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第三章  姫君の恋

第18話 マイナス7時間

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 語学学校と二人の両親へは、シャルロットが連絡をした。
 茉莉香は、夏樹にも連絡をしたかったが、気持ちが動揺したまま電話をすれば、心配をかけてしまう気がして思いとどまった。



 ―― チリリン ――




 スマホが鳴った。
 夏樹だ。



(なんでこんな時に)



 茉莉香は思う。
 不安な気持ちを鎮めながら、電話にでる。

「あ……夏樹さん?」

「うん。茉莉香ちゃん。どう?」

「どうって……いつも通りよ」

「学校はどうだった……」

「えっ?」

 今日は休んでいる。
 とっさに取り繕うことができずに、茉莉香は動揺した。

「あ……」

 なんでもいいのだ。
 体の調子が悪いとか、用事ができたとか。
 適当に、ごまかせばいいのだ。

「あの……」

 言葉が出なかった。

「行ってないの?」

 夏樹が怪訝な声を出す。

「……」

 何か言わなくてはと、思いながら声が出ない。

「なにかあったの?」

 茉莉香を気遣う声が聞こえる。

「いいえ! 何もないわ!」

 茉莉香は突然大声を出した。

「やっぱり、何かあったんだね!?」

 夏樹の声も大きくなる。

「何もないわ!」

 そう言って、茉莉香は突然電話を切った。



「あーあー。茉莉香ちゃん。それじゃ“今、大変なの。助けて―”って言っているみたいよ」

 沙也加が呆れたように言う。
 
 沙也加の言うとおりだ。
 でも、あらためて電話をかけても、うまく説明できそうにない。

「まぁ、落ち着いたら電話すればいいんじゃない? 茉莉香ちゃん、クロエのことが心配なんでしょ? 今は無理みたいね」

「ええ……」

 茉莉香が力なく頷く。

「落ち着いたら、こちらから電話をするわ」

 そう言って、茉莉香はスマホの電源を切った。

 茉莉香は、部屋に戻ると、日本から持ってきた翻訳の仕事を始めた。
 こうしていれば気がまぎれると思ったが、クロエのことが頭から離れない。
 何しろ、著者がクロエ本人なのだから当然だろう。

(どうしているのかしら?)

 それでも茉莉香は作業を続ける。
 締切りに遅れるわけにはいかないのだ。






 翌朝、茉莉香が目を覚ますと、玄関でシャルロットが誰かと争っている声が聞こえた。

(こんな朝から……隣の部屋の人が不審に思うわ……)

 昨日、青山が突然訪れたことを思い出す。

(悪いことがこれ以上重ならないで欲しいわ)

 心で願いながら着替えると、玄関に様子を見に行く。



「困ります! お帰りください!」

 声が次第に高くなる。

 シャルロットの相手の声は聞き覚えがある。
 だが、まさか……。


「入れろって言ってんだろ!」

 声の主は……
 夏樹だ!
 我を忘れているのだろう。生来の激しい気性がむき出しになり、シャルロットの包囲を突破しようと、やっきになっている。

 電話の茉莉香の様子を不審に思い、すぐさま搭乗券をとってやって来たのだ。
 このパリへ!
 七時間の時差を飛び越えて!

「夏樹さん!」

「茉莉香ちゃん!」

 シャルロットが二人の間を、小さな体を張って遮る。

 だが、茉莉香の姿を見た夏樹は、次第に落ち着きを取り戻し、その様子を見たシャルロットも冷静さを取り戻した。

 ようやく……。
 夏樹は居間に入ることを許可された。


 茉莉香は、青山から聞かされた話を話した。

「ええー! 心配して損した!」

 夏樹は頭に手を当てると、天井を仰ぎながら言った。

「だから……大丈夫だって言ったでしょ」

 茉莉香は、恥ずかしさで顔から火が出そうだ。

「あんな泣き声出されちゃ、心配しちゃうよ」

「泣いてなんかいないわ!」
 
 茉莉香が憤慨する。

「泣いてましたぁ~!」

 夏樹の言葉が意地悪く響く。

「泣いてません!」

「泣いてたぁ~~!!」

 二人のやり取りが続き、

「……いい加減にしてくれませんか?」

 トレーを持ったシャルロットが、いつの間にか二人の後ろに立っていた。

「すみません」

 茉莉香と夏樹が殊勝に頭を下げる。
 シャルロットは、二人の前にお茶を置くと自室に戻っていった。

 夏樹は茉莉香に向き直ると、

「突然に来てごめん。驚いた?」

「ええ。少し」

 茉莉香は、シャルロットとの激しいやり取りを見たとき、夏樹が恐ろしくさえあった。だが、それと同時に心の奥底に熱いものが沸き起こって来るのを感じていた。

「茉莉香ちゃん?」

 夏樹が心配そうに覗き込んでいる。
 茉莉香は少し前の夏樹の激情を思い出し、微かに震えた。

「ううん。心配かけてごめんなさい」

 だが、今、心に灯る温かさは何なのだろうか。
 沙也加の手のぬくもりとは違うものだ。
 茉莉香はそれを探ろうとする。

 だが、気になることは他にもある。

「あの……渡航費は?」

 茉莉香が遠慮がちに尋ねると、

「また……そんな……親方だよ! 夜中に家に言ったら “よし! 行ってこい!” それだけ言って、旅券を予約してくれたんだ」

 夏樹が渋々言った。
 やはり親方だった。他の人を頼れば、まず冷静になることをすすめるだろう。亘や由里にしても同様に対処するはずだ。

 だが、茉莉香には、そんな親方の存在が夏樹にとって、かけがえのない存在に思われた。


「何か心配事でもあるの? さっきの話だと心配はなさそうだよね? いずれ戻ってくるんだろ?」

「……それが……」

 茉莉香は、最後にクロエと会った時の話を夏樹にした。

「……今、どうしているのかしら……」

 茉莉香は、時折見せるクロエの翳りを思い浮かべた。
 今もどこかで一人でいるクロエの気持ちを思うと、いたたまれない。
 いずれ返ってくるから。それで済む問題ではない気がする。

 グラスの向こうの瞳が忘れられない。
 ミントジュレップの鮮やかな緑が脳裏をよぎる。

「そっかー。……でも、そんなこと話したの? 相手は作家だよ! 旧古河庭園で駄々をこねた話を書かれちゃったらどうするの?」

 夏樹が困ったように言う。

「クロエはそんなことしないわ!」

 茉莉香がムキになる。

「そうかなー」

 夏樹は、茉莉香の言葉を信用しきれないようだ。

「あの時気づいていれば……」

「そんな……茉莉香ちゃんのせいじゃないよ」

 夏樹は冷静だ。

「でも……」

 自分を責めずにはいられない。

「そうだ! もしかしたら……」

 夏樹がなにか思いついたようだ。

「え?」

「うん。最後に会った時の話がそういうことならば……もしかしたらってね。ちょっと、探しに行ってみる」

「そんな! わかるの?」

「うーん。やってみないとわからないよね」

 そう言って、荷物の中から移動に必要なものだけを取り出して、ショルダーバッグに素早く詰めた。

 シャルロットがやってきて、

「朝食の用意ができました。夏樹さんもどうぞ……」

 と言ったが、

「悪い! 俺、すぐに出かけなきゃいけないんだ!」

 それを辞退すると、アパートを飛び出していった。
 そのあわただしい様子を見て、

「まぁ! なんて忙しい人でしょう!」

 シャルロットがあきれたように言う。

「ええ。本当に……いつもなの……」

 茉莉香が小声で言う。

 そして、夏樹がクロエを見つけ出してくれることを心から願った。














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