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第四章 風によせて

第25話 灰色の回廊

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 今年が後十日程で終わろうとするある日、茉莉香はパリへ渡った。
 翻訳の件でクロエと打ち合わせをするためだ。

「やったわね。茉莉香! あなたなら絶対大丈夫だと思っていたわ!」

 クロエは茉莉香の顔を見るなり、祝福の言葉を浴びせかけてきた。
 彼女は間隔を置いて新作を発表し、どれも好評だ。

 もっと新作を書いて欲しい。
 それが出版社の本音だろう。

「ありがとう。でも、これからが本番なのね」

「そうよぉ。責任重大よ」

 二人の笑い声が部屋中に弾ける。

 仕事の打ち合わせが終わった後、

「今日は、この後恋人と?」

 クロエが尋ねると、

「いいえ。内緒で来ているの。夏樹さん、今、とても大事な時期だから……」

「そうだったわね。一次審査はパスしたのよね。大したものだわ。16区の図書館の件は話題になってるわ」

 クロエが感心したように言う。

「ええ。あとはプレゼン審査なの。結果の発表は年が明けてすぐ」

「それは確かに大事な時期よね」

 クロエが同情するように茉莉香を見た。

「じゃあ、これから私と食事をして、そのあとバーへ行きましょう」

「ええ」

 茉莉香が笑顔で頷く。

 バーでは、クロエと茉莉香は互いの近況を話し合い、クロエは夏樹との話を聞きたがった。
 久しぶりに会う友と語り合う喜びに、二人の話は尽きなかった。

 だが、夜も更けた。

「じゃあ、今日はこれで」

「頑張ってね。茉莉香。仕事。それから……恋人の事」

 タクシーに乗り込もうとする茉莉香に、クロエが言う。

「ええ。ありがとう」

 茉莉香がこたえた。

 タクシーに乗って、滞在するホテルへ向かう。
 シャンゼリゼ通りでは、ビルがライトアップされ、街路樹はイルミネーションで彩られていた。
 
 まばゆい光の洪水。夜を知らぬ街……。
 タクシーの窓から、茉莉香はそれらをじっと見つめた。

「お嬢さんは、クリスマスシーズンのパリは初めてかい?」

 運転手が人の好さそうな声で尋ねる。

「はい、とてもきれいで驚いています」

「そうかい。そりゃよかった」

 茉莉香の言葉に運転手が嬉しそうに笑った。

 そして、ある個所を通過しようとしたとき、

「すみません! 車を泊めてください!」

 突然の依頼を、運転手は快く引き受けてくれた。

「しばらく待っていてくれますか?」

 運転手に声をかけ、車を降りる。

 車を泊めたのは『ガスパール・デュトワ建築事務所』のあるビルだった。

「こんなところで車を泊めて……夜遅くじゃ、もう誰もいないのに……」

 だが、せめて夏樹の働く場所を見届けたかった。

 茉莉香が建物を見上げると、灯りの点いた部屋がある。

「まだ、働いている人がいるなんて……」

 外は寒い。

 茉莉香が襟をそばめてタクシーに乗り込もうとすると、

「茉莉香ちゃん!?」

 背後から懐かしい声が聞こえた。

 振り返ると、声の主が呆然と立っている。

「茉莉香ちゃん!?」

 茉莉香は、目の奥が熱くなるのを堪えた。

「あ、あの……出版の打ち合わせで……」

 夏樹は自分がパリに来ているのを知らないのだ。
 しかも、こんな風に会うなんて、思いもよらないことだろう。
 茉莉香には説明する言葉が見つからない。

 イルミネーションの明かりが二人を照らす。
 道を歩く人々は笑いさざめき、時折、車のクラクションが鳴り響いた。
 光と喧騒の渦の中、二人は言葉もなく見つめあった。

「明後日がプレゼンなんだ。仕上げをしていて……夜食を買いに出かけたところだったんだ」

 なぜ。 どうして。 ここにいるのか?
 夏樹は茉莉香に何も聞かなかった。

「ここは寒い。ひとまず中に入ろう」

 そして、運転手に向かって、

「すぐに戻ります。待っていて下さい」

 と言った。




 夏樹に手を引かれ、茉莉香は初めて建築事務所に入った。

「暗いのね……」

「うん。俺だけだったからね」

 声をひそめて話す。

 すでに明かりは落とされていた。物音もしない。
 外とは打って変わった光景だ。
 屋内に入ったというのに、急に寒くなったような気がする。

「寒い? ごめん。空調を切ったばかりなんだ」

「ううん。大丈夫。すぐに帰るから」

 一か所だけ天井と机の電灯が灯され、ほんのりとあたりを照らしている。
 
 夏樹に手を引かれ、仄暗い部屋を、吸い込まれるように歩く。
 周囲には、図面や模型が積み重ねられた机が並んでいた。
 見知らぬ暗い部屋が気味悪く、夏樹の手を握りしめると、そっと握り返される。
 やがて白い照明が当たる場所へたどり着いた。
 
(ここが夏樹さんのデスクなのね……)

