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第四章 風によせて
第29話 ロゼ・シャンパンより甘く
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茉莉香がシャルル・ド・ゴール空港に着いたのは、まだ陽が登らぬ暗い早朝だった。
「寒い……」
思わず手袋に包まれた手をこすり合わせる。
茉莉香がロビーまで歩き出ると、背後から呼び止める声が聞こえた。
「茉莉香ちゃん!」
振り返ると、誰よりも会いたい人がそこにいる。
「夏樹さん!」
二人は同時に駆け寄ると、互いに抱き合った。
(何から話せばいいかしら?)
話すべきことはいくらでもある。
でも……あまりにも多くて選べずにいた。
そして、
「おめでとう!」
ようやく言葉が出た。
「ありがとう」
二人は抱き合う腕を緩めると、互いに見つめ合った。
「まずは朝食を食べよう」
二人はメトロを乗り継ぎ、サンラザール駅へ出て、カフェで朝食をとった。
「本当はなぁ……」
夏樹が不本意そうに言う。
「えっ?」
「俺が迎えに行きたかったんだ。けっこう意気込んでたんだよ。俺、男だし!」
「まぁ!」
茉莉香が笑う。
「でも、夏樹さんのお祝いだから……」
「そんなこと言ったって、俺だってまだ、茉莉香ちゃんのお祝いをしていないんだ」
不服そうな夏樹を見て、茉莉香がまた笑う。
「でも、嬉しいよ」
「ええ。私も」
こうして初めて二人きりでパリで会うのだ。
茉莉香は別れ際の父を思い浮かべる。いつもの強張った表情ではなかったが、どこか寂しそうだった。
だが、父はずっと以前から自分たちを認めていてくれた。
そんな気がする。
「折角だからパリ見物をしよう。それからレストランを予約してあるから、夜はそこで食事して……」
「ねぇ。お食事は夏樹さんのお部屋でどうかしら?」
「え!?」
夏樹がぎょっとする。
「今からでも、節約した方がいいわ。私がお料理を作るわ」
「ああ、そういうことね……」
気落ちしたように言うが、安堵しているようにも見える。
そしてレストランにキャンセルの電話を入れた。
「それじゃ、パリ見物を早めに切り上げて、スーパーで食材を買おう。食事は一緒に作ろう。終わったら宿泊先まで送り届けるから」
カフェを出た後、まずはクルーズ船に乗ることにした。移動の手間を省いて観光ができるし、その間、いろいろな話をすることもできる。
「クルーズ船は二度目だわ」
「足元気を付けて」
先に乗り込んだ夏樹が、茉莉香の手を取り乗船を助けた。
座席に着くと、ガラス張りの天井からセーヌ川沿いの街並みが見渡せる。
オルセー美術館が驚くほど近く、川にかかる橋の下を通り抜ける醍醐味も素晴らしい。
わっ!……と、歓声が上がる。
「えっ? なに?」
茉莉香がきょろきょろとしていると、
「アレクサンドル三世橋をくぐり抜けるところだよ」
最も美しいことで知られるアレクサンドル三世橋だ。乗船客たちが一斉に橋を見上げている。
二人は窓外の景色を眺めながら話をする。
「二人でパリに暮らす前に、新居を決めないとな」
「私も働くわ」
「俺、茉莉香ちゃんにはいい仕事をして欲しい。無理に数を増やさなくていいよ。俺の借金は俺が返すようにしていきたい。だから、ゆっくり返していくつもりだ……その代わり貧乏させちゃうけど……給料も、はじめはそんな良くないし……」
「ええ。 それに、les quatre saisonsパリ支店で働けるかもしれないの。そうしたら、家事や翻訳の仕事にも負担がかからないわ」
気軽なお喋りのようだが、自分たちは将来の話を現実的に話せるようになったのだ。もう、夢ではない。
それが嬉しかった。
「それから……今度の仕事は、ガスパールの事務所の一員としてやるけど、いつか俺もこのパリで独立したい。借金を返したら……。いずれ日本でも仕事をするつもりだけど、当分はパリで暮らしたい」
「……ええ」
茉莉香には、夏樹が何を言おうと受け止める覚悟が出来ていた。
それは、彼を日本で待ち続けている間に出来た覚悟かもしれない。
「大丈夫よ! 帰省することもできるし、パパやママが会いに来ることもできるから」
だがそれは、そう容易いことではないだろう。
ふと、父の寂し気な表情が目に浮かんだ。
クルーズ船の一時間半の旅を終え、二人はスーパーへ向かった。
