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第一章 -リラの園の眠り姫ー
第26話 孤高のライオン
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本田と夏樹はまずフィレンツェに到着した。
今回の渡欧はクリスマス・シーズンの街並みを撮影するためだ。
夏樹からクリスマスのイルミネーションに彩られた街並みの画像が茉莉香に送られてくる。
嬉しそうな茉莉香のようすを見て、
「ふーん。メールなんだ。インスタにすればいいのに」
由里が不満げに言う。
サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の画像を見せると、
「あっ、そこのアイリス・ソープお土産に頼んで!」
と言った。
茉莉香は石鹸を自分と未希の分を含め三個頼む。
茉莉香の好きなメディチ・リッカルディ宮殿の中庭に夏樹が立つ画像もあった。
気負いも衒いもなく、ごく自然にその場に溶け込む姿を亘は感慨深く見つめた。夏樹には、西欧の文化がよく合うように感じらる。
「ああ、私もいつか、夏樹さんみたいに、自分のやりたいことを見つけたいわ」
茉莉香が夢見るように言う。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ヴェッキオ橋、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会………画像は続く。
「まめな男だな」
本田の仕事の合間に撮影をするのだから、容易なことではないはずだ。
夏樹は昼休みの時間に茉莉香に電話を架けてくると言う。休憩と言っても、雑用が入りやすく、ほとんど話す時間もないが、日課になっているようだ。
「ほんとにまめな男だ」
自分にはとてもできそうにない。
「ああ、ウチの人も、もっとまめに連絡くれればいいのに!」
由里がうらやましそうに言う。
亘は一瞬ヒヤリとしたが、感心ごとはすぐに他のことに移って行った。
「ああ、そうだ。クリスマス会するんでしょ? 場所決まった?」
「それが、まだなんですよ。この時期はどこも一杯で」
心当たりの気持ちのよいレストランは、すべて予約済みで、亘は出遅れたことを身に沁みて思う。
「そう……じゃあ、私も考えてみるわ」
「すみません」
楽しいイベントは由里の大好物である。さきほどの不機嫌は払しょくされたようだ。
その夜のことだった。亘は書斎で調べ物をしていた。日付はすでに翌日となり、時計はもうすぐ三時を指そうとしている。
書斎には、床から天井まで達する本棚が、壁両面に沿ってあり、それでも足りず、少し離れたところにもあり、本棚と本棚の間を歩くこともできるほどだった。
窓に向かって置かれたデスクにも、ブックスタンドがある。書類箱が重ねられ、背後から見ると、書物に埋もれているように見えるだろう。
簡易なキッチンや、トイレ、浴室もあり、仮眠用のソファーもある。その気になれば、ここを出ることなく何日も過ごすことができ、実際、亘は長い間そうしてきた。
誰もいない自分だけの聖域。ここで彼は自分の世界を没頭することができる。だが、ここ数年、それを離れる時間が増えた。
いつからそんなことになったのだろうか?
今年はクリスマスの準備に忙しくなる。
だが、嫌な気分ではない。
いつの間にか、それを楽しみにしている自分を意外に思う。
亘の思索を破る来客があった。
窓から身を乗り出すと、見慣れたベンツが駐車場に入ろうとしている。
来訪者は、亘の父親の岸田泰彦であった。
泰彦は、先代社長に手腕を見込まれ、彼の娘と結婚して事業を継いだ。
強い意志と、多くの決断をした人間に見られる表情が顔に刻まれていた。だが、同時に柔和で人柄の温かさも全身からにじみ出ている。
こんな深夜に康彦がここを訪れたのは、由里の話を聞いて、いてもたってもいられなかったからだ。
なんという喜ばしい事であるだろうか? 亘が気にかけている娘がいると言う。
精涼学院女子大の学生で、育ちが良く、気立てがすこぶる好ましい娘だ。
それが、けしからんことに、得体の知れない若造が現れ、奴も娘に夢中だと……。
父親は亘がぼんやりとしている間に、鳶に油揚げをさらわれてしまうことを恐れて急遽駆け付けたのだ。
由里のために弁明をしておくが、彼女は不必要な尾ひれや憶測を付けずに話している。多少の誤謬があったとしても、許される範囲だろう。
