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「1人でいるなんて、話題の婚約者様はどうしたんですか?もうケンカですか?」

 にたにたと嫌な笑みを浮かべて近づいてきた男は、幼馴染み、馴染みなどと言いたくはないが、とにかく子供の頃から面識のある男爵令息だった。

 顔も腹もぷっくりと膨らみ、おでこにニキビを作った男尊女卑主義者は、両手に持っていたグラスの片方を私の方に傾けた。

「結構よ。」

「毒なんか入ってないのに。」

 男爵令息はそう言って私に傾けた方のグラスの中身を一気に喉に流し込んだ。
 毒、という言葉は引っかかるが、この男が私に、ひいては公爵様に楯突く度胸があるようには思えない。いつもの無意味な皮肉だろうか。

「フローラ嬢にはがっかりしました。」

 なんの話だ。

「貴女が男の威を借る夫人がたの仲間入りをしようとするなんて。何か意図でもあるんですか?」

「私たちは愛し合っているから婚約したのよ。」

「愛?」

 男爵令息は、はっはっと汚らしく唾を飛ばしながら笑った。

「フローラ嬢は僕と結婚するものと思っていましたよ。」

「は?」

「ほら、そうやって素を出して仮面を被らずにいれる相手は僕でしょう?」

 呆れた。なんたる斬新な解釈だ。

「父同士のビジネスの関係もあるし、貴女が婿をとってアルヴィエ家を継ぐものとばかり。愛よりも、益を取る女性かと思っていました。」

「まるで自分の方が公爵様より益がある、と言っているように聞こえるけれど。」

「人殺しよりはましでしょう。」

「人殺し?」

「まぁ、いいです。すでにこうやって放っておかれているわけですし、もし閣下に捨てられたら僕を拾ったらいいですよ。そうしてアルヴィエ家を継ぐんです。僕はいつでも準備しておきますよ。」

 はっはっと唾を飛ばしながら、ようやく目の前を去って行った。

 全く身の程知らずも甚だしい。私とあいつが結婚?考えるだけで鳥肌が立つ。

 それにしても、私の婚約者は国内有数の公爵様だというのに、ずいぶん大きな態度をとっていた。
 私たちが仲違いをしたと信じ込んでいるのか、それとも公爵様を敵に回せるほど強大な後ろ盾があるのか。いや、そんな家門は存在しないだろう。ただのバカ、という線も考慮しておこう。

 人殺し、というのはどういうことだろう。前公爵夫人のことだろうか。死神の呪いにかかって亡くなられたから死神公爵とは呼ばれていたが、人殺しという言い方をする人はいなかった。

 ふと、公爵様と契約を交わした日、約束したことを思い出した。

”自ら命を絶つことだけはしないでください。”

 前公爵夫人は自殺したのではないかと思う。その事情に詳しい者から聞いたにしても、人殺しという言葉には当てはまらない。

 前を通った給仕を呼び止めて、シャンパンの入ったグラスを貰った。それをくいっと一気に飲み干す。

 分からないことだらけだが、前妻のことを考えるのは気分が悪い。
 公爵邸では前公爵夫人の部屋がそのまま残されていた。私も入ることが許されず、使用人たちの間でも開かずの間と呼ばれていた。

 どのような夫婦関係だったかなんて知りたくもないが、彼女が公爵様の心に引っかかっているのは確かだった。非常に面白くない。

「眉間にしわが寄っているぞ。」

 あぁ、すっかり忘れていた。この人がいたのだった。
 すかさず笑顔を作り、スカートを持って膝を折る。

「ごきげんよう、マーセル王子殿下。アリスはどちらに?」

「母上と一緒に客に挨拶周りをしているよ。母上が独占してしまってすまないな。」

「いえ。殿下は一緒にいなくてよろしいのですか?」

 あぁ、いや、とバツが悪そうに目を逸らすところを見るに、無理に抜けてきたのだろう。さらさらと靡く金髪を掻いた。

「少し心配になることを聞いてな。今日はなぜ公爵と一緒じゃないんだ?招待状は2人分送ったと思うが。」

「申し訳ありません。都合が悪くなってしまい。」

「ケンカでもしたのか?」

 私は眉尻を下げて笑って見せた。

「そういうわけではないのですが…。」

「まったく公爵め。前にあれほど偉そうなことを言っておきながら、婚約者を放ったらかしとは。」

 現状のアリスも同じ状態なのでは。

「僕にできることがあったらなんでも言ってくれ。」

 殿下は整った顔でにこりと微笑み、私に手を伸ばしてきた。それが頭に触れる前にひょいと避けると、殿下の手も表情も固まった。 
 ほとんど反射だったのだから仕方がない。