「メインは肉料理にしよう。仔羊のいいのがある。茉莉香ちゃん仔羊は大丈夫?」
と、言って、骨付きの仔羊肉を手に取った。
「ええ。好きよ。じゃあ、私はデザートを作るわ。由里さんに教えてもらったの」
そう言って、林檎をカートに詰め始めた。
「仔羊は臭みがあるからな……」
そう言って、夏樹が玉ねぎ、赤ピーマン、パセリ、にんにく、ロリーズマリー、バジル、シブレット、アンチョビーをカートに入れる。
「よく作るお料理なの?」
「いいや。友だちのおばさんに教わっただけ。作るのは初めてなんだ」
「まぁ!」
「なんとかなるさ!」
二人が弾けるように笑う。
「パンはパリジャンにしよう」
バケットに似た、バケットよりも太さのあるパンで、表面の香ばしさと共に、中の柔らかい部分も楽しめる。
「サラダも作りましょう。ニース風がいいわ」
そう言って、サラダ菜、トレヴィス、アンティーヴ、トマト、オリーブ……
色とりどりの野菜に、たまごも入れる。
「ねぇ! シャンパンも買いましょう! これが安いわ」
茉莉香が手に取った瓶を見せると、夏樹がちょっと困ったような顔をした。
「ロゼ・シャンパンよ?」
夏樹の表情を茉莉香が不思議そうに見る。
「その値段だとなぁ……ま、いっか。飾りみたいなもんだな」
カートに安物のシャンパンも詰め込まれた。
買い物を済ませた二人は、夏樹の住むアパートへ向かう。
路地裏にある、古いアパートだ。
「驚いた? パリは家賃が高いからね。でも、二人で住むアパートは、もっといいところにしよう」
夏樹が恥ずかしそうに言った。
初めて入る夏樹の部屋。
書物や模型。製図版。狭い部屋がいっそう狭く見えたが、室内は外観よりも明るく清潔だった。
カタカタ……
時折、窓枠が風に吹かれて音を立てる。
「さてと……豪華ディナーを作ろうか!」
夏樹が、仔羊にかけるカフェ・ド・パリ・バター(あわせバター)を作るために、香味野菜とアンチョビーを切り、フードプロセッサーにかける。
「あら。フードプロセッサーがあるのね」
「ああ。教えてもらったときに、“新しいのを買ったから”って、くれたんだ。便利だよね」
室温で柔らかくしたバターに香味野菜を混ぜ、再びフードプロセッサーにかけ、卵黄を混ぜ塩コショウで味を調えた。
一方茉莉香は林檎を半分に切り、芯をくり抜き、一つを除いてそれらをさらに半分にしている。
「何を作るの?」
「タルト・タタンよ」
そして、バターとグラニュー糖とレモン、シナモンでシロップを作り、カットした林檎をその上に並べた。
「それから、これ……」
その上にパイシートを乗せ、オーブンに入れた。
「焼けるのに一時間ぐらいかかるわ」
「じゃあ、その間に、サラダを作るか」
そう言って、ニース風サラダを作る。
「あと、もう一品できそうだな」
白いんげん豆とベーコンを煮込み始めた。
「まぁ! 夏樹さんって、手際がいいのね」
「そりゃそうさ! 自炊してかなきゃここではやっていけない。さて、そろそろ仔羊を焼くか」
熱した油に仔羊を乗せると、香ばしい匂いが部屋に漂う。
一方茉莉香は、
「タルト・タタンが焼きあがったわ」
そう言って、オーブンから取り出したタルトをひっくり返して皿に盛りつけ、鍋の底の煮詰めたシロップを塗ってつやを出す。
「タイミングがいいな」
夏樹は、焼きあがった仔羊にカフェ・ド・パリ・バターを塗り、オーブンに入れる。
仔羊に焼き色がついたら完成だ。
食事をテーブルに並べる。
「すごいご馳走だわ! レストラにも負けないわね!」
「ちょっと待ってて」
夏樹が戸棚をごそごそと探った後、
「これも……」
テーブルに古めかしい枝付き燭台を置いた。
「まぁ! こんなものが?」
「前の住人が置いて行ったんだ。あと、停電用に俺が蝋燭を買っておいたから……」
と、言いながら蝋燭に火を点けた。
「少しはムードが出るかな?」
室内の照明を落とすと、蝋燭の灯りが二人を照らした。
ささやかな灯りのもと、二人は顔を近づけて話す。
距離が一層縮まるようだ。
食事はどれも上出来だった。
「この仔羊すごく美味しいわ。ぜんぜん臭みがない。初めて作ったなんて思えないわ」
「デザートも美味しいよ。見た目もきれいだ」
シャンパンは……
「クリスマスのお子様シャンパンみたいだな。まるでジュースだ」
「甘くて飲みやすいわ」
シャンパンはロゼ色で、細かい泡が美しかった。
(そんなに弱いかしら?)
