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第三章  姫君の恋

第9話  兄弟子

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「義孝君。年上の人に対してそういう態度はいけないよ」

 亘がたしなめる。

「最近落ち着いてきたと思ったのに、今日はおかしいよ」

 そして、夏樹の方を向き話をはじめる。

「僕の専攻は中世文化で、文学が主だけど、思想も含んでいるんだ。西洋思想の基本はギリシャ哲学なのは知っているよね? 中世よりも前の古代思想だ。専門外だけど、簡単になら説明できるから、そこから始めるよ」

 亘は言った。

「本を一冊読むんじゃなくて、著作の一部分を抜粋してテキストにするよ」

「はい……」

「ギリシャ哲学はね、ソクラテスやプラトンの登場が大きな分岐点となるんだ。まずはソクラテスの前の時代から……ざっとだよ。義孝君にとっては、おさらいになってしまうけど、いいよね?」

「はい」

 義孝少年が即答する。
 
 夏樹は義孝が不満を言うことを覚悟したが、意外にも彼は抵抗することなく容認した。

 亘がある学者と、書物の名を告げた。
 夏樹も読んだことのある本だ。

「まずは、著作の書かれた時代背景と、著者の経歴からだね……」



 古代。人々は、神話を離れ、世界の成り立ちを自ら探ることを試みた。
 それは、小アジアの海辺の商業都市を起源とする。
 長い……長い旅路の始まりだ。



 思想の生まれる背景。経緯。
 これにより、著作が時代の要請によって生まれたことが分かる。
 そして著者の経歴。
 解説は細部にまでわたり、思想家の姿がリアルに浮かび上がる。
 それは偉大でありながらも、自分と同じ血と肉と情熱をもち、研究に打ち込んだ一人の人間の姿だった。

 夏樹にとって遠い存在であった彼らが、ぐっと接近してくるのを感じる。
 
 そして亘は語る。
 

 誰のために、そして、何のために執筆されたのか。
 

 やがて講義は本題へ入っていく。
 テキストを読みながら解説をするのだ。

 亘は文章の言葉ひとつひとつを読み解いていく。
 作品に忠実な解釈、緻密な分析、それでいて亘ならではの考察があった。
 平易な言葉で語りながらも、格調高く、それでいて強い個性を持つ。

(ざっとだなんて……とんでもない!)

 夏樹は思わず身震いをした。


 ダージリン。
 重厚でありながら果実の爽やかさを持つ。
 奥行き深く、風味豊かな芳醇な香り。

 亘の講義は最高等級の夏摘みを思わせる。

 理解したつもりでいたことが、亘の一言一言で壊れていく。
 自分は何もわかっていなかったのだ。
 今、それを思い知らされる。


 亘のことを理解できないと思っていた。それは当然のことだったのだ。

(俺の理解の範疇を超えた人間だったってことだな……)

 自分は初めて、亘という人間の片鱗を見たのかもしれない。

(それにしても……これで専門外だからな)
 
 専門を理解するために、付随して得た知識ということだろう。
 本業となったら……。
 想像すら出来ない、底無しの力量を垣間見る。
 亘の講義は平易な言葉で続けられ、初めての夏樹でも難なく理解できた。
 恐らく高度な内容を自分たちのレベルに合わせているのだろう。

 いや……。

(自分たち?)

 違う。

(俺だ! 俺に合わせているんだ!)

 亘は、この場で最もレベルの低い “自分” に合わせている。
 隣の少年よりも、自分に向けて配慮がなされているのだ。
 亘らしい心配りというところだろう。

 少年に目をやると、恐ろしいほど集中している。
 目を輝かせ、飢えた狼のように、亘の言葉を喰らい尽くす勢いだ。
 少し前までの高慢な態度は微塵もない。

 夏樹の視線に気づくと、一瞬、侮ったような笑みを浮かべた。

 思わず夏樹も見つめ返し、互いの視線がぶつかり合う。

(こいつのレベルはどれだけなんだ?)