それをなにをどう解釈したのか、夏樹はいつの間にか鳶にされてしまった。
「お父さんどうしたんですか?」
亘は、康彦の深夜の来訪を歓迎しながらも、ひどく驚いているようだ。
「いつもこんな時間まで?」
康彦は、寝自宅をしていない亘を見て言った。
「いいえ。今晩は、たまたま……」
亘が言葉を濁している。
康彦は、すぐにこれが亘の日常であることを察した。
「お茶でも淹れましょう」
亘は康彦をリビングに案内し、ポットにティーバッグを入れ熱湯を注いだ。
康彦は、向かい合った亘を見つめながら、自分と妻の真理子のどちらに似ているのだろうかと考える。
康彦は由里の母親と結婚するはずだったが、彼女が学生時代の友人と結婚したため、真理子と結婚し、事業を継承した。
真理子に親の決めた結婚に不満がないだろうかと、危ぶむこともあったが、彼女はそんな様子も見せず、優しく穏やかに康彦を支えてくれた。
間もなく、双子の亘と茂が生まれた。二人はすぐに自分たちの自慢の息子となった。特に亘は聡く、行儀もよかったため、大人たちからの評判もよかった。
だが、康彦はすぐに亘が大企業の経営者としては不適格であると判断した。
確かに頭がよく、性格もいいし、判断力もある。だが、重責を担う胆力、すべてを飲み込む度胸、人を惹きつけるカリスマ性がない。そして弟の茂には、その片鱗が見られた。
後継者は茂にしようと決めた。
その代わり、亘には好きなことをさせようと思った。
幸い、亘は賢い子どもで、好奇心も強く、中学生ぐらいには、自分の道を見つけていた。そして、それは順調に進み続け、亘の前途には明るい未来が開かれていたのだ。
だが、その道は突然に閉ざされる。
康彦は奔走した。破れた網を取り繕おうとするように。また、真相の解明にもつとめようとした。
それらは全てが徒労に終わり、亘は研究所を辞めた。
そして、一人暮らしを始め、書斎に籠るようになった。
だが、それ以外は何もかわらない。
いつも、穏やかで、礼儀正しく、人には親切だった。
「お坊ちゃんは余裕だよね」
「神童も二十歳過ぎたらってね……」
彼を揶揄する言葉に対しても、耳に入らないかのように静かに流していた。
亘は何一つ変わらなかった。
だが、康彦は亘の孤独を思う。
親の自分でさえ理解できない亘の世界。
論文を発表するたびに、同時に沸き起こる、称賛と誹謗中傷のさまざまの声。
もし、いっそのこと、中傷だけならばどれだけよかったことか!? もし、そうならば、亘も諦めてくれるはずだと。諦めて、新しい道を選んでくれるだろうと。
やがて、亘は、研究会を主宰するようになった。
康彦の懸念は、彼らとの交流にもある。
閉鎖的で、自己を放棄して社会に背を向ける態度、諦念に満ちた空気。行き場のない高いプライドを守るには、格好のコミュニティだろう。彼らには、恵まれた環境を持ち、人の好い亘を利用する狡猾さだけは残っていた。
康彦は、亘が彼らの影響を受けることを恐れた。
彼が唯一、好ましいと思われた人物は、荒木だけだった。
荒木は、学んだことを活かし、社会に還元しようとする意欲が見られる。
彼が亘にいい影響を与えてくれることを期待した。
「お父さん。どうしました?」
亘は父を気遣う。
亘は変わらない。希望に満ちた少年時代も、道が閉ざされた今も、いつも穏やかで親切だ。
そして、変わらないことはそれだけではないことに、亘の姿を見て気づいた。今も、昔と変わらず、狭く細い道を歩み続けているのだ。
群れを追われた孤高のライオンのように。
それはあまりにも危ういことではないだろうか? 康彦の懸念は晴れることがない。彼の記憶する亘は、メンタルがあまり強くはないはずだ。
だが、目の前の亘は以前よりもいっそう落ち着いて見える。
まるで、息子の精神を支える柱のようなものが増えたかのようだ。
由里は亘が人の世話を焼き過ぎることを、歯がゆく思っているようだが、康彦には、それこそが亘を支えているのではないかと思い至る。
まずは一安心である。亘は人生を諦めていなかった。亘はまだ若い。このまま研究を続けたいのならば続ければいいし、他の道を探すならば、それもよい。
経済面では自分がいるので、なんの心配もないはずだ。
どこまでも息子に甘い父親である。
「お父さん?」
亘は父親の様子がおかしいことに気づいたようだ。
康彦は、息子に対する不安が消えていくと同時に、言うべきことを思い出す。
ここへ来た目的だ。
彼は、自分の数少ない経験を思い起こしながら、息子に助言を与えることが義務だと、意を決した。