頬が上気しているのがわかる。
(顔が赤くなっていないかしら?)
手を当てると、微かに熱を帯びていた。
「おなか一杯」
「俺も」
二人は顔を見合わせて笑った。
食べ終わると片づけをし、テーブルの上は、燭台だけになった。
「ねぇ。お茶を淹れるわ。夏樹さん紅茶あるわよね」
「うん。今日はこれにしようか」
そう言って、少女のシルエットの描かれた濃緑色の缶を出した。
「marica!」
「うん」
marica。les quatre saisonsで開発されたフレーバーティーだ。
柑橘からジャスミンへと入れ替わる香りが人気で、いつの間にか、特別な日の贈り物として使われ、特に、恋人同士で贈り合うようになっていた。
“maricaを贈り合うと恋が実る”
誰が言い始めたのか、そんな言葉が囁かれている。
「じゃあ、キッチンで淹れてくるわ」
そう言って、席を立った。
湯を沸かし、温めたポットに茶葉と湯を入れる。葉が開くのを待つ間、ポットに覆いをかけ、カップを温める。
「さあ、できたわ。いつもより上手に淹れられた気がするわ。maricaは恋を実らせるって……」
誰が言い出したのだろう?
茉莉香がクスリと笑う。
「だって、私たちはもう……」
と、呟きかけ、
(……えっ? 私たちは……もう……?)
もう? もう?
心に問いかける。
食堂に戻り、カップに茶を注ぐと、柑橘の香りの後、茉莉香の甘い香りが部屋を満たした。
二人は沈黙のままカップに口を付ける。
「どうしたのかしら? 今日は、香りがいつもより強いわ……いつもは控えめなのに……」
まるで部屋に花が咲いているかのように香る。
「シャンパンに酔ったのかしら」
うつむいて赤くなった頬に手を当てた。
顔を上げると、夏樹が自分を見つめている。
テーブルに肘をつき、組んだ指の上に、軽く顎を乗せていた。
この眼差しを向けられたことは初めてではない。いつもは、目が合うと夏樹は視線を外していたが、今夜は真っすぐに自分を見据えている。
ゆらっ……
すきま風に蝋燭の炎が揺れて煌めく。
「……」
茉莉香は目を逸らし、再びうつむいた。
「寒いわ……」
隙間風がのせいだろうか? 思わず体を縮める。
自分を背後から、そっと抱きしめる手がある。
その手は温かかった。
夏樹が名を呼びながら、何かを囁いている。
躊躇いながらうなずくと、
―― ふわり ――
抱き上げられる。
「きゃっ!」
体のバランスを崩し、態勢を整えるために夏樹の首に手を回すと、顔が近くなった。
見つめあう。
……そしてキス……
最初のキスは軽く
そして、交わしたことのない長い接吻。優しい口づけ。
離ればなれの長い時を埋め、恐れも不安も消えていく。
胸を満たす恋の喜び……。
夏樹が蝋燭の火を吹き消し、白い煙が細くたなびいてく。
気の抜けたロゼ・シャンパンの泡が、最後の呼吸をするかのように水面に上がっては消えていき、冷めた紅茶の残り香が微かに漂う。
―― 今、恋が実ろうとしている。
茉莉香は目を閉じ、静かにそれを感じていた。
「寒い……」
思わず手袋に包まれた手をこすり合わせる。
茉莉香がロビーまで歩き出ると、背後から呼び止める声が聞こえた。
「茉莉香ちゃん!」
振り返ると、誰よりも会いたい人がそこにいる。
「夏樹さん!」
二人は同時に駆け寄ると、互いに抱き合った。
(何から話せばいいかしら?)