「あ、申し訳ありません。」

 取り繕った笑顔を向けると、伸びてきた手は慌てて殿下の腰へと撤退した。

「いや、すまない。婚約者のいる令嬢に、軽率だったな。」

 行いはともかく、その態度に裏表は感じない。私と公爵様の結婚に賛成ではないにしろ、敵対しているようにも思えなかった。

 それさえ分かれば十分だ。無駄に一緒にいる必要はない。

 さっさと離れようと思ったが、私が、では、と言う前に「フローラ嬢。」と凛とした声で呼ばれ、熱を帯びた視線を向けられた。
 殿下は眉根を寄せながらも口角を持ち上げ、物憂げに目を細めた。

「僕はアリス嬢を大切にするよ。」

 その表情と言葉に、殿下の想いの全てが集約されているようだった。そしてようやく、私は殿下へ作り物ではない本当の笑顔を向けることができた。

「ぜひ、そうなさってください。アリスは殿下の1番のお味方になることでしょう。」

 殿下は穏やかにこくりと頷き、私も頷き返した。

「フローラ嬢も、どうか公爵と幸せに。」

「ありがとうございます。」

「それじゃあ…僕は戻るよ。」

「はい、では。」

 元から爽やかな王子ではあったが、それに磨きをかけたようにすっきりとした面持ちで、殿下は婚約者の元へと戻って行った。

 胸のつかえが1つとれ、肩がすっと軽くなった。毒を送りつけてきた犯人はまだ捕まえられていないが、何もかも上手くいきそうな、そんな気分だ。

 早く公爵様に報告したい。そう思うとだんだんもうお暇してもいい気がしてきた。
 私に積極的に近づきたい人間はもう来ただろうし、今日はアリスは忙しくて一緒にいられないし、帰って公爵様と過ごした方が有意義な気がする。

 思い立ったら、即行動。
 私はアリスに挨拶をしてから用意させておいた馬車に乗り、帰路へ着いた。

 公爵邸に到着すると、「早かったですね。」そんな言葉と一緒に出迎えられた。公爵様の手を取って馬車を降り、建物に入る。

 公爵様はいつも通りだが、どこか邸内が騒々しい。
 いつもテキパキと動いている使用人たちが、所々に立ち止まってこそこそと私語をしており、普段は外の騎士棟か決まった場所にしかいない騎士たちがちらほらと邸内を歩いている。

「何かありましたか?」

 私の部屋へと向かう廊下を歩きながらそう尋ねると、公爵はぴたりと足を止め、少しの沈黙を挟んでから、「サンルームへ行きませんか?」と訊いてきた。「お話があります。」と。もちろん私は首を縦に振った。

「あ、でも、1度着替えをさせてください。」

 コルセットが苦しいので。

「分かりました。待っています。」

 メイドに手伝ってもらいながら手早く着替えを済ませ、サンルームへと向かった。

 部屋の2面がガラスで囲まれ、外の庭を眺められるサンルームは私のお気に入りの場所であったが、公爵様から誘われるのは珍しかった。
 いつも通り黒い衣服を身に付け、サンルームでお茶を飲んでいる様子は、まるでカラスが日向ぼっこをしているようで、笑いそうになったのをなんとか堪えた。

「お待たせしました。」

 2人掛けソファと1人掛けソファが直角に置かれた部屋では、先に公爵様を入室させておくに限る。2人で入る、または私が先に入っている状況では、公爵様が1人掛けソファに座ってしまうからだ。
 こうやって1人で先に入室させておけば、公爵様は2人掛けソファを選んで座っており、私はもちろんその隣に座る。今回も例外ではない。

「いえ、パーティーお疲れ様でした。」

「はい。婚約者に冷遇されているのでは、と腫れもののような扱いをされました。」

「それは…すみません…。」

 公爵様は少し背を丸めた。別に公爵様が悪いわけではないのだが。

「お邸では何かあったのですか?あちこちざわついておりますが。」

「はい、例の毒の贈り物ですが、邸内で犯人の協力者を見つけたので、揃って出身地へと送り返しました。」

 それは急展開だ。

「揃って、というと?」

「3人いました。執事に1人、メイドに1人、調理人に1人。いずれも自白をさせ、即追い出しました。」

 追い出して出身地へ送るというのは手ぬるいと思ったが、その優しさが公爵様らしい。

「次は無いと主人へ伝えるように言づけたので、もう何もしてこなければいいですが。」

 どうやら公爵様は黒幕に心当たりがあるようだ。それを私に話さないのはなぜだろう。

「よく見つけましたね。証拠も証言もほとんど無かったというのに。」

「えぇ、まぁ…。」

 最後の方は声が小さくて聴きとりにくかったが、恐らく「覚悟を、決めましたから。」と言った。

 私も朗報を伝えようと思ったが、臆病な私が待ったをかけた。
 婚約式を挙げたとはいえ、私と公爵様はまだ婚約段階。しかも物騒な嫌がらせも受け、犯人の協力者を罰したとはいえ、黒幕自体を捕まえてはいない。
 この状況で私の方の問題が解決してしまえば、優しい公爵様のことだから、私の為にと婚約破棄を申し出るかもしれない。
 ここまで来て、それは絶対に嫌だ。

 私は王子殿下の件について、結婚式が終わるまで胸に秘めておくことに決めた。

 
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