「亘。いいか。よく聞くんだ。若い娘さんというのはな……」
翌朝、というよりはその日の昼近い、店の始まる少し前のことである。
「由里さん!? なんてことしてくれたんです? 父に何を言ったんです?」
慌てふためいた亘は、由里に電話を架けた。
話を聞いた由里は、電話の向こうで大笑いをしている。
「なにをって……」
お腹がよじれる。というが、今の由里のような状態を指すのだろう。
笑いが止まらないようだ。
「あー! おかしい。涙がでちゃうわ」
電話の向こうで、涙を拭いているのかもしれない。
「僕がいつ、茉莉香ちゃんに気のあるそぶりを見せましたか!?」
夏樹の恋敵だなんて、考えるだけで恐ろしい。しかも全く気のない相手を間に挟んでだ。
「あら、そんな話はしたことはないわよ」
それは真実である。
「それにしても」
落ち着きを取り戻した亘が続ける。
「僕の言動を逐一報告していたなんてひどいじゃないですか」
「あら? 何言っているの? あなたが一人暮らしを認められたのは、私がお目付け役に付いたからよ」
亘は頭をハンマーのようなもので殴られたような衝撃を受けた。
「そ……そんな」
言葉が出ない。
自分は茉莉香の一人暮らしの援助をした。だが、自分も同じ状況だとは、今まで思いもしなかった。
「本当は言いたくなかったのよねぇ」
由里がすまなさそうに言った。
もうすぐ由里が菓子と食材を持って店に来る。
それまでに平静を取り戻さなけならない。
「お茶でも淹れて一息つくか……」
亘は湯を沸かし始めた。
今回の渡欧はクリスマス・シーズンの街並みを撮影するためだ。
夏樹からクリスマスのイルミネーションに彩られた街並みの画像が茉莉香に送られてくる。
嬉しそうな茉莉香のようすを見て、
「ふーん。メールなんだ。インスタにすればいいのに」
由里が不満げに言う。
サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の画像を見せると、
「あっ、そこのアイリス・ソープお土産に頼んで!」
と言った。
茉莉香は石鹸を自分と未希の分を含め三個頼む。
茉莉香の好きなメディチ・リッカルディ宮殿の中庭に夏樹が立つ画像もあった。
気負いも衒いもなく、ごく自然にその場に溶け込む姿を亘は感慨深く見つめた。夏樹には、西欧の文化がよく合うように感じらる。
「ああ、私もいつか、夏樹さんみたいに、自分のやりたいことを見つけたいわ」
茉莉香が夢見るように言う。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ヴェッキオ橋、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会………画像は続く。
「まめな男だな」
本田の仕事の合間に撮影をするのだから、容易なことではないはずだ。
夏樹は昼休みの時間に茉莉香に電話を架けてくると言う。休憩と言っても、雑用が入りやすく、ほとんど話す時間もないが、日課になっているようだ。
「ほんとにまめな男だ」
自分にはとてもできそうにない。
「ああ、ウチの人も、もっとまめに連絡くれればいいのに!」
由里がうらやましそうに言う。
亘は一瞬ヒヤリとしたが、感心ごとはすぐに他のことに移って行った。
「ああ、そうだ。クリスマス会するんでしょ? 場所決まった?」
「それが、まだなんですよ。この時期はどこも一杯で」
心当たりの気持ちのよいレストランは、すべて予約済みで、亘は出遅れたことを身に沁みて思う。
「そう……じゃあ、私も考えてみるわ」
「すみません」
楽しいイベントは由里の大好物である。さきほどの不機嫌は払しょくされたようだ。
その夜のことだった。亘は書斎で調べ物をしていた。日付はすでに翌日となり、時計はもうすぐ三時を指そうとしている。
書斎には、床から天井まで達する本棚が、壁両面に沿ってあり、それでも足りず、少し離れたところにもあり、本棚と本棚の間を歩くこともできるほどだった。
窓に向かって置かれたデスクにも、ブックスタンドがある。書類箱が重ねられ、背後から見ると、書物に埋もれているように見えるだろう。
簡易なキッチンや、トイレ、浴室もあり、仮眠用のソファーもある。その気になれば、ここを出ることなく何日も過ごすことができ、実際、亘は長い間そうしてきた。
誰もいない自分だけの聖域。ここで彼は自分の世界を没頭することができる。だが、ここ数年、それを離れる時間が増えた。
いつからそんなことになったのだろうか?