話すべきことはいくらでもある。
でも……あまりにも多くて選べずにいた。
そして、
「おめでとう!」
ようやく言葉が出た。
「ありがとう」
二人は抱き合う腕を緩めると、互いに見つめ合った。
「まずは朝食を食べよう」
二人はメトロを乗り継ぎ、サンラザール駅へ出て、カフェで朝食をとった。
「本当はなぁ……」
夏樹が不本意そうに言う。
「えっ?」
「俺が迎えに行きたかったんだ。けっこう意気込んでたんだよ。俺、男だし!」
「まぁ!」
茉莉香が笑う。
「でも、夏樹さんのお祝いだから……」
「そんなこと言ったって、俺だってまだ、茉莉香ちゃんのお祝いをしていないんだ」
不服そうな夏樹を見て、茉莉香がまた笑う。
「でも、嬉しいよ」
「ええ。私も」
こうして初めて二人きりでパリで会うのだ。
茉莉香は別れ際の父を思い浮かべる。いつもの強張った表情ではなかったが、どこか寂しそうだった。
だが、父はずっと以前から自分たちを認めていてくれた。
そんな気がする。
「折角だからパリ見物をしよう。それからレストランを予約してあるから、夜はそこで食事して……」
「ねぇ。お食事は夏樹さんのお部屋でどうかしら?」
「え!?」
夏樹がぎょっとする。
「今からでも、節約した方がいいわ。私がお料理を作るわ」
「ああ、そういうことね……」
気落ちしたように言うが、安堵しているようにも見える。
そしてレストランにキャンセルの電話を入れた。
「それじゃ、パリ見物を早めに切り上げて、スーパーで食材を買おう。食事は一緒に作ろう。終わったら宿泊先まで送り届けるから」
カフェを出た後、まずはクルーズ船に乗ることにした。移動の手間を省いて観光ができるし、その間、いろいろな話をすることもできる。
「クルーズ船は二度目だわ」
「足元気を付けて」
先に乗り込んだ夏樹が、茉莉香の手を取り乗船を助けた。
座席に着くと、ガラス張りの天井からセーヌ川沿いの街並みが見渡せる。
オルセー美術館が驚くほど近く、川にかかる橋の下を通り抜ける醍醐味も素晴らしい。
わっ!……と、歓声が上がる。
「えっ? なに?」
茉莉香がきょろきょろとしていると、
「アレクサンドル三世橋をくぐり抜けるところだよ」
最も美しいことで知られるアレクサンドル三世橋だ。乗船客たちが一斉に橋を見上げている。
二人は窓外の景色を眺めながら話をする。
「二人でパリに暮らす前に、新居を決めないとな」
「私も働くわ」
「俺、茉莉香ちゃんにはいい仕事をして欲しい。無理に数を増やさなくていいよ。俺の借金は俺が返すようにしていきたい。だから、ゆっくり返していくつもりだ……その代わり貧乏させちゃうけど……給料も、はじめはそんな良くないし……」
「ええ。 それに、les quatre saisonsパリ支店で働けるかもしれないの。そうしたら、家事や翻訳の仕事にも負担がかからないわ」
気軽なお喋りのようだが、自分たちは将来の話を現実的に話せるようになったのだ。もう、夢ではない。
それが嬉しかった。
「それから……今度の仕事は、ガスパールの事務所の一員としてやるけど、いつか俺もこのパリで独立したい。借金を返したら……。いずれ日本でも仕事をするつもりだけど、当分はパリで暮らしたい」
「……ええ」
茉莉香には、夏樹が何を言おうと受け止める覚悟が出来ていた。
それは、彼を日本で待ち続けている間に出来た覚悟かもしれない。
「大丈夫よ! 帰省することもできるし、パパやママが会いに来ることもできるから」
だがそれは、そう容易いことではないだろう。
ふと、父の寂し気な表情が目に浮かんだ。
クルーズ船の一時間半の旅を終え、二人はスーパーへ向かった。
「メインは肉料理にしよう。仔羊のいいのがある。茉莉香ちゃん仔羊は大丈夫?」
と、言って、骨付きの仔羊肉を手に取った。
「ええ。好きよ。じゃあ、私はデザートを作るわ。由里さんに教えてもらったの」
そう言って、林檎をカートに詰め始めた。
「仔羊は臭みがあるからな……」