 茉莉香はようやく一息をつくと、

「ごめんなさい。突然来てしまって」

 と、詫びた。

 夏樹は忙しいのだ。恥ずかしいし、気まずい。
 だが、こうして会えてうれしかった。

「ううん。俺、嬉しいよ」

「明日、プレゼンなのね」

「ああ。もう少しで終わるんだ」

 茉莉香は、ふと、あることを思いついた。
 だが、それは口にしない方がいいだろう……。

 ……が、

「どんなアイディアなの?」

 口にしてしまった。

「うん。ほんとは内緒なんだけどね。でも、一次審査をパスしているし……特別だよ」

 そう言って、模型を取り出した。

 模型は二つある。
 一つは外観を表したものだ。

 建物は正方形で、緑豊かな公園の中にある。
 一階はガラス張りで、二階以上も窓が規則正しく並んでいる。
 コンクリートのタイル張りの外装だ。
 灰色のラシャ紙が、その表面の質感を表していた。

「四角くて可愛いわ。森の中から古いお城が顔を出しているみたい」

 思わず微笑みがこぼれる。
 不思議だ。近代的なコンクリートの建物なのに、なぜか懐かしさを感じる。
 
「そうかい?」

 夏樹が笑いながら内装の模型を前に出す。

「建物は五階建て。一階はロービーや閲覧室がある。ガラス張りだから外を見ることができる。それで、二階に上がると……」

 壁に沿って、書架の並ぶ廊下が取り囲んでいる。

「中央は吹き抜けで回廊が取り囲む。エレベーターもあるけど、できれば階段を使って欲しいな」

 茉莉香がじっと模型を見つめた。
 正方形の回廊が、吹き抜けを取り囲んでいる。

「屋根の天窓から光が差し込む。書架にそって白い間接照明を設置する」

 内装は、廊下も壁もコンクリートのタイル張りだ。灰色の書架が、回廊をぐるりと取り囲む。

「回廊を歩きながら本を探すんだ」

 茉莉香は灰白色の空間に取り込まれ、深い静寂に包まれた自分を想像した。
 天窓と白い照明が、仄かに部屋を照らしている。

 色の無い静謐な空間で、本に囲まれ時を忘れる……。

「周囲はグレーだから、落ち着いて本が探せる。書架が並ぶ回廊は少し暗い。でも、閲覧室のある一階はガラス張りだし、照明もあるから不自由はしないよ」

 無機質なデザインだが洗練されている。
 だが、何か物足りないような気がするのだ。
 
(なにかしら……?)
 
 考え込むと、

「どうかした?」

 夏樹に尋ねられる。

「うーん。あのね……」

 と言いかけ、

「あら……? 窓がないわ。外側からは見えたのに」

 思わぬことに気づく。

 通路にそって書架が並べられている。これでは全く外を見ることがでず、いくら本好きでも、息苦しいのではないか。

 夏樹は得意げな顔をすると、

「本棚が途切れる場所を数か所設ける。そこから入ると……この模型この部分は外せるんだ……」

 と、言って書架の一部を外す。

「本棚の外側にも回廊がある。廊下の幅は、人ひとり歩けるだけで、ここは一方通行にする。歩きながら外を眺めることができるんだ。窓から公園の緑を見ることができる」

「メルベイユ……」

 茉莉香の唇から、吐息とともに言葉がこぼれる。

「そうだね」

 夏樹が笑顔で頷いた。

 モン・サン・ミッシェルの修道僧たちが、瞑想したという驚嘆メルベイユ
 仄暗い礼拝堂を出た彼らは中庭の緑を楽しみ、休憩をして静かに過ごしたのだ。
 コンクリートタイル張りの建物が、ロマネスク様式をまとった石造りの僧院に見えてきた。夏樹の設計した図書館は、中世の修道院を思わせる。

「来館者たちは本を探し、読んで、静かに過ごす。そうやって日常を離れる」
 
 夏樹が静かに言う。

「建物と、ここを愛する人が一つになって、この場所は完成するんだ」

「建物と人が一つに……?」

 再び考え込み、

「……まぁ! そうなのね!」

 茉莉香は気づいた。
 感じた物足りなさは、人を受け入れる緩みのようなものだったのだ。
 
 建物は人の背景となり、人は建物の一部となる。

 この無機質な灰色の建物は、訪れる人により命を吹き込まれるのだ。

「俺は、そんな空間を作り上げていきたいんだ」
 
「素晴らしいわ!」

 感動で体が震えるようだ。

 そして予感した。


 
 ―― 偉大な芸術家が誕生しようとしていることを……。
 
 

 夏樹には理解できない部分があり、それが茉莉香を不安にさせていた。
 今、僅かに垣間見たような気がする。
 夏樹は自分のスタイルを模索し、それを見つけたのだ。

 このままここにいたい。この喜びを分かち合いたい。

 だが、夏樹の戦いはまだ終わっていないのだ。

「私、帰らなきゃ……車を待たせたままだわ」

「いけない! 玄関まで送るよ」

 二人は慌ててタクシーへ向かう。
 運転手は、にこにこと笑って迎えてくれた。

「頑張ってね」

「ああ」



 茉莉香を乗せて、タクシーは夜の街を走り出した。
 前方にはライトアップされた凱旋門が見える。
 振り返ると、夏樹が手を大きく振っていた。
 茉莉香はその姿が見えなくなるまで、バックドアガラスを見つめる。

 タクシーは光の中を縫うように走り抜けていった。
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