今年はクリスマスの準備に忙しくなる。
だが、嫌な気分ではない。
いつの間にか、それを楽しみにしている自分を意外に思う。
亘の思索を破る来客があった。
窓から身を乗り出すと、見慣れたベンツが駐車場に入ろうとしている。
来訪者は、亘の父親の岸田泰彦であった。
泰彦は、先代社長に手腕を見込まれ、彼の娘と結婚して事業を継いだ。
強い意志と、多くの決断をした人間に見られる表情が顔に刻まれていた。だが、同時に柔和で人柄の温かさも全身からにじみ出ている。
こんな深夜に康彦がここを訪れたのは、由里の話を聞いて、いてもたってもいられなかったからだ。
なんという喜ばしい事であるだろうか? 亘が気にかけている娘がいると言う。
精涼学院女子大の学生で、育ちが良く、気立てがすこぶる好ましい娘だ。
それが、けしからんことに、得体の知れない若造が現れ、奴も娘に夢中だと……。
父親は亘がぼんやりとしている間に、鳶に油揚げをさらわれてしまうことを恐れて急遽駆け付けたのだ。
由里のために弁明をしておくが、彼女は不必要な尾ひれや憶測を付けずに話している。多少の誤謬があったとしても、許される範囲だろう。
それをなにをどう解釈したのか、夏樹はいつの間にか鳶にされてしまった。
「お父さんどうしたんですか?」
亘は、康彦の深夜の来訪を歓迎しながらも、ひどく驚いているようだ。
「いつもこんな時間まで?」
康彦は、寝自宅をしていない亘を見て言った。
「いいえ。今晩は、たまたま……」
亘が言葉を濁している。
康彦は、すぐにこれが亘の日常であることを察した。
「お茶でも淹れましょう」
亘は康彦をリビングに案内し、ポットにティーバッグを入れ熱湯を注いだ。
康彦は、向かい合った亘を見つめながら、自分と妻の真理子のどちらに似ているのだろうかと考える。
康彦は由里の母親と結婚するはずだったが、彼女が学生時代の友人と結婚したため、真理子と結婚し、事業を継承した。
真理子に親の決めた結婚に不満がないだろうかと、危ぶむこともあったが、彼女はそんな様子も見せず、優しく穏やかに康彦を支えてくれた。
間もなく、双子の亘と茂が生まれた。二人はすぐに自分たちの自慢の息子となった。特に亘は聡く、行儀もよかったため、大人たちからの評判もよかった。
だが、康彦はすぐに亘が大企業の経営者としては不適格であると判断した。
確かに頭がよく、性格もいいし、判断力もある。だが、重責を担う胆力、すべてを飲み込む度胸、人を惹きつけるカリスマ性がない。そして弟の茂には、その片鱗が見られた。
後継者は茂にしようと決めた。
その代わり、亘には好きなことをさせようと思った。
幸い、亘は賢い子どもで、好奇心も強く、中学生ぐらいには、自分の道を見つけていた。そして、それは順調に進み続け、亘の前途には明るい未来が開かれていたのだ。
だが、その道は突然に閉ざされる。
康彦は奔走した。破れた網を取り繕おうとするように。また、真相の解明にもつとめようとした。
それらは全てが徒労に終わり、亘は研究所を辞めた。
そして、一人暮らしを始め、書斎に籠るようになった。
だが、それ以外は何もかわらない。
いつも、穏やかで、礼儀正しく、人には親切だった。
「お坊ちゃんは余裕だよね」
「神童も二十歳過ぎたらってね……」
彼を揶揄する言葉に対しても、耳に入らないかのように静かに流していた。
亘は何一つ変わらなかった。
だが、康彦は亘の孤独を思う。
親の自分でさえ理解できない亘の世界。
論文を発表するたびに、同時に沸き起こる、称賛と誹謗中傷のさまざまの声。
もし、いっそのこと、中傷だけならばどれだけよかったことか!? もし、そうならば、亘も諦めてくれるはずだと。諦めて、新しい道を選んでくれるだろうと。