 少年の知力を測ろうとするが、出来るはずもない。





「今日は、ここまでにしよう……」

 いつの間にか二時間が経っていた。

 夏樹は疲れを感じた。
 だが、それが心地よい。

 少年を見ると、ケロリとした顔をしている。
 夏樹の方を向いて、

「疲れた?」

 と、言った。

 その態度は、明らかに自分を侮っている。
 腹立たしい気持ちは表さない。
 この場の空気を乱すわけにはいかないのだ。

 だが、亘はそれを見逃さなかった。

「義孝君。この人は、やらなくてはいけないことが沢山あるんだ。君みたいに好きなことができる時間が少ないんだよ。この人はね。限られた時間で勉強しているんだよ」

 静かにたしなめると、

「すみません」

 少年が俊生にも謝罪する。

「ひとまずお茶にしよう。スコーンがあるんだ。食べるよね?」

 亘がアッサムティーを淹れてきた。

「ミルクがあるから、必要ならどうぞ」

「僕ミルク!」
 
 少年は、カップにミルクをなみなみと注いでいたが、夏樹の視線に気づくと、気まずそうな顔をした。
  
 少しぐらいなら質問してもいいはずだ。
 なにから聞くべきだろうか?
 
「茉莉香ちゃんと親しいの?」
 
 まずはこの程度からだろう。
 
「僕が “茉莉香”って呼んでいるのが気になるの?」
 
 答えになっていないことに苛立つが、実際に聞きたいことではある。
 
「僕なんかよりも、気にしなきゃいけない相手は他にいるはずだよ。恋人を一年もひとりぼっちにしておいたんだから」

 少年が意味ありげに笑う。
 茉莉香を置いて留学した自分を責めているのだろうか?

「義孝君! おかしなことを言うんじゃない。どうしたんだい? 今日は、本当に変だよ。北山君も、この子の言うことを気にしちゃいけない。少し思い込みが激しいんだ」
 
 亘も気難しい少年を持て余しているように見える。
 少年の言葉に根拠はなさそうだ。

(俺もおとなげないな。こんな子どもの言葉を気にするなんて……)

 冷静にならなくてはいけない。相手は子どもなのだ。
 
 だが……。
 やはりかんに障る。
 何がと言うわけではないが、とにかく癇に障るのだ。
 
 
「どうだった?」

 亘が夏樹に尋ねる。

 表現が適切だろうかと、少し迷ったが、

「面白かったです」

 と言う。
 ここまで好奇心を掻き立てられたのは、久しぶりのことだ。
 興奮で体が熱くなる。

「“面白かった”か……それは、よかった」

 亘が嬉しそうにうなずく。

「あ、今日の講義に使ったテキストをコピーしてもいいですか? 家でも読んでみたいんです」

 義孝の侮るような笑みが頭から離れない。
 あんな子どもに負けたままでは、しゃくに障る。

「ああ。そうだね。書斎にコピー機があるから、君が帰るまでに渡すよ。でも、無理はしないほうがいい。少しずつでいいんだ」

「あの……彼は、彼は、ずっと、ここで……」

 スコーンを頬張る義孝を横目で見ながら言う。
 どう見ても中学生だ。
 こんな高度な講義を受け続けていたとは信じがたい。

「うん」

 亘がこたえる。

「義孝君はles quatre saisonsでしばらく預かっていたんだ」

 ここはいつから託児所になったというのか?
 しかも、こんなに大きな、生意気そうな子どもを!
 
「よかったら、これからもどうかな?」
 
 亘の言葉が、夏樹の思索を破る。

「いいんですか?」

 こんな素晴らしい提案を誰が断るだろうか!

「うん。専門的にとはいかないけれど、基本的なものは身に付くと思うよ。あとは自分で時間のあるときに、好きな本を読めばいい。留学まで、まだ一年以上あるし……君ならできるはずだ」

 亘の講義は、すべてに通じる基礎中の基礎というところだろう。

「ありがとうございます!」

 それにしても……あの少年は何者か?
 いずれわかるだろう。
 
 彼はこれから自分の兄弟子となるのだ。

 





イラストは、青羽さんよりいただいた亘です。(*^-^*)











※ ご興味があればご参考までに……。

フランスの高校では哲学が必修科目です。
バカロレア試験にも出題され、中等教育の重要な部分を占めています。

哲学の授業に教科書はなく、講師は、必要な引用文の抜粋だけを配布し、準備した内容を口頭で説明するのが基本的な形です。
講義内容の裁量は、講師に任されています。

フランスの教育制度では、哲学は花形的存在として扱われています。
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