そう言って、夏樹が玉ねぎ、赤ピーマン、パセリ、にんにく、ロリーズマリー、バジル、シブレット、アンチョビーをカートに入れる。
「よく作るお料理なの?」
「いいや。友だちのおばさんに教わっただけ。作るのは初めてなんだ」
「まぁ!」
「なんとかなるさ!」
二人が弾けるように笑う。
「パンはパリジャンにしよう」
バケットに似た、バケットよりも太さのあるパンで、表面の香ばしさと共に、中の柔らかい部分も楽しめる。
「サラダも作りましょう。ニース風がいいわ」
そう言って、サラダ菜、トレヴィス、アンティーヴ、トマト、オリーブ……
色とりどりの野菜に、たまごも入れる。
「ねぇ! シャンパンも買いましょう! これが安いわ」
茉莉香が手に取った瓶を見せると、夏樹がちょっと困ったような顔をした。
「ロゼ・シャンパンよ?」
夏樹の表情を茉莉香が不思議そうに見る。
「その値段だとなぁ……ま、いっか。飾りみたいなもんだな」
カートに安物のシャンパンも詰め込まれた。
買い物を済ませた二人は、夏樹の住むアパートへ向かう。
路地裏にある、古いアパートだ。
「驚いた? パリは家賃が高いからね。でも、二人で住むアパートは、もっといいところにしよう」
夏樹が恥ずかしそうに言った。
初めて入る夏樹の部屋。
書物や模型。製図版。狭い部屋がいっそう狭く見えたが、室内は外観よりも明るく清潔だった。
カタカタ……
時折、窓枠が風に吹かれて音を立てる。
「さてと……豪華ディナーを作ろうか!」
夏樹が、仔羊にかけるカフェ・ド・パリ・バター(あわせバター)を作るために、香味野菜とアンチョビーを切り、フードプロセッサーにかける。
「あら。フードプロセッサーがあるのね」
「ああ。教えてもらったときに、“新しいのを買ったから”って、くれたんだ。便利だよね」
室温で柔らかくしたバターに香味野菜を混ぜ、再びフードプロセッサーにかけ、卵黄を混ぜ塩コショウで味を調えた。
一方茉莉香は林檎を半分に切り、芯をくり抜き、一つを除いてそれらをさらに半分にしている。
「何を作るの?」
「タルト・タタンよ」
そして、バターとグラニュー糖とレモン、シナモンでシロップを作り、カットした林檎をその上に並べた。
「それから、これ……」
その上にパイシートを乗せ、オーブンに入れた。
「焼けるのに一時間ぐらいかかるわ」
「じゃあ、その間に、サラダを作るか」
そう言って、ニース風サラダを作る。
「あと、もう一品できそうだな」
白いんげん豆とベーコンを煮込み始めた。
「まぁ! 夏樹さんって、手際がいいのね」
「そりゃそうさ! 自炊してかなきゃここではやっていけない。さて、そろそろ仔羊を焼くか」
熱した油に仔羊を乗せると、香ばしい匂いが部屋に漂う。
一方茉莉香は、
「タルト・タタンが焼きあがったわ」
そう言って、オーブンから取り出したタルトをひっくり返して皿に盛りつけ、鍋の底の煮詰めたシロップを塗ってつやを出す。
「タイミングがいいな」
夏樹は、焼きあがった仔羊にカフェ・ド・パリ・バターを塗り、オーブンに入れる。
仔羊に焼き色がついたら完成だ。
食事をテーブルに並べる。
「すごいご馳走だわ! レストラにも負けないわね!」
「ちょっと待ってて」
夏樹が戸棚をごそごそと探った後、
「これも……」
テーブルに古めかしい枝付き燭台を置いた。
「まぁ! こんなものが?」
「前の住人が置いて行ったんだ。あと、停電用に俺が蝋燭を買っておいたから……」
と、言いながら蝋燭に火を点けた。
「少しはムードが出るかな?」
室内の照明を落とすと、蝋燭の灯りが二人を照らした。
ささやかな灯りのもと、二人は顔を近づけて話す。
距離が一層縮まるようだ。
食事はどれも上出来だった。
「この仔羊すごく美味しいわ。ぜんぜん臭みがない。初めて作ったなんて思えないわ」
「デザートも美味しいよ。見た目もきれいだ」
シャンパンは……
「クリスマスのお子様シャンパンみたいだな。まるでジュースだ」
「甘くて飲みやすいわ」
シャンパンはロゼ色で、細かい泡が美しかった。
(そんなに弱いかしら?)