やがて、亘は、研究会を主宰するようになった。
康彦の懸念は、彼らとの交流にもある。
閉鎖的で、自己を放棄して社会に背を向ける態度、諦念に満ちた空気。行き場のない高いプライドを守るには、格好のコミュニティだろう。彼らには、恵まれた環境を持ち、人の好い亘を利用する狡猾さだけは残っていた。
康彦は、亘が彼らの影響を受けることを恐れた。
彼が唯一、好ましいと思われた人物は、荒木だけだった。
荒木は、学んだことを活かし、社会に還元しようとする意欲が見られる。
彼が亘にいい影響を与えてくれることを期待した。
「お父さん。どうしました?」
亘は父を気遣う。
亘は変わらない。希望に満ちた少年時代も、道が閉ざされた今も、いつも穏やかで親切だ。
そして、変わらないことはそれだけではないことに、亘の姿を見て気づいた。今も、昔と変わらず、狭く細い道を歩み続けているのだ。
群れを追われた孤高のライオンのように。
それはあまりにも危ういことではないだろうか? 康彦の懸念は晴れることがない。彼の記憶する亘は、メンタルがあまり強くはないはずだ。
だが、目の前の亘は以前よりもいっそう落ち着いて見える。
まるで、息子の精神を支える柱のようなものが増えたかのようだ。
由里は亘が人の世話を焼き過ぎることを、歯がゆく思っているようだが、康彦には、それこそが亘を支えているのではないかと思い至る。
まずは一安心である。亘は人生を諦めていなかった。亘はまだ若い。このまま研究を続けたいのならば続ければいいし、他の道を探すならば、それもよい。
経済面では自分がいるので、なんの心配もないはずだ。
どこまでも息子に甘い父親である。
「お父さん?」
亘は父親の様子がおかしいことに気づいたようだ。
康彦は、息子に対する不安が消えていくと同時に、言うべきことを思い出す。
ここへ来た目的だ。
彼は、自分の数少ない経験を思い起こしながら、息子に助言を与えることが義務だと、意を決した。
「亘。いいか。よく聞くんだ。若い娘さんというのはな……」
翌朝、というよりはその日の昼近い、店の始まる少し前のことである。
「由里さん!? なんてことしてくれたんです? 父に何を言ったんです?」
慌てふためいた亘は、由里に電話を架けた。
話を聞いた由里は、電話の向こうで大笑いをしている。
「なにをって……」
お腹がよじれる。というが、今の由里のような状態を指すのだろう。
笑いが止まらないようだ。
「あー! おかしい。涙がでちゃうわ」
電話の向こうで、涙を拭いているのかもしれない。
「僕がいつ、茉莉香ちゃんに気のあるそぶりを見せましたか!?」
夏樹の恋敵だなんて、考えるだけで恐ろしい。しかも全く気のない相手を間に挟んでだ。
「あら、そんな話はしたことはないわよ」
それは真実である。
「それにしても」
落ち着きを取り戻した亘が続ける。
「僕の言動を逐一報告していたなんてひどいじゃないですか」
「あら? 何言っているの? あなたが一人暮らしを認められたのは、私がお目付け役に付いたからよ」
亘は頭をハンマーのようなもので殴られたような衝撃を受けた。
「そ……そんな」
言葉が出ない。
自分は茉莉香の一人暮らしの援助をした。だが、自分も同じ状況だとは、今まで思いもしなかった。
「本当は言いたくなかったのよねぇ」
由里がすまなさそうに言った。
もうすぐ由里が菓子と食材を持って店に来る。
それまでに平静を取り戻さなけならない。
「お茶でも淹れて一息つくか……」
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