびとした動き。
そして、笑顔。
「いけない。じっとしてるから考えてしまうのよ。うん。きっとそう」
首を振ってトーレの顔を振り払った。認めてしまいそうになった、気持ちも一緒に。
ベッドから下りて、クローゼットを開ける。ドレスは別の部屋に大量にあるから、こちらには普段着の動きやすいワンピースだ。イレーネは手早く着替え、髪を後ろでまとめると。
部屋から抜け出すため、ひも状にしたシーツをベッドの足に結んだ。
アニータは疲れて寝ている自分に遠慮して、しばらくは来ない。しかし廊下から外へ出れば誰かしら使用人とかち合う。そうすれば絶対に話しかけられ、寝ていないことを心配されて部屋に戻される。
屋敷の外に出るのは不可能になってしまうだろう。それに今は誰にも会いたくない気分だ。
「ちょっとだけ。ちょっと頭を冷やすだけ」
シーツを窓から垂らす。下を覗くと思ったよりも高い。シーツが風を受けて、ぷらぷらと揺れていた。
これくらい高い方が下りる作業に集中できて気持ちがまぎれる。体も動かせるし、気分転換になる。
庭をぶらついて外の空気を吸えば気持ちも落ち着くだろう。夕方までまだ時間はある。夕食に間に合うように帰ってくればいい。
シーツをしっかり掴んで、窓枠に足をかけた。そのまま後ろ向きで壁伝いに下りていく。ワンピースが風をはらんではためいた。
高さも風も思ったよりも気持ちがいい。
少し下りたところで、イレーネは下を眺めた。綺麗に手入れされた庭木と小道が美しく広がる。庭はよく散歩していたが、上から見ると新鮮だった。
「ん? 誰かいる」
庭師かと思ったが身なりが良すぎる。執事や家令でもない、きちんと流行を押さえた服装だ。後ろに撫でつけた栗毛。整った顔立ち。これはまさか。
「伯爵様?」
まずい。気づかれないうちに部屋に戻らなければと焦ったところで、庭を歩いていた男がこちらを見上げてしまった。ばっちりと目が合う。困る。心の準備がまだだ。
「イレーネ!?」
「ち、違います!」
もうバレバレなのに無駄にビシッと否定して、シーツを掴む手に力を入れて体を引っ張り上げる。
夕刻まで休むように言われたから、てっきり戻ってくるのもそれくらいの時間だと思っていたのに。そもそも今まで一度も屋敷で見かけたことのない伯爵が、庭を散歩しているなんて思わなかった。
「なぜそんなところに。危ないだろう!」
「大丈夫です! すぐ戻りますからぁ……あっ」
捕まっていたシーツがふつっと軽くなる。
悲鳴を上げる暇もない。
無意味に空をかく手足と、ひるがえるワンピース。青い空。ひらひらと一緒に落ちる、ひも状にしたシーツ。
それらを目にして、ベッドの脚に括りつけていたシーツがほどけたのだと、遅れて理解した。
「奥様!!」
もう駄目だと聞きなれた声と落下の衝撃がイレーネを包む。
「げほっ、大丈夫か!」
「……はい……」
受け止めてくれた伯爵の腕の中で、辛うじて返事をする。自分でも驚くほど声が出なかった。
「良かった」
腕が頭と背中に回り、ぎゅうっと抱きしめられる。長い指と微かな消毒薬の香り。
「伯爵様?」
ゆるゆると見上げると、切れ長のヘーゼルの瞳があった。
近い近い近い。
身体を後ろに引こうとすると、こつんとおでこに小さな衝撃を受ける。
「……あいたっ」
「無茶をする」
伯爵がイレーネの額に額をぶつけて、そのまま大きく息を吐いた。
「貴族令嬢のくせに家事をしたり、地下室に忍び込んだり。今度は窓からの脱出劇とは。貴女の行動力と思い込みには参る。子供たちよりも目が離せない」
「貧乏令嬢なもので」
「貧乏でなくても貴方のお転婆は変わらなかっただろう」
くすりとした笑いが落ちて、伯爵の長い指がイレーネの髪をすく。
額を合わせたままだから、吐息がかかるほどの距離だ。
この声。この指。この匂い。
「トーレですよね?」
「ああ」
「馬鹿! トーレの馬鹿馬鹿馬鹿。この秘密主義の大噓つき!」
「悪かった」
「ずるい。素直に謝られたら、怒れないじゃない」
泣きたくないのに、涙がこぼれる。漏れ出た声は、どうしようもなく震えてしまっていた。
「正直、貴族同士の婚姻はトラウマだった。惚れ薬の処方だの、堕胎だの、親子鑑定だの。冷えきった夫婦間やどろどろの愛憎劇ばかり見せられてきた。愛のある結婚など幻想なら、形だけの結婚でいいと。だから家令と偽って、君とは他人でいる気だった。でも」
目の前で、ずっと隠れていた切れ長の目尻が優しく弧を描く。
「君と接するうちに他人では嫌になった。君ともっと一緒にいたい。もっと話したい。君に……触れたい」
長い指がイレーネの目尻をぬぐった。
「イレーネ」
「はい」
「本当にすまなかった。白い結婚も地下室に行かない約束も、撤回したい。本当の夫婦になろう」
「はい」
目の前のトーレの顔が、さらに近づいてきた。
イレーネは馬鹿の一つ覚えみたいに、はいしか言えないことを情けなく思いながら。
目をつむった。
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