頬が上気しているのがわかる。
(顔が赤くなっていないかしら?)
手を当てると、微かに熱を帯びていた。
「おなか一杯」
「俺も」
二人は顔を見合わせて笑った。
食べ終わると片づけをし、テーブルの上は、燭台だけになった。
「ねぇ。お茶を淹れるわ。夏樹さん紅茶あるわよね」
「うん。今日はこれにしようか」
そう言って、少女のシルエットの描かれた濃緑色の缶を出した。
「marica!」
「うん」
marica。les quatre saisonsで開発されたフレーバーティーだ。
柑橘からジャスミンへと入れ替わる香りが人気で、いつの間にか、特別な日の贈り物として使われ、特に、恋人同士で贈り合うようになっていた。
“maricaを贈り合うと恋が実る”
誰が言い始めたのか、そんな言葉が囁かれている。
「じゃあ、キッチンで淹れてくるわ」
そう言って、席を立った。
湯を沸かし、温めたポットに茶葉と湯を入れる。葉が開くのを待つ間、ポットに覆いをかけ、カップを温める。
「さあ、できたわ。いつもより上手に淹れられた気がするわ。maricaは恋を実らせるって……」
誰が言い出したのだろう?
茉莉香がクスリと笑う。
「だって、私たちはもう……」
と、呟きかけ、
(……えっ? 私たちは……もう……?)
もう? もう?
心に問いかける。
食堂に戻り、カップに茶を注ぐと、柑橘の香りの後、茉莉香の甘い香りが部屋を満たした。
二人は沈黙のままカップに口を付ける。
「どうしたのかしら? 今日は、香りがいつもより強いわ……いつもは控えめなのに……」
まるで部屋に花が咲いているかのように香る。
「シャンパンに酔ったのかしら」
うつむいて赤くなった頬に手を当てた。
顔を上げると、夏樹が自分を見つめている。
テーブルに肘をつき、組んだ指の上に、軽く顎を乗せていた。
この眼差しを向けられたことは初めてではない。いつもは、目が合うと夏樹は視線を外していたが、今夜は真っすぐに自分を見据えている。
ゆらっ……
すきま風に蝋燭の炎が揺れて煌めく。
「……」
茉莉香は目を逸らし、再びうつむいた。
「寒いわ……」
隙間風がのせいだろうか? 思わず体を縮める。
自分を背後から、そっと抱きしめる手がある。
その手は温かかった。
夏樹が名を呼びながら、何かを囁いている。
躊躇いながらうなずくと、
―― ふわり ――
抱き上げられる。
「きゃっ!」
体のバランスを崩し、態勢を整えるために夏樹の首に手を回すと、顔が近くなった。
見つめあう。
……そしてキス……
最初のキスは軽く
そして、交わしたことのない長い接吻。優しい口づけ。
離ればなれの長い時を埋め、恐れも不安も消えていく。
胸を満たす恋の喜び……。
夏樹が蝋燭の火を吹き消し、白い煙が細くたなびいてく。
気の抜けたロゼ・シャンパンの泡が、最後の呼吸をするかのように水面に上がっては消えていき、冷めた紅茶の残り香が微かに漂う。
―― 今、恋が実ろうとしている。
茉莉香は目を閉じ、静かにそれを感じていた。
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